2013年2月27日水曜日

マルク・ミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊演奏会(2013年2月25日、東京文化会館)

春を待つ上野公園の桜の木々は、それでもひところに比べれば随分明るくなった真っ青な空に、むき出しの枝を突き上げている。夕暮れともなると肌寒い北風が容赦なく吹いてきて、私はもう一度コートの襟を立て直した。6時前でも結構明るいというのに、ここ数日の東京はすっぽりと寒気に覆われていて、季節の歩みがストップしてしまっている。

公園内に昨年オープンしたスターバックス・コーヒーのチェアに腰掛けて、トールサイズの温かいココアを飲みながら、開演前の時間をつぶした。これから聞くミンコフスキの指揮するルーブル宮音楽隊(Les musisiens du Louvre, Grenoble)によるシューベルトの演奏会を前に、古楽奏法がすっかり定着したあとのシューベルトの音楽がどんなに新鮮なものかを想像していた。シューベルトのコンサートに出かけるのは久しぶりである。曲目はかつて第8番と呼ばれた「未完成」(第7番)と、やはりかつては第7番とも第9番とも、あるいは第10番とも呼ばれた「グレイト」(第8番)。前者はロ短調、後者はハ長調である。

思えばシューベルトの管弦楽曲は、別の曲のコンサートの穴埋めに演奏されるのが常だった。それもほとんどが「未完成」である。「運命」と同じくらいに有名なこの曲を、私はこれまで一度も実演で聞いていないことに気づいた。「グレイト」は一度だけ、サヴァリッシュ指揮のN響で聞いている。これは長い曲なので、プログラムの後半に置かれるが、一般的には比較的インパクトが少ないのでコンサートでは人気が出ない。全体にシューベルトはコンサート向きではないと考えられているのではなだろうか。

だが、オール・シューベルトのプログラム、それも月曜日の上野とあってはさぞ閑散とした人出ではないかと思っていた。ミンコフスキなどという古典派以前の曲しか演奏しないような団体のたった2度目の来日公演である。ところが予想に反して客席はほぼ満員であった。私は平均すると月1回程度はコンサートに通っているが、今回のコンサートではなぜか非常に緊張し、そして前々から夢にまで見るほど興奮していた。その理由はわからない。席が前から2列目の端っこでいつもの3階席とは視界が随分違う。

開演前のチャイムが鳴ってオーケストラが姿をあらわすまでに5分以上の間隔があった。ルーブル宮音楽隊は、グルノーブルのオーケストラなので、基本的にフランス人である。そしてミンコフスキは1962年生まれというから、私とは4歳しか違わない。背はむしろ低く、少し太っているので老けて見える。その姿を向って右斜めより見上げる形である。近くには対向に配置された第2バイオリンと金管楽器、それにティンパニが見える。その他の弦楽器と木管楽器は視界にない。

「未完成」は静かな出だしだが、何かとても緊張する曲だ。いつもはCDで聞いている「あの」甘く切ないメロディーが、本当に聞こえてくるのだろうか、と楽器の弾けない私などは思ってしまう。だからすすり泣くような音が聞こえてくるだけで感動し、胸がキュンとしてしまう。基本的にこの曲は3拍子が続く。決して静かな部分ばかりではないし、第1楽章はアレグロ・モデラートなので、遅いというわけでもない。古い楽器を使った演奏で、強弱をしっかりとつける最近の傾向の演奏かとおもいきや、それが適当なものに聞こえるのは当方の耳が馴れているからか。

それにしても第2楽章を聞いていると、なぜか若いころのことを思い出すから不思議である。それも中学生や高校生の頃。 学校に残って物思いに沈んでいると、校舎の影が延びてきて空が赤く染まる、などといった風景だ。秋の風がすっと吹いてきて、落ち葉がひらひら。なにかとても懐かしい気分になるだけでなく、それが喩えようもなく切ない。このような時間を持つことが最近はどれほどあっただろうか。音楽を聞く楽しみには様々なものがあるが、実際のコンサートであるにもかかわらず、目を閉じて耳を澄まし、次々に流れてははかなくも消えてゆくメロディーに、少しでも長く浸っていたい、と思う。シューベルトのマジックだろう。

