2017年4月16日日曜日

NHK交響楽団第1858回定期公演(2017年4月15日、NHKホール)

20世紀オーストリアの作曲家ゴットフリート・フォン・アイネムが「カプリッチョ」を作曲したのは、丁度マーラーの「巨人」が生まれた約半世紀後のことである。二人の間に音楽的な関係があるのかはわからないが、この二つの作品に共通するのは、30歳前後の作品ということくらいだろうか。一方メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調は、彼が30歳の時に作曲にとりかかり、6年の歳月をかけて完成された作品である。これは「巨人」からさかのぼること約半世紀前の、1844年のことであると解説書には記載されている。

これら3つの作品を演奏するNHK交響楽団の定期公演に出かけた。N響の定期を聞くのは1年ぶり。指揮者はイタリア人のファビオ・ルイージ、ヴァイオリン独奏はニコライ・ズナイダー。人気のある有名曲を並べただけあってか、NHKホールの3階席隅まで埋まる盛況ぶりは、久しぶりのような気がする。もっともヤルヴィが指揮するマーラーなどは、すこぶる売れ行がよさそうである。そのヤルヴィの「巨人」を1年以上前に聞き、(このときは前から2列目という席だったが)まるでヨーロッパのオーケストラの音がしたのに驚いた。もちろん演奏は超名演だったと記憶している。

アイネムの「カプリッチョ」は10分あまりの擬古典的な作品であり、あまり現代的な雰囲気は感じられない。一貫してリズム感が印象を残す親しみやすそうな作品で好感を持ったが、私のアイネム体験は実のところこれが最初であり、これ以上のことはよくわからない。ルイージは音楽を起用に、そしてスタイリッシュに指揮するが、聞きどころがぼやける傾向があり陰影に乏しい。

「メンコン」は学校の音楽鑑賞の教材にも使われる超有名曲だが、にもかかわらず実演で聞くのは私の人生でこれがたった2回目である。録音でこれまでのどれほど聞いたか知れない曲も、こうやって実演で聞くと、それまで何を聞いていたんだろうと思う印象的な部分が少なからずあって少々恥ずかしく、そして残念に思う。いや曲が持つ奥深さに触れたというべきか。

第1楽章冒頭から終楽章のコーダまで、切れ目なしで弾き続けるのは大変なことだと思うが、ズナイダーの音色は極めて美しく安定しており、やや小ぶりな作品も耳を澄ませて聞けば、3階席でもその精緻さは感じ取ることができる。ルイージの丁寧な指揮に乗ってなめらかに音が流れてゆく。軽やかだが、軽くはない。この絶妙さがメンデルスゾーンの音楽には重要なのかも知れない。

いつもCDなどで聞き流してしまう第1楽章も、特にカデンツァの後などはっとするような部分があったが、第2楽章に至ってはツボを心得たフレーズなどが次々と現れて、しばし切ない気分にさえなったことを付け加えておきたい。この楽章のフレーズはどこか懐かしく、そしてフレッシュな甘酸っぱさが漂う。音楽は演奏の仕方でこうも印象が違うのか、と思うのもこの第2楽章ではないだろうか。特に、後半の深い抒情性は筆舌に尽くし難い。そして、いつもよりとても長く感じた幸福な時間だった。熱心な拍手に応えてズナイダーは、バッハの「サラバンド」をアンコールした。その音楽に静かに耳を傾けながら、一度ベートーヴェンを聞いてみたいと思った。

3月が別れの月だとすれば、4月は出会い、そして出発の月である。春聞くのに相応しい交響曲第1番は、作曲者自身の指揮によりブダペストで初演された。この作品も、CDなどで何度聞いてきたかわからないのだが、実演で聞くとまったく違った曲に聞こえてくる。おそらくは録音や録画で接するには、私の持つ再生装置が貧弱である上に、再生環境がコンサートホールで聞くときとは比べ物にならないくらいに低質なのだろうと思う。それに、いつ中断されるかわからない家族との共同生活、窓を開けるとたちまち混じる高速道路の騒音などにも原因がある。とりわけマーラーとブルックナーは、実演に限ると思っている。どんな細かいフレーズにも気を配りながら、丁寧に指揮者がタクトを振ると、管楽器が、弦楽アンサンブルが、大きくうねったりはじけたり、その様は緊張感と興奮の連続である。これが長い時間経過を伴いながら物語のように進行し、宇宙的な広がりを見せる終楽章にいたっては、観客と演奏者が一体となった、一期一会の神秘的とも言えるような瞬間を体験することも少なくない。

さて今回のルイージによる「巨人」もまた、聞いていたその時にはまさに、そのような連続であったと思えるのは確かだ。私は、過去にルイージという指揮者を聞くときいつも、重要なフレーズがいともあっさりと、時には練習不足のような印象を伴って流れてしまう残念さを感じることがしばしばで、実のところあまり好きになれなかった。ところが今回の「巨人」は、そのような感じたのは一部であって、むしろすべての楽章で、特に各楽章の中間部において、表情を伴った細部の見事さを感じる取ることができたからだ。

