2020年11月23日月曜日

ドヴォルジャーク:弦楽セレナーデホ長調作品22(クリストファー・ウォーレン=グリーン指揮フィルハーモニア管弦楽団)

弦楽器ばかりの編成で演奏される「弦楽セレナーデ」の最も有名な曲は、チャイコフスキーとドヴォルジャークによって作曲された。この2曲は、まだクラシック音楽のLPが高価だった時代に、よくカップリングされて発売された。特に「ベスト100」の類の、いわゆる廉価版・再発物は、有名曲を並べるのが通例であったから、まさにこの組み合わせはその代表的なものだった。

私が、最初にこの2曲を収録したディスクを聞いたのは高校生の頃で、ネヴィル・マリナーが指揮するものだった。マリナーの演奏する弦楽セレナーデは、主宰するアカデミーのオーケストラの特長を生かしたもので、確固とした演奏は非の打ちどころがなく、いつものように大変素晴しかった。特にチャイコフスキーの方は、もともとドヴォルジャークに比べてより洗練された音楽で、私もそれ以前から聞いており、「アンダンテ・カンタービレ」をはじめとして魅力的な部分に事欠かない。だが意外なことに私を捉えたのは、どちらかといえばB面に入っていたドヴォルジャークの方だった。

ドヴォルジャークの弦楽セレナーデ(1870年)は、チャイコフスキーの方(1875年)に先立って作曲された。ドヴォルザークがチャイコフスキーの作品を聞いてから作曲したとは考えられないが、その逆はあり得る。そして冒頭の主題が最後に回帰するあたりや曲の長さなど、両者はよく似ている点もある。しかしやや都会的な感じがするチャイコフスキーに比べ、ドヴォルジャークの弦楽セレナーデは、終始民族的なメロディーが一貫し、素朴で抒情的な魅力を凝縮したような作品である。

マリナーによるドヴォルジャークの弦セレは、少し派手な感じがしていた。こういう曲はもっとしっとりと演奏してくれと主張しているような気がしてならない。曲の方が演奏を指定しているのである。そういうわけで、心に響くような、懐かしさがこみ上げてくるような演奏に出会わないものだろうか。私にとっての弦セレを求める旅は、このようにして始まった。

コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送管弦楽団の演奏(1987年録音)に出会った時、おそらくこれが理想的なものだと感じた。遅いテンポと、そこに寄り添う控えめでありながら芯のある演奏は、この指揮者の長所が現れたものだ。そしてまた、あるときふと耳にしたアレクサンダー・シュナイダー指揮ヨーロッパ室内管弦楽団による演奏(1984年録音)もまた、ゆったりと流れる遅めの演奏と静かな抒情性を湛えていて大変魅力的であった。このように、特にドヴォルジャークの弦セレの名演には、イギリス人によるものが大変多い。

だがこれまでに触れた演奏は、いずれもどことなくインターナショナルな響きである。発売されるたびに大きなる期待を持って聞くのだが、最終的にこれだとほれ込むには今一歩何かが足りないと感じていた。第1楽章の冒頭は、もっとゆっくりでもいい。そっと頬を撫でるような繊細な演奏は、どこかにないものだろうか、と勝手にこの曲の理想のイメージを描き、それを追い求めている自分を納得させる演奏に、なかなか出会うことができないと嘆いていた。

そんな私を、聞いた瞬間、これだと思わせる演奏に出会ったのは、やはり1980年代後半のことだった。Chandosという、我が国ではまだあまり知られていなかったレーベルから発売されたクリストファー・ウォーレン=グリーン指揮フィルハーモニア管弦楽団による演奏(1986年録音)に出会ったのである。

クリストファー・ウォーレン=グリーンなどという指揮者は無名で、そんな指揮者がいるのかと思ったが、オーケストラはメジャーなフィルハーモニア管弦楽団である。良く読んでみると彼は、このオーケストラのコンサート・マスターをしている人であった。そのウォーレン=グリーンが指揮する弦セレのCDは、何と第1楽章が5分半もかかるゆったりとしたもので、私はこの曲に求めていた究極的な繊細さを実現してくれていたのである。

このウォーレン=グリーンの指揮する弦セレを聞くと、私はなぜか北海道のローカル線を思い出す。誰も乗り降りしないような無人駅を、わずか1両の列車が停まって、一人の若者を残し去ってゆく。晩秋の北海道は紅葉も終わり、初雪が舞いそうな陽気である。何もない山間の中を、ひとり旅する若者は一体どのような人なのだろう。丸で松山千春のレコードのジャケットに登場しそうな光景であるが、人間のイメージと言うのはどこかで目にした風景や光景が、何かと結びついて固定化されてしまうようところがある。特に若い頃のそれは、いつまでたっても枯れるどころか、やがていい塩梅に美化されてゆく。丸で枯れ木にこびりつき、一冬を超すと雪のような結晶と化すザルツブルクの岩塩のように。

というわけで何十年かぶりに聞くウォーレン=グリーンによる弦セレは、私を再び北海道の大自然へと誘ってくれた。それがボヘミアやスコットランドに似ているのかどうかは、訪ねたことがないのでわからない。ウォーレン=グリーンの演奏は、第2楽章になってやや勢いを取り戻すが、基本的には終始同じ感じである。残響が多い録音なので、やや厚ぼったく、丸でイージー・リスニングか映画音楽のように聞こえる時がある。けれども決して女々しい演奏ではないようにも思う。

