2014年6月27日金曜日

ハイドン:交響曲第88番ト長調(ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団)

第88番、第89番の交響曲は「トスト交響曲」と呼ばれている。終盤に向けて一層の円熟味を増すハイドンの交響曲も、第88番はまたひとつの枠を抜けだした作品であるように思う。その音楽的な深みからか、この曲を録音している指揮者が昔から多い。それも巨匠と呼ばれる指揮者が、丸で申し合わせたかのようにこの曲で競演している。

フルトヴェングラー、ベーム、セル、クナッパーツブッシュ、バーンスタイン、ライナーなど思いつくだけで錚々たる布陣。それまでの曲にこれほどの取り上げられ方をされている曲は思いつかない。そしてこのブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮した一枚も、その中に名を連ねる。なぜだろうか。それはこの曲が持つ、革新的とも言えるロマン性にあるのではないだろうか。

第2楽章を聞くと良い。この楽章は丸でシューマンのようだ(そう言えばひところ、フルトヴェングラーのレコードはシューマンの交響曲第4番との組み合わせだった)。ここだけを聞くとこれがハイドンの作品であると気づくのに時間がかかる。

第1楽章の、実に丁寧で細部にまで神経を行き渡らせた正確な序奏部分を聞くだけで、この演奏が今なお数多くの録音の中でも十分に歴史に耐え得る完成度を誇り、新鮮さを失っていないことに気付く。かつてLPレコードで聞いたコロンビア交響楽団との一連の録音では、ステレオ初期の欠点により何とも厚ぼったく、時には無機的にさえ感じられたのが、リマスターされCD化されると、何か別の演奏に変化したかのような気がした。

ワルターは晩年にあってもなお非常に厳格で格式が高く、それに加え高貴であった。ドイツ音楽の流れを継承しているが故に、古典的な作品にこそその特質が表れているとすれば、このハイドン(やもちろんモーツァルト!)こそ後世に残されるべき遺産であと思われてくる。その真骨頂とも言えるのが、限りなくロマンチックな第2楽章だ。

実際に私は、この楽章を聞いてから「この曲はワルターで聞いてみたい」と思った。その逆ではない。この第2楽章ほどワルター節が似合う曲はない。ある意味で今ではすっかり聞かれなくなった手法、つまりモダン楽器によるビブラートやルバートを多用した節回しは、深く物思いに沈んだかと思うと、すっと目を覚まして確固たる足取りで前進し、その脇の美しい花に見とれる。何かそのような情景が目に浮かんで来る。

テンポは遅く、それにだんだんと止まりそうにさえ感じられるのだが、ピチカートで弦楽器がリズムを印象深く刻むその合間を、弦楽器や木管楽器が鳥のように舞い上がる。こんなロマンチックな歌は、晩年のバーンスタインにも見られた。バーンスタインは師匠をモデルにしたのだろうか。

第3楽章も第2楽章と並ぶ大きさを持っている。ゆっくり堂々たるテンポを持つ、こんな充実したメヌエットを聞くのは久しぶりである。モーツァルトのような軽やかさはない。丸で何十人もが踊る舞踏会のようだが、中間部になると独特のアクセントを伴ったリズムが面白く、ここでも細部にまで心を配るワルターの指揮が冴えている。

これら2つの楽章を経て続く第4楽章は、小規模で軽やか、少し諧謔的でもある。ここでも乱れのないアンサンブルは完璧で、マーラーの流れを組む大指揮者で聞くハイドンも、ヒストリカルな意味を持つにとどまらず、今でも聞き手に新鮮さをもたらす。カップリングされた「軍隊」とともに、このCDは所有価値が高い。

これに比べるとベルリン・フィルとともにスタジオ録音されたフルトヴェングラーの演奏は、とても大人しい演奏に思えてくるが、このように往年の大指揮者が振ったハイドンを聴き比べるのも興味深い。

2014年6月26日木曜日

メンデルスゾーン:序曲「真夏の夜の夢」作品21(コリン・デイヴィス指揮ボストン交響楽団)

Midsummerを辞書で索くと「盛夏」などと並んで「夏至」という意味が記載されており、「日本と違って快適な時期」などとおせっかいなことまで書かれている(「ジーニアス英和大辞典」)。だからシェークスピアが書いた本作のタイトルは「夏至の夜の夢」がより正しいだろう。そのためかかつて「真夏の夜の夢」と訳された題名が、最近では「夏の夜の夢」と変わりつつある。一方我が国で「夏」というと五月の初夏からお盆の頃までを指し、その長さは随分と長い。日本で「真夏」というとその期間は、梅雨明けからお盆までの数週間である。花火大会などが開かれるイメージだ。