第1楽章においてすでに完成度は高く、時にまだ、まとまりきらない演奏会が多いことも思えば、ヤルヴィで聞いた時のN響よりも良かったかも知れないと思われた。これで乗れると思ったのだろう。第2楽章の主題は大変力のこもった演奏で、特に低弦アンサンブルの凄みは手に汗を握るものだった。このような迫力満点の第2楽章を、1階席の真ん中で聞くとどんなに素晴らしかったかと思う。その第2楽章のレントラー風中間部、第3楽章の、懐かしい過去を回想するような瞬間・・・ここは全体の白眉である。ここをいい演奏で聞くと、私は涙が出そうになるが、それはCDでは起こらない。

壮大な終楽章の、長い時間を伴う大空間は、すでに交響曲第1番でマーラーの作風が確立されていたことを如実に表している。うねるような弦楽器や爆発的なフォルティッシモに混じって、壊れてしまいそうなくらいに繊細なメロディー。終楽章のマーラーはいつ聞いても感動的である。今回のルイージの演奏で私は、いくつかの再発見をしたことは先に述べた。第4楽章のひとつひとつの部分が、丁寧に、そして印象深く演奏された。ここの楽章を演奏する十分に練習されたオーケストラは、意気込みも集中力も十分で、満場の拍手とブラボーはひときは大きく会場を揺さぶった。

ようやく訪れた東京の春は、いきなり初夏を思わせる陽気に、渋谷へと向かう足取りもいつになく軽やかである。おそらく会場を後にした多くの人々が、同じように感じた演奏会だったと思う。この模様はテレビ収録されていたので、数か月後にはオンエアされるだろう。その時を楽しみにしていたいと思う。そして次回からは、できればもう少しいい席で聞いてみたい。おそらくヤルヴィの時以上の名演だったにもかかわらず、音が拡散してしまい、遠くで音楽が鳴っているように感じるNHKホールの悪い点が目立ったからだ。もっともその違いはテレビではわからない。テレビは実演には遠く及ばないと思うからである。

2017年4月8日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第328回定期演奏会(みなとみらいホール、2017年4月8日)

月刊誌「ぶらあぼ」などでコンサート情報を調べると、この4月だけでいくつものオーケストラが、マーラーの「巨人」を取り上げている。4月8日土曜日の午後には、シルヴァン・カンブルラン指揮の読売日響と川﨑賢太郎指揮の神奈川フィルが激突。さらに翌週末にはファビオ・ルイージが指揮するN響が参戦する。まるで申し合わせたように同じ時期に同じ作品を定期演奏会で取り上げるのは、偶然であろうか。昨年の秋には「ファウストの劫罰」を2つのオーケストラが相次いで取り上げ、話題になったことも記憶に新しい。

この3つのコンサートを聴き比べることができれば楽しいが、それだけの経済的、時間的ゆとりのある人は珍しい。そこでどれかひとつ、ということになるのだが、たまたま8日の午後は予定がなく、私は思い立って神奈川フィルの定期演奏会に足を運んだ。神奈川フィルを聞くのは初めてであり、常任指揮者として4年目となる若手指揮者川崎賢太郎を聞くのも初めてである。若干33歳のこの指揮者をテレビで見て以来、一度は実演を聞いてみたいと思っていたからだ。読売日響の「巨人」はオールソップの指揮で数年前に聞いているし、N響のマーラーなら昨年のヤルヴィの超名演が鮮烈過ぎて、この演奏を越える演奏が行われることも期待しない。

神奈川フィルの定期演奏会は、横浜のみなとみらいホールでマチネの時間帯に行われた。土曜日にもかかわらず当日券が多数あることもわかり、私の家からは京浜東北線などを乗り継いで小一時間の道のりである。満開の桜を散らす小雨が降る中を、横浜目指して急いだのは、このコンサートを聞くと決めた1時間後であった。

チケットを買ってホールに入ると、指揮者自らがプレトークを行うと掲示されていた。3階席に座っていたら二人の若者が登場して、指揮台を挟んで話し始めた。川崎はこの時、次のようなことを話した。「マーラーの交響曲を演奏したいと思った。「巨人」を指揮することになって、その前半のプログラムにフィンランド人の作曲家エサ=ペッカ・サロネンの作品を選んだのは、マーラーとサロネンがともに大指揮者であると同時に大作曲家であるという共通点に加え、10年ほど前に出かけたロサンジェルスでサロネンの自作自演に接し、その『かっこいい』作品に触れたからである・・・云々」。

なかなか興味深いプログラムである。なぜならマーラーの「巨人」とサロネンの「フォーリン・ボディーズ」の間には、100年程度の開きがあるからだ。つまり通常はより古い作品との組み合わせで行われることの多い「巨人」を、その1世紀も後の現代の作品の後に演奏するのである。もしかしたらマーラーの「古さ」を感じる演奏になるかも知れない。少なくともマーラーの作品を少し落ち着いて聞くことになるかも知れない。これはなかなか面白い体験である。

現代の作品と古典的な作品を並べるのは、欧米ではよく行われることで、我が国でも意欲的な演奏会ではしばしばそのようなことがある。お客さんの意向はともかく、玄人受けと演奏家の意欲向上の両方を狙うことにより、結構な名演であっても満席にはならないという「お得感」が得られる。私はこのような演奏会が好きである。