第1楽章の控えめ目な冒頭の主旋律が、やがて転調されて再現されるところの処理が、高音の弦を活かして見事である。そして第2楽章のワルツや、第3楽章のスケルツォを経て第4楽章のラルゲットに至る時、再び静かで内省的な部分がアクセントとなって胸に迫って来る。ここは、この曲の真骨頂と思う。緩急の音楽がうまく配合され、聞いていて飽きなてこないのは、弦楽器のみの作品としては稀有なことのように思う。これを聞いてチャイコフスキーは、自らの弦セレの作曲を思い立ったのであろうか。

モダン楽器による演奏が影を潜め、より小さい編成でスッキリと引き締まった演奏が主流となった90年代以降に置いて、ほとんどこの曲の新しいリリースを聞かなくなった。そんな中で、かのウィーン・フィルが遂にこの曲を演奏したのは、ちょっとした驚きだった。指揮者はドヴォルジャークには定評のあるチョン・ミュンフンで、手の込んだ音楽づくりはまさにこの曲の新たな魅力を引き出していると言える。丸で絵の具を重ね行くように、弦楽器が交わって聞こえるのは、どの瞬間をとっても味わい深い。私はこの演奏もまた、大変優れたものだと思う。だが、あの北海道の大自然を行く鄙びた風情は、ここからは感じられない。

2020年11月。私は下川町に住む友人を訪ねて、初めて名寄に行った。かつて名寄本線や深名線が交差し、北の分岐点だった町は人口も減ってしまった。冬の平均気温が氷点下10度にもなるという極寒の地の秋は短い。塩狩峠を越えて旭川に向かう帰り道、私は初雪の残る宗谷本線の駅を、一台の列車が通り過ぎるのに出くわした。慌てて写真を撮った。まだ2時だというのに空はどんよりと曇り、その合間から優しい青空が見えた。



2020年11月16日月曜日

メンデルスゾーン:交響曲第2番変ロ長調作品52「賛歌」(S: バーバラ・ボニー、エディス・ウィーンズ、T: ペーター・シュライアー他、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団)

メンデルスゾーンの交響曲第2番「賛歌」の冒頭の主題を聞いて、どこかで聞いたことのあるメロディーだと感じた。校歌か軍歌の類、あるいは昔の放送番組の主題歌か何かではないかと思いめぐらしたが、出てこない。いろいろ検索していくうち、滝廉太郎の「箱根八里」であることが判明した。これは偶然であろうか?

ところがもう一曲、やはり滝廉太郎の有名な「荒城の月」が、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」の第1楽章冒頭によく似ているというのである。あらためて聞いてみると、確かにそうだ。これはもう何らかの関係があるの見て良いのではないか?滝廉太郎と言えば、「春のうららの隅田川」で始まる「花」など、我が国の童謡や歌曲を数多く作曲した人だが、若干23歳で若すぎる死を迎えた。そのメロディーの美しさは「日本のシューベルト」などと例えられる明治時代の作曲家である。

メンデルスゾーンが滝廉太郎の音楽に影響を与えたのは事実だろうか?そう考えながら、滝廉太郎の生涯を読んでいたら、何と彼は明治34年(1901年)、22歳の頃にヨーロッパに渡り、ベルリンを経て何とライプツィヒ音楽院に入学しているのである。ライプツィヒ音楽院はメンデルスゾーンが設立した音楽院である。その前に滝はクリスチャンとして洗礼を受けている。

ところが「荒城の月」や「箱根八里」が作曲されたのは、渡欧する直前の1900年のことである。従って滝は、日本にいる頃にメンデルスゾーンの楽譜に出会い、その音楽を模してこれらの歌曲を作曲したと想像することができる。そしてメンデルスゾーンを滝は慕い、わざわざライプツィヒに向かったのだろうか。しかし彼の肺を蝕む結核にかかるのは、入学後わずか5か月のことだった。

メンデルスゾーンはユダヤ人の家系に生まれたが、キリスト曲に改宗し、数多くの宗教的作品を残している。バッハの大曲「マタイ受難曲」を蘇演したことはメンデルスゾーン最大の功績とされている。そのメンデルスゾーンの交響曲第2番は、まるでカンタータのような作品である。第1楽章から第3楽章までの管弦楽のみの部分を第1部とし、後半の9つのパートから成る第2部には、合唱と独唱、それにオルガンも加わる「賛歌」となる。この作品はベートーヴェンの「第九」のように、交響曲に合唱を取り入れた作品となった。メンデルスゾーンの他の交響曲作品とは、やや趣を異にしている。

その冒頭の主題は、第2部の冒頭でも繰り返される。だが「この歌ではない」とあえて否定したベートーヴェンの、いわばキリストを越えたところにある神とは違って、メンデルスゾーンの神は、まさしくキリストの神である。カンタータ風の音楽は、神を賛美し主を讃える。メンデルスゾーン独特の楽天的な推進力と、ちょっと間の抜けた主題がこの音楽の特徴だと思う。