ハ長調の交響曲は「未完成」とはまた違った味わいのある曲で、このような曲がベートーヴェンやマーラーにある魅力とはまた確かに違う。その響きは、敢えて言うとブルックナーの先駆けと言うべきか。まずその長さで「天国的に長い」といったのはシューマン、初演したメンデルスゾーンも楽譜を短縮したという。ゆっくりと演奏すればだれてくるし、速いだけでは美しくない。不思議な曲だが、メロディーは何とも素晴らしい。第2楽章の中間部で音が複雑に重なってクライマックスになったところでパッととまる。ブルックナーのような休止のあと、静かに流れだす弦楽器のメロディーなどは何と例えたらいいのだろう。

私の大好きな第3楽章のトリオは、木管楽器の見せ場でもあるが、ここのメロディーがどれほど印象的かいつも注目する。ミンコフスキはしゃがんだように背を低く屈めたかと思うと、突然パッと背伸びをして体を大きく広げ、さらには両手を左右に振る。あるときは指揮棒を口に咥えたり、譜面をパラパラとめくったり、このフランス人はかっこうをつけるのが好きなようだ。そこで思い出したのが、ベートーヴェンの指揮姿だ。伝記によれば、その身振りはとても大げさで、熱情的だったというが、それに似たような指揮ぶりとでも言おうか。

第4楽章のリズムに乗った演奏は、管楽器の一部にほころびも生じたが、全体的には大変に充実したもので、バイオリンの女性が嬉しそうにリズムを刻んでいたのが印象的だ。乗ってくると長大な曲も長く感じない。もう終わってしまうのが惜しいというほどだ。だが、いつまでも聞いているわけにはいかない。まあこれくらいで満足したかと思う頃に曲は終わる。満場の席からは大きなブラボーも聞こえ、もっと長く拍手をしていたかったが、オーケストラは割に早々と引き上げてしまった。 寒風吹きすさぶ2月の上野の坂を下りながら、いつまでも果てることなく続くメロディーが頭の中で鳴り響いていた。

2013年2月26日火曜日

ウォルフガング・サヴァリッシュ氏、死去

私がお気に入りの指揮者のひとりであるウォルフガング・サヴァリッシュ氏が89歳で亡くなった。サヴァリッシュの実演には何度も接しているし、CDはいくつも持っているが、そのどれもが思い出深い。私が初めてサヴァリッシュの演奏に接したのは、中学生の時でNHK交響楽団のテレビ中継だった。曲はベートーヴェンの交響曲第8番。いつもとは違うN響の音はモノラル録音でも感じ取れた。

初めての実演は、NHK交響楽団とのモーツァルトの第39番、第40番、第41番「ジュピター」を、大阪のいずみホールのこけら落としで演奏した1990年5月3日。これは大変熱のこもった名演で、静まり返った中での集中力が素晴らしかった。一人スタンディングで拍手した。後年東京に移り住んだ際、N響の定期会員になって雑誌「フィルハーモニー」を読んでいたら、サヴァリッシュのインタビュー記事が掲載されていた。その中で「最も思い出に残る演奏」のひとつに、このいずみホールでのモーツァルトを挙げていたのを発見し、非常に嬉しかったのを覚えている。

次はシューベルトの交響曲第8番「グレイト」。この曲の持つ深い味わいは、私をぐいぐいと演奏に引き込んだ。中でも第3楽章のトリオ部分がこれほど美しい音楽であったのかと思い知らされた。実は今日は、そのシューベルトの「グレイト」交響曲をミンコフスキの演奏で聴いてきたばかりで、この曲を実演で聞くのはこの時以来である。このことはまた改めて書こうと思う。

そしてN響第1500回記念定期演奏会となったメンデルスゾーンの「エリア」。この日はサントリーホールだったが、それなりに高いチケットを買って出掛けた甲斐があったと思う。今日タワーレコードで何か追悼用のCDを買おうと思い、手にしたのは若きサヴァリッシュがゲバントハウス管弦楽団を指揮して録音した「エリア」だ。2000円したが購入した。

フィラデルフィア管弦楽団との名演も忘れ難い。1995年にカーネギーホールで聞いたベートーヴェンの「田園」は、何か都会的な感じの演奏だったが、私の好みにあったもの。サヴァリッシュの演奏はいつも音楽がわんわんと鳴っている。この他にもN響とはいくつか聞いているが、CDでもいつも新譜を楽しみにしていた指揮者だった。