サロネンの「フォーリン・ボディーズ」は3楽章からなる20分程度の曲ながら、編成は打楽器が所せましと並べられ、リズムも早く、なかなか興奮させられる作品である。ほとんどの人が初めて接するような作品を好んで取り上げ、そのレベルも決して低くはないというところが素晴らしい。定期演奏会なんかに通う観客はマナーが大変良く、演奏が始まる前に静まり返る。

「巨人」の冒頭もまた同様で、 弦の独特の響きに乗って木管楽器が鳥の鳴き声を奏でるあたりは実に精緻である。客も静かだと、演奏家も落ち着いて演奏できるような気がする。もちろん大変練習を重ねているのだろうことは想像がつく。神奈川フィルのマーラーと言えば、金聖響によるチクルスが一躍有名になったが、おそらくはそれ以来の演奏だったのではないだろうか。

第1楽章のクライマックスが決まると、間髪を入れず始まった第2楽章の自信を持った響きは、聞くものを興奮させた。川崎の指揮は、とてもメリハリがあって深く呼吸している様が遠くからでも感じられる。オーケストラを乗せてゆくテクニックもあるのだろう。そしてそのためには細かいところをおろそかにしない。つまりは音楽が大きくもあり、また細やかでもある。

第3楽章のコントラバスで始まるメロディーも決まり、中間部の聞きどころなどでは、静かでしかも緊張感を絶やさない。大編成のオーケストラをうまくドライブする若い指揮者からは、エネルギーが心地よく燃焼する様と、健康的で知的なオーラが感じられた。おそらくは第4楽章を、これほど冷静でありながら、かつ情熱的に演奏されるというのはなかなかないことだ。クライマックスを何度も迎えながら、オーケストラが破たんするわけでも、弛緩するわけでもなく、かといってこじんまりともしていない。

コーダでは指示通りホルンを立たせたが、そのようなことをしなくても適度な統率は維持された。空席が目立つ客席からは盛大な拍手が沸き起こり、それは各演奏者を丁寧に個別に立たせてゆく間中、途切れることはなかった。オーケストラには若い人が多く、そういう意味でも何かフレッシュな名演に接したように思い、しみじみと嬉しかった。ホールを出ると雨は上がり、春の暖かい風が馬車道を吹く抜けてゆく。

各オーケストラが同じ「巨人」を競演するなら、それぞれ少し変化があってもいいと思った。特に今日のコンサート、時間もあったので「花の章」が聞きたかった。曲の中に埋めるには抵抗があるのだろうか。第3稿に「花の章」を加えるという変則的なことは、音楽的に見てもちぐはぐなのだろうか。でもこの「花の章」は桜の時期に聞くにはうってつけだと思う。桜木町に向かう路上に植えられたソメイヨシノはまさに満開で、そんなことも考えながら家路についた。

2017年4月3日月曜日

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」(2017年4月1日、東京文化会館)

ワーグナーは専ら自分の作品を上演するための理想空間として建設したバイロイト祝祭劇場で、オーケストラを舞台の下に覆いつくした。劇の鑑賞において、演奏者が見えることを嫌ったのではないかと思う。にもかかわらずワーグナーは、その音楽でオーケストラを舞台の中心に据えた。ドラマと音楽が融合した「楽劇」というジャンルを確立した彼は、時に歌手が舞台から消え去ってもオーケストラだけが主要な動機を奏したり、さらにはしばしば管弦楽のみが長々と物語を説明する部分を数多く設けた。

楽劇「神々の黄昏」には、そのようなオーケストラを聞きどころとする部分が多い。有名な「ジークフリートのラインへの旅」(序幕)、あるいは「ジークフリートの葬送行進曲」(第3幕)などである。劇場でこれらの音楽に耳を澄ませるとき、通常はゆっくり舞台が転回し、最近なら抽象的なオブジェクトが様々な色の光に反射して幻想的な印象をもたらす。聞き手はそれらを眺めながら、長く複雑なストーリーを整理し、一息入れつつ場面の転換を想像する。時間が空間となり空間が時間となる。切れ目のない音楽は、様々な動機が現れたり消えたりしながら、徐々に盛り上がり、そして静かに聞き手を次の場面に誘導するのだ。

このようなワーグナー的時間感覚は、見る者の生理感覚も考慮したものだろう。その時にオーケストラの演者や指揮者は目障りだと考えたのだろうか。だとしたら「演奏会形式」と言われる形態でのワーグナー作品の上演は、作曲家の意図を半分無視した暴挙であるのかも知れない。

「東京・春・音楽祭」と名付けられた、上野公園を舞台とする音楽祭の目玉であるワーグナー・シリーズにおいて、毎年1作品ずつ上演されてきた「ニーベルングの指環」も、とうとう最終回となった。楽劇「神々の黄昏」がついに上演されることとなったのである。