メンデルゾーンには「エリア」のような大作があるので、この曲については何かを語るのが難しい。主題の動機をいろいろな変奏に仕立て上げ、重ね、分解し、そのようにして音楽を構成してゆく様は、この曲でも明らかだが、その主題がちょっとイージーな印象を残すのは私だけの感想だろうか。だがそのことを省けば、全編に流れる幸福な音楽は、紛れもなくメンデルゾーンである。

メンデルゾーンと言えばマズア、マズアと言えばメンデルゾーンというくらいにメンデルスゾーンを愛し、その音楽を一生の間演奏し続けたクルト・マズアは、長年に亘ってメンデルスゾーンゆかりのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務めた。日本人の妻を持つこともあってか頻繁に我が国を訪れ、日本のオーケストラも指揮している。私はゲヴァントハウス管弦楽団とともに大阪で開いた80年代のベートーヴェン・チクルスを始め、何度も実演を聞いている。特にニューヨーク滞在中は、冷戦後に音楽監督を務めたニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会に、何度も足を運んだ。

自然体でありながら推進力があり、豊穣なメロディーを、まるで暖かい色の絨毯のような弦楽アンサンブルが奏でる響きが魅力的である。この傾向は、まさにメンデルスゾーンの特長そのものである。数あるメンデルスゾーンの演奏の中で、この交響曲第2番の演奏もまた、手慣れた様子で突き進む魅力的な演奏である。他の演奏で聞くとぎこちない部分が、マズアの手にかかると全く見えないばかりか、必然的なものに聞こえてくるのが不思議である。ドイツ的というのではなく、むしろモダン。マズアは目立たない指揮者だったが、実演で聞くとほぼ外れることがない指揮者でもあった。

長年ドイツで活躍しながら、ドイツ的な重厚さには乏しく、自然過ぎてあまり感動的でもない演奏をすると思われていたマズアが、何とメータの後任になってニューヨークへ赴いた時は少々驚いた。当時、ボストンには小澤征爾、フィラデルフィアにはサヴァリッシュがいた。三人に共通するのは、実に精力的に演奏会をこなし、速いテンポでオーケストラをドライブする技巧的な手さばきである。そしてこの3人に共通するのが、メンデルスゾーンを得意とし、名演奏を残していることである。

そのマズアのメンデルスゾーンとして交響曲第2番「賛歌」に登場してもらった。マズアのよるメンデルスゾーンの演奏は、一貫してイン・テンポにより集中力を絶やすことがない。この結果、第1部冒頭の間延びした主題やその変奏も、それなりに音楽的。続く第2楽章は、丸で舞曲のような明るさで、この曲が宗教曲であることを忘れてしまいそうになる。第3楽章も緩徐楽章とはなっているが、伸びやかなセレナーデである。

この曲のマズアによる演奏では、楽章間に切れ目がない。再び第1曲の「箱根八里」が聞こえてくると、そこからが第2部(後半)である。後半は合唱と独唱を伴うが、まずこのメロディーを合唱が歌う。「箱根八里」は箱根登山鉄道の発車メロディーに使われているらしいが、どことなくこれから遠足に行くような気分にさせられる。

マズアの演奏は、ライプツィヒ放送合唱団と三人の独唱(ソプラノがバーバラ・ボニー、エディス・ウィーンズ、テノールがペーター・シュライアー)がいずれも素晴らしく、オルガンを含めた録音もバランスよく秀逸である。全部で9曲ある後半は、ルターが完成させた旧約聖書からの文言が歌詞として用いられているという。合唱が独唱と絡んで高らかに神を讃える部分や、丸でオペラを思わせるような部分、それにフーガなど様々な音楽的要素があるし、メロディーは親しみやすいのだが、どこかインパクトが少ないのも事実で、その辺りがこの曲の限界といったところ。終曲に至って再び、この曲を通したモチーフが現れて終わる。

2020年10月29日木曜日

ベルリオーズ:「死者のための大ミサ曲」ト短調作品5(T: キース・イカイア=パーディ、コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン他)

シャルル・ミュンシュに代表される熱狂的ベルリオーズ演奏の系譜を主流と見る人がいる一方で(我が国にはその傾向が強いし、もしかするとベルリオーズ自身もそう期待していたかも知れないが)、このフランス人作曲家を客観的に再評価し、その管弦楽曲をすべて演奏し録音したコリン・デイヴィスの演奏は、沈着冷静でバランスが良く、丸でお手本のような演奏ながらベルリオーズの魅力を伝えて止まない。デイヴィスの演奏を聞いていると、ベルリオーズが単に情動的な音楽の作り手ではなく、むしろ精緻で繊細な音が魅力の作曲家と思えてくる。この2つの傾向は対照的である。

そのデイヴィスのベルリオーズ録音の中で、どれがもっとも優れているか、というのは愚かな問いではあるが、経済的に制限のあるコレクターにとっては深刻な問題だった。2000年代になってデイヴィスは、ロンドン交響楽団と主要な作品を再録音している。だが一般的には、古い60年代から70年代にかけての演奏の方が、いまだ色あせることがなく新鮮である。新しいロンドン響との演奏には、古い演奏を超える魅力に乏しいように私には思える。