そのCDコレクションでは、まずバイエルン国立管弦楽団との管弦楽曲集が最も最初の私のお気に入りで、この指揮者の最初の購入CD。スッペやオッフェンバックの序曲のほかに、ロシアものの管弦楽曲などが2枚に録音されている。ストレートで真面目な演奏は、エレガンスは少ないが私は好きである。

古い録音では何をおいてもあげられるべきは、シューマンの交響曲全集。シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音が、サヴァリッシュの正確で無駄のない棒さばきに応える。録音も悪くない。シューマンの交響曲の古典的スタンダードと言える。

後年の演奏ではコンセルトヘボウとのベートーヴェンの交響曲第1番。全集の中で最も良い出来栄えだと思う。ロンドン・フィルとはブラームスのピアノ協奏曲が良い。独奏はコヴァせビッチ。そして盟友フィラデルフィアとは数々の録音があるが、私が持っているのはまず、シュトラウスの家庭交響曲。これは来日時のサントリー・ホールでのライヴで良い録音。さらにワーグナーの珍しい管弦楽曲を集めた一枚(については改めて書く予定)。そして隠れた名盤であるチャイコフスキーの「白鳥の湖」(全曲)。これは大変素晴らしい。あまり教えたくない宝物。サラ・チャンを独奏に迎えたパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番もこの曲のベストのひとつで、私の愛聴盤である。サヴァリッシュの巧みな伴奏が素敵で、この指揮者とイタリア音楽の相性はわるくないと思っているが、ドイツものの曲がメインの選曲は、少し損をしていると思う(今日、レコード屋でウィーン・フィルを振ったザルツブルクでの「マクベス」が売られていた。かなり興味はあったがライブ録音の音質が不明で断念)。

オペラDVDではモーツァルトの「魔笛」が思い浮かぶ。バイエルン国立歌劇場のライブで、このコンビの黄金期。CDになったドレスデンでの「マイスタージンガー」も持って入るが、まだ聞いていない。シューベルトの一連の録音(ミサ曲、交響曲)は今後揃えたいディスクとして、いつもお気に入りリストに登録されている。その他に若き日のバイロイトの録音は、いずれ聞いてみたい。

またひとりドイツの巨匠がいなくなった。合掌。



2013年2月25日月曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)⑦


九州旅行最終日の朝は福岡市近郊を行く夜行列車から始まった。夜が明けて車内アナウンスが再開される頃、原田駅に降り立った私は、筑豊本線の始発列車に乗った。先日見たボタ山を眺めながら飯塚を過ぎ、降りたのは直方だったか勝野だったか。ここから今はなき宮田線というのに乗り換えて、たったふた駅先の筑前宮田までを往復した後は、筑豊本線をさらに進んで折尾まで出た。ここは鹿児島本線との接続点だが、筑豊本線はこの先、若松まで伸びている。確かこの区間は別の列車に乗り換えたのではなかったかと思う。


若松から引き返して折尾駅で鹿児島本線に乗り換え、今度は香椎駅へ。ここはあの「点と線」(松本清張作の推理小説)で登場する駅である。香椎駅で香椎線の海側の支線に乗り換えて海の中道を行く。玄海灘に突き出すように砂州が伸びる海の中道は、かつて福岡国際マラソンのコースだったが、風が強いのか記録がでないためにルートが変わってしまった。終点の西戸崎には公園がある。そしてあの教科書に出てくる「漢委奴国王」の金印が出土した志賀島と陸続きとなっている。これは「魏志倭人伝」において卑弥呼に送ったと記録のあるものである。志賀島とは陸続きであることは、志賀島が地理で言うところの陸繋島であり、こういった様々な理由によって私はこの香椎線の博多湾側の支線に乗りたかったのだ。天気は持ち直して曇っていたが、乗客はほとんどおらず、私は何両かで走る列車の窓を開け放して春の風に打たれていた。

博多へ向かい特急「かもめ・みどり」に乗り換えて向かった先は佐世保の手前の早岐で、ここから向かい側のホームに停まっていた上りの特急「みどり」で佐賀まで戻るといったマニアックなことをするのはこれが最初で最後であった。唐津線で唐津を目指したが、数日前には行けなかった唐津と西唐津の区間を乗る。帰りは西唐津から歩いて商店街を戻り、筑肥線で博多へ戻った。