ところが「夏至」は昼の長さが最も長い日のことで6月下旬のわずか1日を指し、そういう意味で「夏の夜の夢」と言ってしまうと時期をかえってあいまいにしてしまっているような気がする。

クラシック音楽の世界では、「そはかの人か」(歌劇「椿姫」の有名なアリア)などと言うように、一度定着した古めかしい言い方を続ける傾向があり、それはそれで独特の味わいもあるため、誤解の生じない範囲で古い言い方を好む人も多い(つまり保守的だというわけだ)。というわけで、これは私のコレクションでは「真夏の夜の夢」のままと考えている。

その劇音楽の作品番号は、序曲が作品21で、それ以外の部分(には有名な「結婚行進曲」などが含まれる)は作品61となっている。これは作曲年代の違いによる。ベルリンに住んでいたメンデルスゾーンは、まだそれほど有名ではなかったこのシェークスピアの劇に出会い、まず序曲の作曲を手掛けた。ここではその序曲のみを取り上げた。

先に触れた弦楽八重奏曲が、天才メンデルスゾーンの作風が確立したもっとも初期の作品だとすれば、これは管弦楽作品としてのそれであると思う。そのくらいこの作品の完成度は高く、一度聴いたらなかなか耳を離れないくらいの印象を残す。おそらく誰もがそう思ったのであろう。だからこの序曲を聞いて、本篇の作曲依頼が舞い込んだのだろう。

メンデルスゾーンは劇付随音楽として全曲を完成させるに際し、若干17歳のときに作曲したこの序曲をそのまま採用している。従ってもはや改訂の必要がないと判断したことになる。確かに全体を聞いても序曲だけが未熟で浮いている、などということは全くない。

ヴァイオリンのトレモロで始まる冒頭部分は、指揮者の違いを聞きわけるひとつのポイントであろう。私も手元にあったいくつかの演奏を聞き比べてみた。アバドや小澤征爾などに加え、最新のシャイーによるものまで様々だったが、私が気に行っているのは若きコリン・デイヴィスによる演奏だ。オーケストラはここではボストン交響楽団、交響曲「イタリア」とのカップリングである。

デイヴィスはそれぞれの楽器をくっきりと浮かび上がらせ、ともすればメロディーラインの綺麗さで誤魔化される縦の線の統一にこだわっている。それでいて、終結部に見せるヴァイオリンの静かなカンタービレに集中力を欠かさない。何ともツボを抑えた名演であると思う。なお、劇付随音楽全体は別途取り上げたいと思う。

2014年6月24日火曜日

メンデルスゾーン:弦楽八重奏曲変ホ長調作品20(ラルキブデッリ&スミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ)

弦楽のための交響曲が、メンデルスゾーンの音楽的ないわば成熟の過程を記録した作品となったのに対して、この良く知られた弦楽八重奏曲は、彼の音楽的才能が早くも完成の域に達し、自らの音楽に対する確固たる自信を裏付けるような作品であると言える。我々が普通に聞くメンデルスゾーンの音楽の、最初の本格的な作品はこの曲ではないかと思われる。

二つの弦楽四重奏団の共同作業として、しばいばこの曲は演奏され、録音もされてきた。私が高校生だった頃、家には確かパノハとスメタナの両弦楽四重奏団が一緒に演奏したレコードがあったように記憶している。そしてその作品の燃えるような躍動感に満ちた第1楽章を聞いて、まさか同い年の16歳の少年による作品であるとは信じられず、非常に驚いたものだ。

私がコレクションに加た一枚は、それから10年以上が経過した1992年にニューヨークで録音されたもので、オリジナル楽器の名手アンナー・ビルスマを中心に、ラルキブデッリとスミソニアン・チェンバー・プレイヤーズの演奏。ワシントン・スミソニアン博物館に所蔵されているストラスヴァリウスを用いて演奏されたという触れ込みのソニーのCDである。録音は1992年。

ここで聞くメンデルスゾーンはやはり刺激的である。録音もいいからだろうが、昔聞いたLPの演奏よりも何倍も新鮮に聞こえるのが不思議だ。LPレコードはよほどいい再生装置で聞かないと、いい音に聞こえなかったのかも知れない。