いまでこそ全集が超廉価ボックス・セットで投げ売りされ、YouTubeなどによって無料映像を無制限に見ることができる時代になったが、それまでは「レクイエム」などの、長大な作品に投資することは大変勇気のいることだった。にもかかわらず、気楽に安価に聴ける時代になった今の方が音楽に耳を傾けることが多いかと言えば、必ずしもそうではない。一体何人の人がベルリオーズの「レクイエム」を音楽配信サイトで聞いているのかはわからない。熱心な聞き手はむしろ、生の演奏会場へと足を運ぶ。たとえ何倍もの金額を払ったとしても、その方が得られる感動が大きいことを知っているからである。ただベルリオーズの「レクイエム」のような作品は、演奏される機会がそもそも少ない。それはこの曲の演奏が、時に1000人にも届くような人数を必要とするからだ。

当時としては桁違いに大規模な作品ではあるが、その中身は純粋にして静かな部分が多い。そのギャップもまた激しいのが本作品の特徴である。これは一方で高い録音技術を必要とする。オーディオ・ファンに好まれる作品である。演奏時間は90分に及ぶ(全10部)。テノール独唱と東西南北に配置された4つのバンダを含むオーケストラには、8台のティンパニも含まれる。合唱は混声6部で、場合によっては800人規模になるという。これだけの規模の作品は、ロマン派のワーグナーやマーラーの時代になって作曲されるに至ったのではなく、すでにベルリオーズによって実現されていた。1837年のことであった。ワーグナーがベルリオーズから影響を受け、それがマーラーに受け継がれた。

ベルリオーズの「死者のための大ミサ曲」は、一般的なレクイエムの曲順とは異なっているのも特徴だ。劇的作品を数多く作曲したベルリオーズの自由奔放な創作意欲は、このような宗教的分野にも及んでいる。曲は通常通り「キリエ」で始まるが、その後は「ディレス・イレ」。「ベネディクトゥス」が登場しない一方で「サンクトゥス」が随所に現れる、といった具合。堅苦しいことは考えず、純音楽的に楽しむというのがこの作品に対するアプローチの一つの方法だろう。できればゆったりと時間の流れる静かな空間がある時に、ひとり静かに耳を傾けてみたい。そんな時間は私の場合、すでになくなって久しいが、幸いデバイスの進化のおかげで、家族とは離れることのできる早朝か夜間の散歩時に、少しずつ聞き進めることができる。

10月になってようやく秋めいて来たこの時期。さわやかな風が吹き抜けていく都会の朝に、私はこの曲を持っていった。冒頭の「レクイエム」の静かな合唱が厳かに流れてくると、丸で吟醸酒を飲んでいるかのような陶酔感が全身を覆った。現代社会に生きる我々でも、一度このようなメロディーを聞くと雑事を忘れ、心が落ち着いてくるのが自覚できる。静寂のうちに10分を超える清々しい時間が過ぎてゆく。

次の「怒りの日」で早くもクライマックスを迎える。四角に設えられたバンダとともに、8台ものティンパニが金管和音と共に鳴り響く。凄まじいまでの音楽的立体効果は、優秀なレコーディング・エンジニアを悩ませてきたことだろう。ここの録音を、他の部分とどう対照づけるかが、ひとつの聞きどころではある。この曲のクライマックスが前半に置かれていることによって、この曲を最初に聞いた時には何か煮え切らないものが残ったような気がした。だがそれも最初だけである。なぜならベルリオーズの真骨頂は、後半の静かな部分にこそたっぷりと用意されているからだ。

続く第3曲あたりからは、静かな部分と派手な部分が交互に現れる。比較的短い第3曲「クィド・スム・ミセル(そのとき憐れなる我)」のあと、管弦楽主体の部分(第4曲「レクス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)」)や、逆に合唱のみの部分(第5曲「クェレンス・メ(我を探し求め)」)が続く。このあたりは、実際の演奏で聞いてみたい。それぞれの楽章の色付けの違いや、聞こえてくる音の多彩さを実感すると思うからだ。

続く第6曲「ラクリモサ(涙の日)」は、今一つのクライマックスと言える。再び四角のブラスバンドと合唱が、「最後の審判」を描く。大音量が鳴り響くときでさえ、ベルリオーズの音楽は純粋で透明感を失わない。そのあたりが情動的でありながら天国的な美しさを併せ持つという、独特の離れ業とも言うべきものの実体である。

各楽章が10分程度とたっぷりなのも嬉しいが、第7曲「ドミネ・イエズ(主イエス・キリストよ)」は再び管弦楽主体の部分で、しかも極めてロマンチック。ベルリオーズの音楽の魅力を簡単に言えば、フランス風バロックの手法を残しながらも、ロマンチックなことだと気付く。以降の音楽で、もはや大音量の効果は登場しない。精緻で純音楽的な魅力こそが、この大規模な曲の真骨頂なのだと気付かされてゆく。

第9曲「サンクトゥス(聖なるかな)」で活躍するのは、テノールの独唱である。天国的に美しい天使の歌声は、できれば少年合唱で聞きたいと思うのだが、これを採用しているのはコリン・デイヴィスの古い録音である。そしていよいよ終曲「アニュス・デイ」では、冒頭の第1曲「レクイエム」のメロディーが再び登場する。まるで魔法にかかったかのように、心が洗われてゆく。90分にも及ぶ大曲は、静かに染み入るように終わる。ベルリオーズはこの曲をたった数ヶ月で作曲したが、その初演を依頼された政府からキャンセルされるという逸話が残っている。彼はそれでも諦めず、同じ年の暮れに初演にこぎつけた。生前、ベルリオーズは「もし自作で一つの作品を残すだけとするならば、《死者のためのミサ曲》を残してもらうだろう」と語ったという。