昨日からの雨もすっかりあがって、夕方からは晴れてきた。3月の終わりの九州は、桜の花が咲くのを待っていた。玄海灘からふく風は、どこかにあたたかみを感じる風で、防風林の脇を高架で走る筑肥線の窓からは、夕闇に染まる海が見えた(と思う)。博多駅のネオンサインに別れを告げ、新大阪に着いたのは23時を過ぎていた。一人旅となった後半の九州旅行は私にとって受験失敗後の感傷旅行のようでもあった。だがそれゆえに、中途半端な旅行を続けるのが徐々につまらなくなっていた。4月から再び受験生活が始まるまでの僅かな期間、私は残りの「青春18きっぷ」を使い切るために出掛けた日帰り旅行で一時の息抜きを終えた。

2013年2月24日日曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)⑥

臼杵駅を出発した夜行列車はまもなく早朝の延岡に着いた。仮眠程度にしか眠っていなかったが、私はここで降り高千穂線の始発列車に乗った。高千穂線は今回の目的の一つで、有名な日本一高い鉄橋を渡ることで有名であった。この路線は何と言っても神話のふるさと高千穂峡への観光に最適な路線であり、計画通りなら熊本県境を越え、高森線(現在の南阿蘇鉄道)と接続される予定だった。だが、台風の被害が大きく廃止されてしまった。
 
その高千穂橋梁は、終点から2つ目の深角駅と次の天岩戸駅の間にかかっていた。高さが105メートルということだが、上から乗って見た印象ではまわりの山々がそれなりに高いので、それほど凄いというほどでもなかったと記憶している。それよりもこの橋に到達するまでの時間が長く感じられたことと、終点の高千穂駅には何もなかったことを覚えている。しかもこの日は雨だった。そのことによって私の高千穂線の旅は印象の薄いものになった。なお、鉄橋を渡る際には列車が徐行運転をして途中で停まり、解説の放送まで流れた。毎日乗っている人には余計なことだと思われた。

延岡へ引き返し、次に向かったのは鹿児島の指宿枕崎線である。この線は今でもあるが、全長は90キロ程度もあり、単線非電化なので片道二時間半もかかる。おまけに終点の枕崎からは、伊集院へと向かう鹿児島交通の鉄道路線がすでに廃止されていて、そこから先へは鉄道がない。このため同じ路線を戻ることになるので、全部で5時間以上を要することとなるのである。

指宿枕崎線は鉄道好きにとっては、最南端の駅である西大山駅を通ることや、その時の特徴的な薩摩富士(開聞岳)などの車窓風景もあって有名ではある。だが、観光地である知覧へは行かず、指宿温泉にでも泊まらない限りは、少々退屈である。加えて私が乗車した日は朝から大雨であった。噴煙を上げる桜島を見上げるjこともなく、指宿に着いてもますますその雨脚はひどくなり、日もくれて何もすることがない。湿気で車内は蒸し暑く、混雑している。

結局この日は悪天候のため、ただ「乗った」というだけの一日だった。何度目かの西鹿児島駅で夕食を取り、またもや夜行に乗り込んだ。目指すは北九州である。当時は夜行列車にもそれなりの客が乗っていた。私が高校生であることを知っていながら、向かいに座った老人は私に焼酎を勧めた。旅の友として社交辞令のつもりであったのだろう。九州ではお酒が重要なコミュニケーションの手段であると思っていたので、私は断ることができなかった。だが疲れがどっと出て、私はまもなく睡魔に襲われた。列車のアナウンスが東海道新幹線の積雪による遅れを報じていた。南九州の列車ダイヤが岐阜の大雪で狂うのも滑稽だったが、中央集権国家の象徴たる鉄道というのはそのようなものなのだろう。


ただ時刻表をなぞっていくだけの旅行にどれほどの創造性があるというのだろうか。ただ退屈しのぎに、持て余した暇とわずかな体力を浪費しているに過ぎないのではないか、などと思った。鉄道旅行などというものが、さして意味のあるものではないと思われて仕方がなかった。飽きて来たのだろうと思った。受験勉強の合間の息抜きという以上の意味は、見いだせそうになかった。だから私はもう帰ろうと思った。後一日のり歩いたら、大阪へ帰ろうと思った。その時はもちろん新幹線に乗ろうと思った。列車は単調なレール音を響かせながら、夜中の東シナ海沿岸を北上していた。