第1楽章「程よく快活に、だが火のように」、第2楽章「ぼちぼちと」、第3楽章「スケルツォ、快速に最も軽やかに」、第4楽章「早く」といった指定がされている。このうち第3楽章のスケルツォは特に有名で、単独にオーケストラで演奏されることもある。例えば、トスカニーニのCDにこの楽章のみのトラックがあったように思う。あるいはHooked on Classicsの中のHooked on Mendelssohmにも登場する。

日増しに暑くなっていく梅雨の中休み。真昼間だというのに窓を開け放ち、垣間見える東京湾から吹く生温かい風に打たれながら、この曲を大音量で聞いた。メンデルスゾーンほど夏に良く合う作曲家はいない、などとのぼせながら思ってみたりする。

2014年6月22日日曜日

ハイドン:交響曲第87番イ長調(クルト・ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団)

ここまで6曲に及ぶハイドンの「パリ交響曲」を、手元にある様々な演奏で聞いてきたが、ここにもう一組、忘れることのできない素敵な演奏がある。まだドイツが東西に分かれていた1971年に、東ベルリンにあったベルリン交響楽団を、クルト・ザンデルリンクが指揮して録音した「パリ交響曲集」の2枚組である。

私はこの演奏をはじめて聞いて(それは第86番の冒頭だった)、その瞬間に「しめた」と思った。思いがけず掘り出し物に出会った時の喜びが、私をとても幸せな気分にさせたからである。全く古さを感じさせないどころか、鮮明で生き生きとした録音と、ふくよかで深みがあり、それでいて端正な演奏は、モダン楽器で演奏されたハイドンのもっとも完璧なもののひとつ(例えばジョージ・セルの演奏がそういう部類に入る)ではないかと思った。

序奏なしで始まる第1楽章はヴィヴァーチェ。一定のリズムを小刻みにしながら進む様は、モーツァルトのカッサシオンなどにも見られるもので、当時の流行なのだろうか。この曲は「パリ交響曲」の中ではもっとも大きな番号の第87番となっているが、作曲はもっとも早い1785年頃と言われている。11分も続くその第1楽章はまったく飽きることがないくらいに素敵だが、それが展開部、再現部などに変わっていく様子が、いい演奏で聞くと手に取るようにわかる(アーノンクールもそのいい例だろう)。

第2楽章の美しいアダージョでは、最後のところで小鳥が鳴くように、木管楽器がさまざに絡み合う。長いがすぐに終わる様な気がするのは、演奏がいいからだろうか。続く第3楽章のメヌエットはオーボエの独壇場。

最終楽章もすこぶる印象的だ。特に中間部に展開されるフーガは興奮を覚える。ザンデルリンクの演奏で聞くと、細部にまでクリアに聞こえ、雨上がりの高速道路を走っているように爽快な気分である。繰り返しが行われるのでたっぷりと味わうことができる。この曲と第86番の2つの曲は、様々な演奏で何度も聞きながら、ここ数日の私はとてもいい気分である。

2014年6月21日土曜日

ハイドン:交響曲第86番ニ長調(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団)

一時間余りの通勤途中、私はハイドンの第86交響曲を聴き始め、山手線が新宿駅に到着するのと同時にそれは終った。余りに心地がいいので、演奏を変えて同じ曲を聞くことにした。広場のベンチに腰掛けて第2楽章カプリッチョを聞く。梅雨の合間の蒸し暑い日の朝、夜行バスで広島や岡山から到着した若者が重い荷物を引きずって歩く。高層ビル群のオフィスへ向かうサラリーマン等を眺めながら、出勤前のひとときは過ぎていった。

この曲はニ長調で書かれ全体的にとても充実した印象を与える。それは「パリ交響曲」中もっとも優れた曲だと言われている。メリハリが効いている上に、時折ずっしり堂々とした響きがあるかと思えば、随所にハイドンならではの優雅さと軽やかさも感じられ、そのバランスが好ましい。私見ながらその後のザロモン・セットへと至る晩年の、錚々たる作品群のまさに最初の作品ではないか。

例えば第3楽章のメヌエットがこれほど印象的な曲は、珍しい。その充実ぶりはトリオの部分になると一層際立ち、一つ一つの音符が意味ありげに響く。第1楽章の何かが始まるような荘重な序奏が終わると、明瞭快活な主題かと思いきや、幾分不安定な、やや影の感じる主題が走りだす。だがそれもつかの間で、すぐさま「静かな熱狂」が感じられるあたりは、ハイドンを聞く楽しみの一つの典型であるとも思える。走り出したくなるかと思えば、転調によって景色の色合いが変わる。

第2楽章の長いメロディーも、飽きることはない。優雅なステップと時折フォルテの小節も出現して、スカッとする。総じてこの曲は、とてもいい曲で、隠れた名曲であるとも言えるのではないか。