思えば4年前、私は入院中の病室で「ラインの黄金」を何としても見たいと思った。3月末に脳卒中の疑いで緊急入院させられ、さらには頭部に穴をあけて組織の一部を生検するための緊急手術まで受けた。結果はシロ。だがすぐに退院できるわけではない。退院できたとしても電車に乗って上野まで行き、何時間もの間座っていることができるかと心配した。買っていたチケットは弟に譲るつもりでいたが、めでたく前日に退院。当日券もあるというので結局、何かあっても大丈夫なように、二人で出かけた。この時に見た「ラインの黄金」は、このような経過もあって大変素晴らしく心に残った。音楽に身を浸すことが、生きている上でこれ以上ない喜びに感じられた。

翌年の「ワルキューレ」も弟と出かけた。この上演は、今やワーグナーとして第一級のものと確信した。続く「ジークフリート」が大名演であったことはすでに書いた。ジークフリートを歌ったアンドレアス・シャーガーは、圧倒的な歌唱力で聴衆を驚かせた。こうなったら最後まで見るしかない。昨年秋にチケットが売り出されると、私は迷わずS席を買い求めた。そして待ちに待った4月1日が訪れた。開花宣言はされたものの、まだまだ肌寒い毎日が続く東京では、桜もほとんど咲いてはいない。さらに前日からはしとしとと冷たい雨が降り、街もどこか静かである。

インフルエンザや流感によって喉を傷め、なかなか静まらない咳と発熱に悩まされたのは3月に入ってからであった。だが私は何とかそれらを治し、満を持して会場へ出かけた。会場では思わぬ事態が待っていた。主役二人の交代である!まずブリュンヒルデがクリスティアーネ・リボールからアメリカ人のレベッカ・ティームに代わった。そしてジークフリートはロバート・ディーン・スミスからアーノルド・ベズイエンに。この予想外の寒さに体調を崩したのは、私だけではなかったのだ。なお、ベズイエンは「ラインの黄金」でローゲを歌っている。

二人の交代は幾度となくアナウンスされ、さらにはリハーサル中の交代であったこと、代役の二人は急きょ来日し、練習もままならないこと(とははっきり言わないが)までが告げられた。嫌な予感がした。オーケストラはヨーロッパ公演を終えたばかりのNHK交響楽団で、ゲスト・コンサートマスターにライナー・キュッヘル氏であることは従来通りだが、今回は金管楽器を中心にミスが目立ったように思う。

代役の二人は対照的な姿勢でこの難局に挑んだかに見える。ブリュンヒルデのティームは、かねてより何度かこの役をこなしており、ここ一番は自分が活躍せねばと思ったのかも知れない。登場のシーンが多く、そして最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に至っては長々と声を張り上げねばならない。彼女は必死でこの役を演じ切り、時に激しく強弱をつけるあたりは、ヒステリックでやや自暴自棄になったブリュンヒルデの人間臭い側面があぶりだされ、特に第2幕のドラマチックなシーンで威力を発揮した。

それに比べるとジークフリート役のベズイエンは、急場しのぎでこの難役をこなすにはやや力不足である。彼は練習不足であることを承知の上で、他の演者に深刻な影響を与えないように、音楽の流れを乱さないように努めた。結果的に第3幕の過去を振り返るシーンにおいても、致命的な状況にならずに済んだとは言える。世界にジークフリートを満足に歌える歌手など数人しかいない状況で、ベズイエンがたとえ役足らずだったとしても、批判を浴びせることは避けたいと思う。歌声も美しい。けれどももう少し力のある歌手だったら、本公演はもっとよかったのにと思いながら、最後までその気持ちは消えなかった。

よく見ると今年の「東京・春・音楽祭」では、何と昨年ジークフリートを歌って圧倒的な成功だったアンドレアス・シャーガーが3月にリサイタルを開いているではないか。どうして彼に代われなかったのかと思った。

演奏が最初からぎこちなく、それは緊張のせいかもしれなかった。指揮者のヤノフスキは職人的手さばきで、一気に音楽を集中させようとするが、それに合わせるいつものややヘンテコなアニメーションも、雲やら川やら、そして火に包まれた岩山を映し出す。実演はともかく何度かビデオで接している私としては、やはりジークフリートの死のシーンでは、血が流れてライン川が赤く染まるような状況を想像するしかない。アニメーションはこういう時こそ威力を発揮してほしいのに、抽象的なシーンが続くかと思えば、ギービヒ家の館が非常にリアルにそびえ、なんとなく興醒めである。「ラインの黄金」から一貫して不満の残る画像は、音楽を妨げないようにと配慮した結果かもしれないのだが。

最大の成功はハーゲンを歌ったアイン・アンガーの太く力強い歌声と、そして第1幕の姉妹喧嘩のシーンで圧巻の集中力だったヴァルトラウテ役のエリーザベト・クールマンであった。リリカルな歌声が魅力的だったグート・ルーネ役のレジーネ・ハングラーも面白かったし、マルクス・アイヒェの歌声はグンターの姑息で嫉妬深い役に合っていた。なお、アルベリヒはこのシリーズでお馴染みのトマス・コニエチュニーが安定した仕上がり。