2013年2月23日土曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)⑤

大阪に一時帰宅してわずか数日後、南九州を目指して大阪駅を出発した。今度は一人旅である。そのまま山陽本線を下るのは面白くないので、私はまだ一度も行ったことのない四国を経由するこにした。四国は当時、大阪からは近くて遠いところだった。今のように長い橋が3本も架けられる前の話である。当時関西から四国に行くには、神戸や和歌山からフェリーに乗るか、伊丹から飛行機でいくしかなかった。南海電鉄などは難波から、徳島行きのフェリーに乗り継ぐための特急列車を走らせていたくらいだ。

いまひとつ四国に鉄道で行くには、岡山から宇野まで行き、そこから宇高連絡船に乗るという方法もあった。この連絡船は国鉄が運行しており、青春18きっぷでそのまま乗ることができた。所要時間は確か1時間で、その間は瀬戸内海の風景を眺めることができる。高松に着いたのは丁度お昼頃だったと思う。瀬戸大橋線ができた今とは違って高松駅は、フェリーが到着する四国の玄関口で、雑然とはしていたが活気があった。高松駅からは予讃本線に乗り、松山を目指す。

瀬戸内海をのんびり走る予讃本線は、ときどき長い停車時間の駅があったように思う。私は伊予西条や新居浜といった駅に到着するたびに、駅前を小一時間散策し、そして再び列車に乗り込んだ。四国山地がなだらかな傾斜を伴って瀬戸内海に落ちる。その丁度中間くらいの高度を、カタコトと言いながら列車は春の日差しの中を進んでいった。

結構な時間を要して松山に到着した時には、日もくれていた。夜の8時ともなると、県庁所在地の駅とはいえもう最終列車の趣きである。ここから八幡浜まではさらに2時間を要した。夜の八幡浜は静かな漁港で、これといって見るものはないようだったが、もとより夜も更けていく時間なので仕方はなく、私はフェリーののりばへ急いだ。人気のない漁港の居酒屋から、カラオケに興じる客の歓声などが漏れ聞こえ、それ以外に音や灯りはなく田舎の夜はこうもさびしいものかと思った。

八幡浜から石仏で有名な大分県の臼杵へ向かうフェリーは、日付が変わった頃の出航だった。所要時間は2時間半ほどで、深夜の3時頃に臼杵に着く。この2等船室で仮眠を取る予定だった。だが平日深夜の豊後水道を渡るフェリーに乗り込んだのは、長距離トラックとその運転手ばかりだった。2等船室の雑魚寝スペースでは、出向前からビールを片手に乗り込んだトラック野郎が、大声でしゃべりながら飲んでいる。みな顔見知りなのか打ち解けて入るが、そこに単独で乗り込んだ私は大層居心地が悪い。ここは寝てしまおうと横になっていたが、いつのまにか宴会の席もすぐに静かになった。

夜の海は真っ暗で、吸い込まれそうなほど不気味である。私は甲板に出ようと思ったが怖くなり、ひたすら到着を待った。深夜の臼杵港に到着したことを知らせる汽笛が鳴るときには、さっきまでいたトラック運転手がもういない。彼らはすでに各自のトラックに乗り込んで走りだすのを待っていた。私も客室から出口へと向かった。そこは自動車の駐車スペースで、その脇から乗下船する小型のフェリーである。だが他に客はいない。そして車はみな大型のトラックである。そのうちの何台かは家畜運搬車で、豚や牛の匂いと鳴き声が轟いている。私は何か恐ろしいものに乗り合わせたように思った。

問題は臼杵港からどうするかである。待合室のようなところがあればそこで夜を明かそうと考えていた。だがそのようなところへ行くには、真っ暗な港をトラックに引かれないように周らなくてはならない。だが基本的にトラック運搬用のフェリーには、そのような配慮もなく、乗船員もいない。私はどうしようかと焦っているうちに大きな乗り込み口がゆっくり開いて、向こう側に陸地が見えた。私は一目散にそこを出ると、そこにはただ1台だけタクシーが停まっていた。丸で私を待ってたかのようなタクシーに私は飛び乗り、駅に行くように運転手に告げた。何分か走って臼杵駅に着くと、まもなく西鹿児島行き夜行列車の到着時刻だった。私はその自由席に飛び乗り、ボックスシートを専有した。九州とはいえ3月の深夜である。吐く息は白かった。だが列車は静まり返っており、フェリーに比べると何と上品で心地よい乗り物かと思った。