この大規模な曲を記録した演奏にはいくつかあるが、ベルリオーズの第1人者コリン・デイヴィスに関して、古いフィリップス録音の方が新しいLSO Live盤よりも、おしなべていいとすでに書いた。ところがこの「レクイエム」に関しては、いくつかのことがわかっている。まず古いフィリップスの録音は、かならずしも録音の観点で満足できるものではないということである。少し聞いてみれば、それはわかる。そこでフィリップスを退社したエンジニアが満を持してリリースしたのが、この録音のリマスター盤(Pentatone)である。Pentatoneは、リリースするすべてのディスクがSACD仕様となっている。どのようにして2chを5.1ch仕様に仕立て上げるのか、細かいことはわからない。しかも私はSACDの聞けるプレイヤーを持っていない。このことから、たとえこのディスクを入手したところで、聞くことができるのはCD層ということになってしまう。一方、LSO Live盤もまたSACDとのハイブリッド盤で、もしかするとSACDでならこの曲の持つ破格の広がりを捉えているのかも知れない。しかし上記の理由で、私はこの演奏も諦めるしかない。

ところがデイヴィスの「レクイエム」には、これらのほかのシュターツカペレ・ドレスデンとライブ収録したディスクが存在するのである。これは1994年2月のことで、ドレスデン爆撃戦没者追悼演奏会として極寒の中、演奏された。いわば特別な演奏会を収録したこのディスクは、静謐な部分でさえ何か熱いものを感じるもので、その様子が良く捉えられている。

一連のベルリオーズの作品を、コロナ禍で不自由な今年、順に聞いてきた。そのあとで感じるのは、この作曲家が持つ美しい調べと、限りない魅力を讃えているにもかかわらず、あまり評価されていないことである。私は特に、どんな作品でも実演で聞いてみたいと思った。「キリストの幼時」や「レクイエム」は、しなしながら演奏される機会が極めて少ない。新型コロナウィルスの蔓延によって変わってしまった世の中から演奏会が消えてしまった。一部は再開の動きも見られるが、小規模な音楽が中心である。大人数が大声で歌うベルリオーズの作品は、それが再びステージに上がるまで長い年月を要するに違いない。私は生きている間に、これらの作品に触れる機会は、もうないだろうと思う。いや今年は、ベートーヴェンの記念の年であるにもかかわらず、あのお祭り騒ぎのような「第九」もすべて流れてしまったようだ。

【収録情報】
第1曲 入祭唱とキリエ
第2曲 ディエス・イレ(怒りの日)
第3曲 クィド・スム・ミセル(そのとき憐れなる我)
第4曲 レクス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)
第5曲 クェレンス・メ(我を探し求め)
第6曲 ラクリモサ(涙の日)
第7曲 ドミネ・イエズ(主イエス・キリストよ)
第8曲 ホスティアス(賛美の生贄)
第9曲 サンクトゥス(聖なるかな)
第10曲 アニュス・デイ

キース・イカイア=パーディ(T)
ドレスデン国立歌劇場合唱団
ジンフォニーコール・ドレスデン
ジングアカデミー・ドレスデン
シュターツカペレ・ドレスデン
コリン・デイヴィス(指揮)

2020年10月20日火曜日

サルスエラ名曲集(イーゴリ・マルケヴィチ指揮スペイン放送交響楽団)

ロシア生まれの巨匠、イーゴリ・マルケヴィチは、1960年代にスペイン、マドリッドにある国立放送局(RTVE)のオーケストラを指揮していたことは、あまり知られていない。この頃スペインは独裁政権の時代である。そして、そのような中で、スペインの民族舞台劇であるサルスエラの名曲集をフィリップスに録音している。このような珍しいCDは、掘り出し物の類であろう。私は池袋のHMVに毎週のように出かけては、数枚のCDを買うという生活を繰り返していた時期があるが、ある日このCDが目に留まり、サルスエラとは何かもしらないままレジへ向かったのを覚えている。

サルスエラとは、スペイン語によるオペレッタのような音楽劇で、様々な歌や踊りが入れ替わり立ち代わり登場する賑やかなもの。そのごちゃまぜな様子は魚介スープ「サルスエラ」にも転用されている。あの名歌手プラシド・ドミンゴは、両親がサルスエラの歌手だったこともあり、サルスエラに対する思いはことのほか強いようだ。「サルスエラのロマンス」という歌曲集もリリースしている。また「三角帽子」や「恋は魔術師」で有名なファリャも、若い頃はサルスエラの作曲をしていたようだ。

そのサルスエラの名曲集を、マルケヴィチが演奏しているというのが面白い。マルケヴィチと言えば、我がNHK交響楽団を指揮していた頃の晩年の姿が目に浮かぶ。「展覧会の絵」や「悲愴」などの映像を見ると、ロシアの大地を思わせるような動じない指揮ぶりは、丸で剛速球を投げ込む投手のような感じで、CDで聞く「春の祭典」のハイ・テンションな「爆演」はあたかも戦車が行くがごとくであった。