総合的に見れば第1幕の後半は最高に素晴らしく、この長い音楽の魅力を初めて身を乗り出しながら味わったし、第2幕の東京オペラ・シンガーズを加えた舞台は、集中力を絶やすことがなく圧倒的であった。第2幕の幕切れで盛大なブラボーが飛ぶかと思えば、やや戸惑った拍手だったにもかかわらず、終幕の最後で照明がすべて消されたときに、早くも拍手が始まった。第2幕こそ盛大な拍手を、最終幕ではしばしの余韻を、と思っていた私は少し戸惑うことになったが、コンサートというのは難しいものだ。何千人もの人々が見ているのだから。

「ジークフリートの葬送行進曲」ではオーケストラが見事に決まったし、そこをクライマックスとする前後のすべての音楽は、これまで登場したライトモチーフの連続である。とうとう「指環」もここまで来たかと思う。そして最後に一人ブリュンヒルデが歌う終末のシーンは、やはり圧巻であった。舞台から歌手が消え、残ったオーケストラが真っ赤に照らされる中、ヴァルハル城は火の中に崩れ去り、そしてラインの川底へと沈んでいった。世界の終わりのこのシーン、音楽は圧巻なのだけれど、どうして舞台がないのかなあ。だがこれは贅沢というものだろう。NHK交響楽団は今回も素晴らしいアンサンブルを聞かせてくれたが、東京文化会館の音響がややデッドなのか、それともヤノフスキのラディカルな音作りのためなのか、室内楽的な精緻さはあるものの、音楽が少し小さく感じられた。それもまた、あまりに欲張った話だと思うのだが。

2017年3月15日水曜日

モーツァルト:クラリネット協奏曲イ長調K622(Cl:アルフレート・プリンツ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

大阪・千里で育った私は、毎年秋になると銀杏が黄色に変化し、ひらひらと舞い落ちる葉が時に陽光に反射して光るというような情景を思い出す。中学生の頃、クラシック音楽を聞くために連日友人を我が家に呼び、夕暮れのひと時をLPレコードに針を落としては、この曲はいいねえ、この演奏は凄いね、などと言いあっていたあの頃が懐かしい。

その中にモーツァルトのクラリネット協奏曲があった。ケッヘル番号622。全部で626まである通番の、最後から数えて4番目である。ということはまさしく死の年であり、そのわずか2か月ほど前の作品である、とジャケットには書いてあったと思う。最晩年(と言っても30代の半ばである)は人気も衰え、寒さに打ち震えながら極貧のうちに亡くなった、死因は不明、葬儀は雨で中断された、などといった伝記を読んではイメージを膨らませ、この曲ほど諦観に満ちた曲はないではないか、とひとり思い込んでいた。

木枯らしの吹く晩秋の青空に淋しく響くモーツァルト。これが私のクラリネット協奏曲に対するイメージで、このイメージにぴったりなのがプリンツを独奏とする往年のベームの名盤。有名曲だけに他にも数々の名演奏が存在するが、私にとってはこの演奏で満足であり、この傾向は最初にこの曲に触れた40年近く前から全く変わらない。

プリンツはウィーン・フィルの団員で、ベームはこの頃のウィーン・フィルの名誉指揮者だったから、この二人の醸し出す音楽は完全に一体化したものであり、それはすなわちベームのモーツァルトということに尽きる。特に晩年のベームのモーツァルトは、厳格な中にも角が取れて、そのことが一層音楽に慈しみを与えていたように思う。幾分遅めのテンポで、静かさの中にある悲しみを浮き彫りにする。クラリネットの持つ透明で優しい音色は、音域の広さを十分生かしたモーツァルトの巧みなメロディーによって映える。丁度色とりどりの秋の紅葉が残照に照らされているかのように。

この作品の第2楽章は「天上の音楽」と言われるように、モーツァルトの書いた作品の最高峰だと言う人がいる。私もそう思う時がある。素人として感じる観念的な俗説としては、わずかに死の数か月前に人生の彼岸、迫りくる死を予感していたのではないか、というのがある。ちょっと美化しすぎた話ではないかと思う。でも、例えば美人のクラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの演奏(ハンス・フォンク指揮シュターツカペレ・ドレスデン)の名演を聞いても、それはそれで大変うまいとは思うが、何かが違うのである。この曲は、やはり夕空に暮れてゆく光を惜しむようでなければならない。

何十年ぶりかに聞きなおした感想は、かつて私が聞いた時と変わらない。自分も変わらないというべきなのか。ただいくつかの発見があった。まず第1楽章。これはいきなり第1主題で始まる。そして非常に長い。これはかつてのコンチェルトにはない長さである。それから両端楽章にカデンツァがない。さらには第2楽章の終盤にも独奏部分がない。すなわちクラリネットは完全にオーケストラと溶け合っており、独奏部分とオーケストラ部分が交互に同じメロディーを奏でたりする。

モーツァルトはフルートやチェロを嫌い、そしてクラリネットを好んでいたという。最晩年の夏、プラハへ赴いた際にウィーンの宮廷楽団奏者だったシュタードラーという友人から頼まれたのが作曲の動機だった。もしかしたら彼は、自分にクラリネットのための協奏曲がまだなかったことに気づき、かつて書きかけた作品を掘り起こしてまでも慌てて作曲に着手したのではないだろうか。「魔笛」「皇帝ティートの慈悲」それに「レクイエム」といった大作がわずか数か月のうちに書かれた。その中で、一番星のように静かに輝くモーツァルトの至高の名曲は誕生した。秋も深まる1791年10月のことであった。