2013年2月22日金曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)④

甘木線の一番列車に飛び乗って、終点の甘木駅に着いたものの、そこには何もない。駅舎のガラスは割れていたりするのを覚えている。それで引き返し、今度は鹿児島本線を下って久留米まで行った。工場の労働者の出勤時間に重なり、駅で缶コーヒーを買う人などでごった返していたが、私はここで友人ととうとう別れた。

気の合う友人とはいえ、同じ列車にまる4日も乗り続けていると、お互い気まずい雰囲気になってくるものだ。彼は大阪へ帰ると言い出すし、お金をかけたくないそうでそのまま山陽本線を鈍行で帰べきだと主張する。私はもう少し乗っていない路線などに出かけ、追加料金を払っても最終の新幹線で帰ればいいと言ってみる。ここで話はついに決裂した。甘木線に乗ったのは時間が余ったからで、これから久大本線経由で大分まで行こうと私は考えていた。甘木線はその後間もなく廃止されてしまった。

一人で乗る久大本線は、日田英彦山行きのディーゼル列車であった。遠くに九州山地の山並みが見えるが、線路から山のふもとまでは平野が続く。いくら見ていても変化のない景色だが、それはのどかである。春の朝日が車内に入り、空いた列車はコトコトと静かに走っていく。それに合わせて私もうとうとしているとあっという間に1時間以上が経過した。さらに大分まで乗り継ぐ。由布院を通るあたりは特徴のある九州の山を眺める。そう言えば九州の山はみな個性的である。

大分に着くとわずか1分の乗継時間で豊肥本線に乗り継ぐ。今度は急行である。つまり九州を西から東へ横断し、折り返して今度は東から西へ横断する。大分を出てしばらくは平凡な上りだったが、分水嶺を超えて熊本県に入ると一気に景色が開け、阿蘇の外輪山が見事に見えた。私は感動し、ゆっくりと下っていく車窓風景を眺めた。この阿蘇から熊本までの区間は、今回の九州旅行の二つ目のハイライトであった。九州山地を一気に下る(途中にスイッチバックもある)豊肥本線の最終区間は、地形が急峻で一気に山を駆け下る見事なものだ。

熊本から特急で博多に出ると私はとっさにある考えを思いついた。これから大阪へ帰る一応の目的は、合格発表のためである。だが受験の出来が悪かった私は不合格を確信していた。不合格の場合、浪人生活を送るために必要な予備校の入試!というのが一応発表前に行なわれるので、それを受けなければならない。だが、それが終わると、晴れて?浪人生活の身となり、何にも拘束されない日々が続くはずである。予備校の入学式は4月だし、それまでは勉強する気にもなれない・・・。

それならいっそ、今回乗れなかった高千穂線や指宿枕崎線に乗ってみたい。日本一高い鉄橋や開聞岳に未練が残る。だが、これらの路線は長い盲腸線で、往復することになるから時間がかかる。そういうマニアックな旅を続けるのも徐々にバカバカしくなってはきたが、ここまできたら行かないわけには行かない。

九州ワイド周遊券は有効日数が確か14日だった。わずか5日で大阪へ帰るのはもったいない。そこで私にひらめいた考えは、旅を一旦中断することだった。周遊券で小倉までは乗車できるから、新幹線のきっぷは新大阪までの特急料金と、小倉から新大阪までの乗車券となる。今日中に最終の山陽新幹線ひかりに乗って大阪へ帰り、予備校の入試と合格発表を済ませた翌日、「青春18きっぷ」でも買って再び九州に戻ろうではないか。その時には、山陰本線経由で行くか、それとも四国を経由するか・・・。