このCDに収録されているのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した作曲家の、12種類のサルスエラである。情熱的な指揮、そして音楽は、冒頭からトランペットが鳴り響くことで始まる。カスタネットやトライアングルなどの打楽器も混じり、全編これスペインの音楽を満喫させてくれる。終始ブンチャ・ブンチャのリズムが続く。アリアや合唱が入る曲もあるが、どちらかというと管弦楽が主体の場面が多い。例えば、有名なペネーリャの「山猫」からは、舞踊音楽「パソドブレ」が取り上げられている。

闘牛とフラメンコ。このいずれにも実際には接したことはないのだが、その光景が目に浮かぶようである。マドリッドを始めとするスペイン各地の大変有名な曲ばかりを集めているようだが、詳細はよくわからない。そこでいろいろ検索していると、東京に日本サルスエラ協会(Asociación de la Zarzuela de Japón)というのがあることがわかった。何と東京で、日本人により、有名なサルスエラの舞台を制作、上演しているようなのである。だから私かここに下手くそな解説を書くよりも、専門家に任せようと思う。サルスエラの魅力について、ホームページに詳しく書かれている(https://www.zarzuelajp.com/)。

この珍しいCDは、サルスエラとはどういう音楽か、ということを知る手掛かりとなることに加え、それをロシアの巨匠が大変生々しく指揮しているという風変わりな魅力に溢れた一枚である。1967年の録音。


【収録曲】(ジャケット裏面を参照)
1. ビーベス: サルスエラ「ドニャ・フランシスキータ」より
2. ヒメネス: サルスエラ「早咲きの娘」より
3. ヒメネス: サルスエラ「ルイス・アロンソの踊りの宴」より
4. ブレトン: サルスエラ「ラ・パロマの夜祭」より「セギディージャ」ほか
5. ルーナ: サルスエラ「ユダヤの子」より「インドの踊り」ほか
6. ペネーリャ: サルスエラ「山猫」より「パソドブレ」
7. アロンソ: サルスエラ「ラ・カレセーラ」より
8. チャピ: サルスエラ「榴弾隊の鼓手」より
9. チャピ: サルスエラ「人さわがせな女」より
10. チュエカ: サルスエラ「水、カルメラ、焼酎」より
11. バルビエリ: サルスエラ「ラバピエスの理髪師」より
12. カバリェーロ: サルスエラ「巨人と大頭」より

2020年10月19日月曜日

サラサーテ:「ツィゴイネルワイゼン」他(Vn: ユリア・フィッシャー、P: ミラナ・チェルニャフスカ)

 スペインの名ヴァイオリニスト、パブロ・デ・サラサーテが作曲した名曲「ツィゴイネルワイゼン」とは、「ジプシーの旋律」という意味である。タイトルがドイツ語なので、どこか中欧の雰囲気のする曲だと勘違いしていたが、これはれっきとしたスペインの曲、ということになる。サラサーテは、自らが学んだパリのほか、ヨーロッパ各地を旅してヴァイオリンの演奏を披露した。従って、ヴァイオリンの技巧を凝らした曲ばかりである。

「ツィゴイネルワイゼン」は、確か中学校の音楽の教科書で取り上げられていたから、私は音楽の授業時間に聞いた。ここでの演奏は、オリジナルの管弦楽を伴奏にしたものだった。私はキーキーとなるヴァイオリンの音が当時は苦手で、特に中間部などはそのゆるゆるした部分が長く続くので、あまり楽しめないと思っていた。ところが母が、この曲のレコードを聞きたいと言い出した。我が家には当時、「ツィゴイネルワイゼン」のレコードがなかったのである。

私は大阪のニュータウンに住んでいたが、近所の駅にあるレコード屋に出かけた。もっとも畳2畳ほどの狭い店である。そこにクラシックのレコードなど数える程しか置かれていない。けれども一枚一枚探してみると、ドーナツ盤の中に「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを発見した。これは当然45回転である。そしてその演奏は、誰のものだったかは忘れたが、ピアノを伴奏にしたものだった。そして中間部の退屈さは、管弦楽版以上だった。大阪では吉本新喜劇にも「ツィゴイネルワイゼン」は使われているから、それなりに有名だったのだろう?

この時の記憶があるからだろうか、私は「ツィゴイネルワイゼン」を聞くと、昭和の初期の喫茶店などで蓄音機から流れてくる、ノイズ混じりの演奏を想起してしまう。特に長い中間部のゆったりとした旋律は、セピア色の背景に揺れ動き、時にノイズに埋もれるような噛みしめるような静かな演奏。その演奏はピアノをバックにしたものがいい。というわけで、私もこの曲は、ピアノ伴奏版の中から選ぶことにした。もちろん管弦楽版では、あのムターの立派な演奏や、パールマンの素晴らしい名演奏などが目白押しである。

そのような中で、ユリア・フィッシャーが2014年にリリースした一枚が目に留まった。このCDは、珍しい曲を含めサラサーテの曲ばかりが収められている。そのような中で私は「バスク奇想曲」や「アンダルシアのセレナード」といった曲を聞いてみたいと思ったからだ。特にバスク地方を題材にした作品は、あまり記憶にないことから大変興味深い。サラサーテ自身、バスク人だということからだろうか。