2017年3月14日火曜日

モーツァルト:ホルン協奏曲集(Hrn:ラドヴァン・ヴラトコヴィッチ、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団)

モーツァルトの管楽器のための協奏曲を集中して聞き続けてきてつくづく思うのは、モーツァルトは本当に楽器の特性を良く理解して手を抜くことなく作曲したのだな、ということである。私は楽器を弾けないどころか、楽譜すら読めないのでこれは感覚的なことでしかないのだが、ここで聞くホルン協奏曲集は、ホルンに良く溶け合っている。それぞれの協奏曲でそのように感じる。「フルートハープのための協奏曲」「クラリネット協奏曲」などとともに。

ホルン協奏曲集は1枚のディスクとして発売されることが多い。4つある協奏曲をすべて収録すると丁度1枚の長さになるからだろう。CDの時代になってもこのことは変わらず、さらに「ロンド」や「断章」を加えることが多くなった。ここで取り上げるラドヴァン・ヴラトコヴィッチ盤も同様である。

私のホルン協奏曲体験は、LPの時代、バリー・タックウェルによるものが最初である(マリナー指揮)。この演奏は今聞いても独特の響きがする。それは通奏低音としてチェンバロが活躍するからだ。第1番など初めて聞いた時は、何かバロック時代の名残を残した賑やかな曲だと思ったものだ。他の演奏にもチェンバロが使われいないか注意して聞いてみたが、目だないのか最初から入っていないのか、ほとんど聞くことがない。最初の体験というのは恐ろしいもので、私はこのタックウェル盤をもう一度聞いてみたいと思っている。

ところでホルン協奏曲といえばこの演奏を無視するわけには行かないというのが、デニス・ブレインによる演奏(カラヤン指揮)である。モノラルながら何度も再発売され、その都度高評価であることは驚異的でさえある。若くして事故死したこともこの演奏を伝説化している。若いカラヤンが颯爽とフィルハーモニア管弦楽団を指揮している。春風のように通り過ぎるような演奏だが、そこに完璧なテクニックが存在していることは明らかである。

さて私の妻は1月27日の生まれで、この日はウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの誕生日である。それが理由で彼女はとりわけモーツァルトを愛しており、長男が生まれる時もモーツァルトを聞きたいと言っていた。10年以上前の2月、北風の吹く快晴の東京で息子は生まれた。10時間以上に及ぶ陣痛に耐えての出産だった。丁度予定日の早朝に産気づき、慌てて電話を入れた産婦人科の看護師は、こちらの狼狽をよそに「気に入ったCDでも持ってきてください」などとのたまった。

私は、我がCDラックの中からモーツァルトのCDを何枚か選んだ。長くなることも想定して、ピアノ協奏曲全集(独奏:ペライア)と、ホルン協奏曲を選んだ。こういう時、宗教曲やオペラ(特にダ・ポンテ三部作)はどは不適格であり、晩年の作品も良くない。押しては返す痛みの中で、ホルン協奏曲を皮切りにピアノ協奏曲を順に聞き始め、ピアノ協奏曲第22番だったかの時に産声を上げた。その後の音楽的才能は別として、長男はモーツァルトの音楽の中で誕生したことになっている。

ホルン協奏曲は妻が特に希望した曲であった。なぜかはわからないが、長い管の中を通って響くホルンの響きがお産に合っているのかしら。そしてその時の演奏が、ルーマニア生まれのホルン奏者ヴラトコヴィッチによるものだったのである。このCDは作曲順ではなく、いきなり第4番から始まるのだが、有名な第3番が聞こえてくるころにはこちらの耳もすっかりモーツァルト耳になっており、こんなに心地よい演奏はない。

このようなこともあって個人的にはヴラトコヴィッチの盤を好むのだが、この演奏は少し物足りないものを感じることがある。大人しすぎるのである。けれどもその不足感がまた何度もこの曲を聞く機会を与えてくれるような気がしている。それから特筆すべきはテイトの指揮である。

モーツァルトのホルン協奏曲は全部で4曲あるが、多くの人と同様第1番と第3番が通俗的でもあり、好きである。それ以外のすべてがとても魅力的で、どの曲がどの曲なのかよくわからなくなるのだが。モーツァルトのホルン協奏曲はすべてケッヘルの400番台が付けられている。モーツァルトが後にウィーンでチーズ工場経営者になるザルツブルク宮廷オーケストラのホルン奏者のために、この素晴らしい曲を作曲したことで、音楽史に残るホルン協奏曲は誕生した。丁度ザルツブルクからウィーンに移る頃に位置している。モーツァルトの管楽器のための協奏曲は、このあと最晩年のクラリネット協奏曲まで、作曲されることはなかった。


【収録曲】
1.ホルン協奏曲第4番変ホ長調K495
2.ホルン協奏曲第2番変ホ長調K417
3.ホルン協奏曲第3番変ホ長調K447
4.ホルン協奏曲第1番ニ長調K412
5.ホルンと管弦楽のためのロンド変ホ長調K371