私は3月の浪人生活最初の日々を、ただ鉄道に乗り続けることで気を紛らわす戦略を採用することに決めた。日が暮れてから乗車する山陽新幹線上り列車は、1車両にひとりというくらいにすいていた。3人がけのシートを回転させて6人向かい合わせとし、そこに一人足を伸ばして専有した。新大阪までの3時間は、世の中にこんな快適で速い乗り物があるのだろうか、というくらいに豪華に感じられた。それもそのはずで、私はとうとう九州でただの一泊も旅館などには滞在しなかったことになる。だが私はまだ若く、疲れるといった感じは何もなかった。それどころか列車の中で時刻表を見ながら、翌週にも戻る九州へのルートを検討し始めていた。

2013年2月21日木曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第8回目(1985年3月)③

九州旅行4日目の行程は、都城から始まった。朝の吉都線で吉松へ。ここは霧島高原を北上する美しいルート。そして粟野へひと駅戻ると、今度は山野線で水俣へ。川沿いに綺麗な山並みを眺めながら、ゆっくり下るローカル線は、私を心地良い春の居眠りに誘った。そのせいかどうかわからないが、ここの記憶がほとんどない。乗り換えの田舎の駅で、同じような鉄道ファンが一生懸命写真を撮っている風景を覚えている程度である。

吉都線は今でも走っているが、山野線は私が乗車したわずか3年後に廃止されている。ここには大川ループという部分があって、勾配を登り降りするためのぐるっとまわる線路があった。私も乗ったのだとは思うが、残念ながら記憶にない。今では廃線跡となっていると思われる。中には廃線跡を歩く趣味の人もいるようで、地図好きには楽しいのかも知れないが、何も線路跡を散策しなくても良いわけで、今ではほとんどなくなったローカル線趣味の補完的なもののような感じがして、好きになれない。

水俣からは特急で八代あたりまで出たのだと思う。次に乗ったのは、記録によれば肥薩線ということになっているからだ。この肥薩線は私の九州旅行のクライマックスのひとつと言ってもいい。有名な大畑ループとスイッチバック、その向こうに広がる高原の風景。ローカル線のひなびた駅に列車が停まり、対向列車がすれ違うのを駅に出て眺めていた。南国の春の涼しい風が頬を撫でた。私は受験勉強の期間に忘れていた自由な時間を楽しんでいた。

それにしても九州の地図を眺めても、ここの肥薩線がこのような区間を走るとは想像していなかった。それどころか、このルートは鹿児島本線が海沿いのルートを走るまでは、熊本から鹿児島へ抜ける唯一の幹線だった。つまりは鹿児島本線だったということだ。これは明治時代の話しである。当時作られた橋やトンネルが、今でも使われているのだろう。蒸気機関車でも登れるようなゆるい勾配にするためループやスイッチバックが設けられた。だがこれを通るには時間がかかる。のんびりした時代には、それでも鉄道で超えていけるというだけで近代の象徴でもあった。そこには今ではトンネルで一気に鹿児島から八代へ抜ける九州新幹線が走っている。

球磨川と人吉は、そういうわけで幹線ルートからさらに遠ざかる結果となった。現在「えびの高原鉄道」となっているのは観光PRに力を入れているからだろう。それは当然のことかもしれない。だがそうなればそうなったで、あの風情は失われてしまっただろうと思う。だから私は再度ここに行ってみたいとは今でも思っていない。

何度目かの西鹿児島に戻った私たちは、ここから出ている指宿枕崎線に乗ろうかと考えた。だがこれを往復するとそれだけで何時間もかかる。ここまで来たら是非行ってみたいとは思ったものの、夜行列車はまもなく博多へ向けて出発しようとしている。当時西鹿児島には東京行きの寝台特急「富士」なども走っていたので、私たちはその出発風景などを目に収め、4日目の夜行急行に乗り込んだ。もちろん座席車である。クロスシートの片側2席を占領し、缶ジュースの空き缶でシートを浮かせるようにして斜めのベッドを作り、頭を通路側の座席の手すりに置き、足を窓に沿って上へ突き上げる。このような姿勢を保ったまま眠りに入ると、それ以降に乗ってきた客に起こされる心配はなかった。だがその日は少し混雑していた。早朝の熊本駅で下り列車とすれ違った時には、私は起こされ、その長い停車時間を利用してジュースを買ったりスタンプを押したりした。3月の九州はまだ寒かった。だが春休みのシーズンに入り、観光客が関西方面からも来ていて、それまでの日とは違った華やいだ感じがするのだった。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...