サイモン・ラトルはバーミンガム時代にハイドンのCDを2枚リリースしているが、その選曲は極めてユニークである。それらはホーボーケン番号の小さい順に、第22番、第60番、第70番、第86番、第90番、それに第102番である。この他の作品の演奏はないが、ベルリン時代になって第88番から第92番までの「隙間」の作品を取り上げ、これも大変素晴らしい。どういう理由でこのような選曲となったがわからないが、その中に「パリ交響曲」から唯一第86番が収録されていることは見逃せない。

サイモン・ラトルの演奏はモダン系楽器を使いながらも古楽奏法の影響を受けたものとなっている。その音色もさることながら、スポーティーで弾むようなリズム感がこの演奏の魅力である。すなわち静かな部分では、体をゆすりたくなり、早い部分では走り出したくなる。乗って聞いていると、小さな音符が次第に大きな音に変わっていくようなシーンに何度も出くわし、この曲がこういう曲だったかのか、と思う時がある。つまり大変ユニークな演奏と思う。

2014年6月16日月曜日

ハイドン:交響曲第85番変ロ長調「王妃」(ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジーク)

古楽器による演奏のおかげで、それまで平凡に思われていた曲に新たな息吹を感じることが多い中にあって、この第85番変ロ長調もそのひとつだろうと思った。アーノンクールによる霊感に満ちた「パリ交響曲」を聞いた後では、よりその違いが鮮明だ。そして私は、またひとつの期待を裏切らない演奏家、ブルーノ・ヴァイルが組織したカナダの演奏団体ターフェルムジークによって、生き生きとした曲に蘇ったこの曲を聞くことができた。

静かな序奏で始まる第1楽章は、よくあるハイドンの出だしだが、フレッシュで心地よい疾走感の主題が始まると、刺激的で幾分早めな速度が何とも心地よい。ハイドンの典型的な楽しさが、ここにも十分表れている。

第2楽章の静かにステップを踏む演奏も、最初はただ長く、眠い曲だと思っていたが、何度目かに開眼する。やはりアーノンクールの注意深く思慮に富んだ演奏がそのきっかけだった。この曲はマリー・アントワネットが好んだため「王妃」というニックネームで呼ばれるという逸話が、嘘ではないように思われてくる(いい加減なものである)。そしてこの曲が、当時流行していた歌のメロディーだと知った。

第2楽章の後半で、旋律にフルートが絡む。丸でお花畑の蝶々のように、上がったり下がったり、予測できないように見えて一定のリズムがある。何とも楽しいのだ。

第3楽章のメヌエットを経てプレストの最終楽章に入ると、一気に5分もかからず終わる。コンパクトで楽しい曲だが、もっとあとの曲に比べるとインパクトが少ない。だから演奏される機会も少ないし、私も今まで聞いたことがなかった。

2014年6月9日月曜日

ハイドン:交響曲第84番変ホ長調(シャルル・デュトワ指揮モントリオール・シンフォニエッタ)

「パリ交響曲」を聴き始めて「めんどり」「熊」の後は、名前なしの作品である。けれどもこの作品は意外に味わい深い。第1印象はとてもなめらかな曲だということ。比較的長い序奏は、静かにロマンチックである。少し重いなと感じ始めたら、第1主題が始まる。その何と流麗なこと。このメロディーを聞くと、どこかで聞いたことのあるような音楽のように思えてくる。

そうだ。これは紛れも無くシューベルトの雰囲気である。シューベルトとハイドンが同居している。実際にはお爺さんと孫ほどの年齢差があったと思うが、この作品はシューベルトの作風を先取りしているように思う。

流れに乗って第2楽章に入ると、Andanteの長いダンス風の音楽になる。だがここでもどこかシューベルト風。静かで叙情的な雰囲気は、風に乗って水原を行くかのよう。ちょっと長いので眠くなるが、音程が飛躍せずなめらかなのである。

短いメヌエットはきっちりとした曲だが、特に際立った特徴があるわけではないようだ。一方第4楽章のヴィヴァーチェでは再び快活な音楽である。全体に親しみやすく、目立たないが心地よい曲である。

演奏はシャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団(のメンバで構成される小規模な管弦楽団)で聞いてみた。このコンビの古典派作品は大変珍しく、私の記憶ではこれだけではないだろうか。モーツァルトもベートーヴェンも録音していないように思う(もちろんシューベルトも知らない)。だがより多くの刺激的な演奏に交じると、地味な存在であることは否めない。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...