2017年3月13日月曜日

モーツァルト:オーボエ協奏曲ハ長調K314(Ob:ハンス=ペーター・ヴェスターマン、ニクラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)

1920年に発見されたモーツァルトのオーボエ協奏曲は、長らくフルート協奏曲第2番として知られていた曲であることは有名である。その後出版されると、古今東西のオーボエ協奏曲の中でも、とりわけ有名な作品として認知されるようになり、今ではオーボエ奏者の必須曲となっているようだ。わが国の漫画を映画化した「のだめカンタービレ」においても、この曲はオーボエ奏者のオーディションで採用されている。

モーツァルトは多くの管弦楽のための協奏曲を作曲しているが、その理由は協奏曲の作曲依頼があったからだ。オーボエの場合、ザルツブルクの宮廷楽団の奏者のためとされているが、初演の際のことなど詳しいことはよくわからない。今この曲を検索すれば、YouTubeなどで数多くの映像を見ることができる。多くのシーンではオーボエ奏者が指揮台に立ち、自ら楽団を指揮しながら独奏を務めている。

オーボエという楽器は、オーケストラがチューニングをする際に吹き出す最初の音を奏でる楽器であり、その位置は指揮者の正面と決まっている。他の楽器は様々な位置に配置されることが多いので、オーケストラの中で不動の位置を占めるのは、第1コンサートマスターと第1オーボエ奏者くらいではないかと思う。

オーボエのメランコリックな音色は、大きな楽曲の中でしばしば効果的なソロとして使われる。長大な賑やかな曲も、時に内省的に、あるいは懐古的にオーボエのソロが登場する。この音色でなければそういう雰囲気を醸し出すことは難しいのだろうか。そしてやや神経質で真面目な楽器という印象がある。オーボエの音を常に良い状態に保つには、楽器の手入れを含む多大な努力が欠かせないらしい。

モーツァルトのオーボエ協奏曲は、協奏曲であるから常に独奏のパートを吹き続ける。この音色は常に聞かされるとちょっと嫌な気分がしてくる、と私が正直に書くと、それはいい演奏で聞いていないからだと言われるかも知れない。その傾向もないわけではない。多くのオーボエ協奏曲の演奏があるとは思うが、私の手元にあるのはアーノンクールが録音した一連の管楽器のための協奏曲集(他はフルートとハープ、クラリネット)に収められたものだけである。けれどもここに聞くオーボエ協奏曲は、他のいくつもの演奏を凌いでユニークであり、そして楽しい。

第1楽章の冒頭、聞きなれたフレーズがアーノンクール節で始まると、何と新鮮に聞こえることか。颯爽とした演奏もいいが、このように一歩一歩足を踏み込むような、それでいて軽やかさを失わない演奏もまた病みつきになる。特に音が揺れて、まるでそよ風が吹いたかと思うと一時たゆたい、そしてまた大きく吹き流れて行くような感覚になる部分が何度かある。絶妙な呼吸感、そしてオーボエが上下に 行ったり来たり、スイスあたりのヨーロッパの田舎を雨上がりに楽隊が通り過ぎるようなイメージが、私の場合いつもするのである。

第2楽章の透明な響きと長い呼吸を伴うフレーズは、静寂と明るさが同居している不思議な空間。クラリネット協奏曲が深夜の音楽だとすると、早朝の音楽である。そして第3楽章はおどけたようなユーモアが溢れている。アーノンクールの演奏はリズムの強弱を強調するかと思うと、流れるような部分があったりして、その諧謔的な妙味は聞いたことがないとわかりにくい。結局私はこの演奏で聞くオーボエ協奏曲が好きであり、それ以外の演奏は今のところ、平凡なものに聞こえてしまっている。

2017年3月12日日曜日

モーツァルト:フルート協奏曲集(Fl:シャロン・べザリー、ユハ・カンガス指揮オストロボスニア室内管弦楽団)

気に入った仕事だけをやっていければこんないいことはない、などと大抵の人は思っているが、好きな仕事だけをしているように見える人でも、そう簡単な話ではないだろう。モーツァルトのような天才作曲家も、その幼少の頃からの音楽活動は、就職活動と密接に関連していた。今でも息子を、安定した収入のある職に付けたいと思っている親が多いのと同様、モーツァルト父子もまた同じだった。

だがいくらローマ法王の前で演奏をしても、あるいはヨーロッパ中で人気を博しても、結局は故郷ザルツブルクの宮廷音楽家としての道を歩まなければならなかった。モーツァルトは次第に不満を募らせてゆき、とうとう大司教と決別して単身ウィーンに出るのは良く知られているモーツァルトの伝記の、もっとも興味を掻き立てる部分である。

丁度人間の自由が尊重されはじめたフランス革命の時代にあって、現代人と同じ悩みをモーツァルトを抱いていたと考えるだけで、 クラシック音楽も実は、現代社会と価値を同じとする時代の、すなわち現代の芸術だと思わざるを得ない。こんなことを考えるのも、モーツァルトは自分の不本意な仕事もしなければ生きていけなかった、そして自らの芸術的志向と社会的現実に折り合いをつけながら、あの見事な作品を生み出したということに、いまさらながら驚嘆するからだ。