このCDには「スペイン舞曲集」という全8曲から成る代表作が収録されている。様々な地方の様々な音楽を用いた作品で興味深い。いすれもヴァイオリンの技術を駆使した作品である。このCDの収録順は変わっていて、このスペイン舞曲の第7番、第8番が先頭である。そして「アラゴンのホタ」、「アンダルシアのセレナード」と続くのだが、この曲順がなかなかいいと思う。第8番のスペイン舞曲「ハバネラ」は、どこかで聞いたことがあるような気がした。「アンダルシアのセレナード」は、静かな曲かと思いきや、リズムの変化の激しい曲である。全体に何か懐かしいムードがあって、ヴァイオリンによるスペイン紀行といった感じである。

一方「ナイチンゲールの歌」はロマンチックな少し変わった作品で、この曲が丁度真ん中に収められている。後半はスペイン舞曲に戻るが、ここからは一気に最後までさわやかな演奏が続く。中でも第5番「プラジェーラ(哀しみ)」で物思いに沈んだあと、第6番「サパテアード」で一気に駆け抜ける爽快な気分は、聞けば聞くほど味わい深い。だがダウンロードやストリーミング配信が中心となった現在、かつてのような曲の収録順は、さして意味を持たないものになってしまったのは、ちょっと残念ではある。

フィッシャーの演奏は、サラサーテについて私がいつも想像する、古色蒼然とするセピア色の演奏からはかけ離れた、完全に現代のフレッシュな演奏である。彼女の驚くべき技巧が、そのように感じさせてくれる。「ツィゴイネルワイゼン」などはそれゆえに、若干思い外れのような部分がないわけではない。洗練され過ぎているとでも言おうか。だがそれも、彼女の類稀な技巧ゆえのことなのだろうと思う。

管弦楽版の演奏は、アンネ・ゾフィー・ムターの演奏とパールマンによるものが優れていると思う。特に後者は、この曲の持つムードをよく表現している。サラサーテの名曲「カルメン幻想曲」は、ビゼーの作品を元にした曲だが、アンコール・ピースとして有名である。やはりムターの演奏が、ウィーン・フィルというゴージャスなバックを得て非の打ち所がない。


【収録曲】(曲順は入れ替え)
1. スペイン舞曲集
  第1曲: マラゲーニャ
  第2曲: ハバネラ
  第3曲: アンダルシアのロマンス
  第4曲: ナバラのホタ
  第5曲: プラジェーラ(哀しみ)
  第6曲: サパテアード
  第7曲: エル・ビト
  第8曲: ハバネラ
2. 「アラゴンのホタ」作品27
3. 「アンダルシアのセレナード」作品28
4. 「ナイチンゲールの歌」作品29
5. 「バスク奇想曲」作品24
6. 「ツィゴイネルワイゼン」作品20

2020年10月13日火曜日

ファリャ:バレエ音楽「恋は魔術師」(カンタオーラ: マリーナ・エレディア、パブロ・エラス=カサド指揮マーラー室内管弦楽団)

 ファリャの「三角帽子」と並ぶもう一つの名作が、「恋は魔術師」である。演奏時間は25分程度と「三角帽子」に比べると少し短いが、より鮮烈な印象を残す名曲と言える。「三角帽子」と同様、女声の独唱が取り入れられているが、これは主人公のジプシー娘である。

私は「恋は魔術師」の中で踊られる「火祭りの踊り」を、クラシック音楽を聞き始めた最初の頃(つまり小学生の低学年の頃)に聞いた。モーツァルトやウィンナ・ワルツのような、いわゆる上品な作品とは異なって、何やら不気味な音楽が異質に聞こえ、あまり好きにはなれなかった記憶がある。だが印象には残った。

火を扱った描写音楽として、この「火祭りの踊り」は傑出したものであろう。そして火を祭るという、どこか異教徒めいているのが面白いところで、やはりスペインはイスラムの影響を受けた国だということを思い起こさせる。もっとも我が国には火を祀る伝統もあって、土着的で原始的な雰囲気がそこにはある。

「恋は魔術師」を全編聞いたのは、しなしながら比較的最近になってのことだった。「三角帽子」の後に収録されているディスクが多いから、この2つの作品はセットである。そしてアンセルメの歴史的名盤を取り上げたあとになって、私は「恋は魔術師」をもっとも最近の演奏から選ぼうとした。その結果、スペイン生まれの指揮者、パブロ・エラス=カサドが指揮するマーラー室内管弦楽団の演奏に出会った。聞いた瞬間、これだと思った。

わざわざ最新の演奏から名演奏を選ぼうとしなくても、この演奏はおそらくアンセルメ以来の代表的な演奏になるだろうと思われる。新古典的なラディカルさを持って耳に迫って来るリズムも情熱的で、それを最新の録音技術が良く捉えている。さらには起用された女性歌手が、フラメンコの歌い手だと知った時、この演奏がもたらす独特のムードの秘密がわかった。

マリーナ・エレディアという歌手(カンタオーラというらしい)が地声のような声で歌う箇所は、3か所ある。まず「悩ましい恋の歌」では、激しく刻まれたアンサンブルに乗って、叫びのような声が披露される。こういう歌を聞いていると中世の世俗音楽が、そのまま20世紀に残っているように思う。「恐怖の踊り」と「火祭りの踊り」を挟んで再び飾らない声が響くのは「きつね火の踊り」である。