モーツァルトはフルートが嫌いだった。当時のフルートはまだ未完成の木管楽器で演奏が難しく、音楽的には単純な作品とならざるを得ないことを嫌ったからだと言われている。けれどもモーツァルトはフルートに関する曲を残した。ただし2つあるフルート協奏曲のうち第2番はオーボエ協奏曲ハ長調からの転用で、これはモーツァルトがサボタージュをして労力を節約したためだ。このため調性はことなるものの、同じケッヘル番号が与えられている。

一方フルート協奏曲第1番はれっきとしたフルート用作品だが、少なくともこの曲を聞く限り、モーツァルトがフルート嫌いだったとは思えないような素晴らしい作品である。作曲する以上は、ちゃんとした作品に仕上げたい、ということもあるのだろうと思う。モーツァルトのフルートを独奏とする作品は、この他に4つとの四重奏曲が残されているが、しばしば演奏されテレビのCMに使われるほど有名なこの四重奏曲もまたしかりである。

私がなぜか買って、長年しまっていたCDに、シャロン・べザリーというイスラエル生まれの女性フルーティストが演奏したBISレーベルのハイブリッド盤がある。そしてこのCD(SACD)にはモーツァルトの残したオーケストラとフルートのための全作品が収録されている(下記の【収録曲】参照)。ここで「フルートと管弦楽のためのアンダンテ」ハ長調は第1協奏曲の第2楽章「アダージョ」の代用として書かれた。一方、「フルートと管弦楽のためのロンド」ニ長調は、「ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド」ハ長調K373からの転用である。

伴奏を務めているのはフィンランドのオーケストラ、オストロボスニア室内管弦楽団である。指揮は創設者であるユハ・カンガス。

私は北欧を含む西側ヨーロッパ諸国を、たいてい旅行したことがあるのだが、アイルランドとフィンランドだけは足を踏み入れていない。かつてシベリア鉄道でヨーロッパ旅行を計画していた時には、いかに早くソビエトを脱出してヘルシンキに向かうか、時刻表を頼りに一生懸命考えたことがある。それでもヘルシンキは通過地点に過ぎず、西ドイツあるいはフランスに早く向かうため、フィンランドはそのまま西へ向かって海を渡り、一路ストックホルムを目指す予定にしていた。理由は物価が高いからである。そしてフィンランドに他に見るべきものがあるのだろうか?と思っていたのだ。

結局シベリア鉄道旅行は今だにできていないのだが、この時スウェーデンに向けて渡る海がボスニア湾で、ここの東側にあるのがオストロボスニア室内管弦楽団だろうと思って検索してみたら、やはりその通りであった。けれども海に面してはいないコッコラという町にあるようで、その位置は首都から北極圏へ向かって、何と数百キロも行ったところであり、人口はわずかに5万人弱というから甲子園球場の観客定員よりも少ない。そりに乗ったサンタクロースがいるのが、まさにこの地域だろうと思う。

そんな寒い北欧の田舎の室内管弦楽団がインターナショナルなレーベル(といっても北欧系のBISだが)に登場し、モーツァルトのフルート作品集を録音している。それだけで興味がわくが、その演奏は早めのテンポで極めて美しい。テクニックが見事というしかなく、早めのテンポの中にそっと入ってきたと思うと、さらっと吹いて出てゆく。音楽がクリアーなのは北欧の澄み切った青空と乾いた空気感を思わせるのは他の録音でも同じである。でもシベリウスの作品などは時に荒々しく、どちらかというと薄曇りのような天候も思わせるので、これは偏見に満ちた想像でしかない。

この演奏の特徴はカデンツァにフィンランドを代表する現代作曲家のひとり、カレヴィ・アホのものが使われていることである。調べてみるとアホはべサリーのために協奏曲も作曲しているようで、彼女はそういった関係もあったのだろいうと想像がつく。モーツァルトの音楽を気持ちよく聞いていて、突如カデンツァに入ると現代風のものになるのは、最近ではよくあることだが、この演奏でもまた同じである。ところが独奏楽器がフルートということになると、何か横笛・・・我が国の笛、もしくは尺八を想像してしまう。これは同じCDに収録された「フルートとハープのための協奏曲」でも同じで、こちらはハープの音が琴に聞こえてくる瞬間がある。

ベザリーのフルートはCDのジャケットの裏表紙に記載されいるように日本製である。ムラマツ24Kゴールドという点について私は詳しくは知らないが、金色をしており特別製だそうである(ホームページでみると1000万円程度する)。一方オーケストラにフルートはいない。フルートが吹くパートは、オーボエによって吹かれている。いろいろな点で興味をそそる演奏である。


【収録曲】
1.フルート協奏曲第1番ト長調K313
2.「フルートと管弦楽のためのアンダンテ」ハ長調K315
3.フルートとハープのための協奏曲ハ長調K299(Hp:ジュリー:パロック)
4.「フルートと管弦楽のためのロンド」ニ長調KAnh.184
5.フルート協奏曲第2番ニ長調K314

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「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...