「きつね火」とは何だろうか?この機会に調べて見ると、これは我が国で伝わる怪火のことで、火の気のないところに漂う不気味な火のことだとわかった。これはつまり、人魂のことではないだろうか。だがスペインに「きつね火」があるのだろうか?そこで原題を調べると「fuego fatuo」とある。これをスペイン語の辞書で調べて見ると、山野にともる不気味な青い炎の画像が沢山検索された。我が国であれスペインであれ、鬼火、人魂、あるいは死体などから発生する不可解な炎に関する伝承はあるようなのである。

「恋は魔術師」を聞いて感心するのは、ピアノがオーケストラの楽器と完全に同化して、実に効果的に使われていることだと思う。通常、オーケストラの中にピアノが混じると、協奏曲とはいかないまでも独奏主体の部分が目立ちがちである。しかしこの曲ではそういうことはなく、しかもオーケストラの中に埋没してもいない。

後半は静かな部分が続くが、これも幻想的である。そして簡素な終曲を迎える。亡霊を扱った作品に、魔術や呪術が登場し、音楽的な情景描写も極まった感がある優れた作品だと思った。2019年のリリース(ハルモニア・ムンディ)。

2020年9月29日火曜日

ファリャ:バレエ音楽「三角帽子」(S: テレサ・ベルガンサ、エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団)

エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団によるファリャのバレエ音楽「三角帽子」の演奏は、今もって色褪せることなく聞き手に幸福感をもたらす名盤である。録音は1961年、今から60年も前のものである。「情熱の国」スペインの色彩感豊かな音楽の演奏に、何もそんな古いものを持ち出さなくても、もっと他にいい演奏があるだろうに、などと思うことなかれ。たとえ新しいデジタル録音された演奏があったとしても、この演奏の価値が下がることはないだろう。

このディスクを、私はまだCDが出始めた頃に買っている。このCDを買った当時のコレクションは、まだ10枚目にも達していない頃だった。自分のお金で買ったCDとしては随分な出費だった。それだけ思いが強かったと言える。だが今回この曲を取り上げるに際して、このいかにも古い(それは私が生まれるよりも前の録音である)アナログ録音をわざわざ取り上げるべきかと迷った。だがその思いは、冒頭の演奏を改めて聞いた瞬間に吹き飛んでしまった。

バレエ音楽「三角帽子」はファリャの代表作で、アンダルシア地方を舞台にした物語である。ここで踊られる音楽は、冒頭のティンパニとトランペット、そこに間髪を入れず加わるカスタネットによる強烈なリズムで始まる序奏に象徴されているように、終始スペイン色満載である。沸き立つようなリズムと情熱的なメロディー、それに2か所で歌われる粉屋の女房の歌声。スペインの踊りを含むバレエ作品は数多いが、この曲は全編がスペインの踊り。それを聞くだけでもワクワクするのだが、どういうわけかコンサートのプログラムにのぼることは滅多にない。私も実演で聞いたことはない。

「三角帽子」は役人の象徴で、粉屋の女房に横恋慕した悪代官は、村人たちによって徹底的に茶化される。いわばこれは風刺の効いた反権威的物語というわけである。そしてどどういう関係があるのかわからないが、この曲にはベートーヴェンの交響曲のパロディーが使われている。

民族性豊かな曲もさることながら、アンセルメの職人的な棒さばきこそ聞きものである。アンセルメはデッカによる鮮明で奥行きのあるアナログ録音にも支えられて、生き生きとした演奏に仕上げている。暖かくも時には鮮烈で、目を見張るようだ。ためを打ってリズムを変えるあたりは、今では聞くことのできなくなった名人芸で、驚異的なことにオーケストラは、まるで魔法が乗り移ったように即座に反応している。この演奏を聞くと、その弟子であるシャルル・デュトワの演奏など、生真面目で大人しくつまらない演奏に聞こえる。

その演奏の確からしさは、アンセルメこそがこの音楽の初演をしていることからも納得できる。序奏に続き、第1部での「ファンダンゴ」(粉屋の女房の踊り)、「ぶどう」、第2部の「セギディリア」(近所の人たちの踊り)、「ファルーカ」(粉屋の踊り)、「代官の踊り」と続き、「終幕の踊り」で大団円を迎える。「終幕の踊り」でのアンセルメの指揮ぶりは、いっそう色彩感に溢れ、千変万化するリズム処理は見事ということに尽きる。これだけの興奮と緻密さをもってこの曲が演奏されることはない。

このようなアナログ初期のデッカ・サウンドは、RCAにおけるLIVING STEREOの一連の録音などと同様、芸術的な域に達しているとさえ言えるだろう。それは現在の、より多くのビットと広い帯域をもったデジタル・サウンドとも異なるものだ。もしかするとコンサートホールでさえ聞くことのできない音がそこにある。これはステレオ録音技術が最初に目指した音楽表現のひとつの到達点である。

今発売されているこの演奏のディスクには他に、歌劇「はかなき人生」から間奏曲、それに今一つのバレエ音楽「恋は魔術師」が併録されている。だが私が昔買ったCDには、「恋は魔術師」はついていなかった。だからというわけではないが、「恋は魔術師」は別の演奏から選ぼうと思う。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...