2023年1月17日火曜日

NHK交響楽団第1974回定期公演(2023年1月15日NHKホール、トゥガン・ソヒエフ指揮)

また素敵なピアニストに出会ってしまった。上海生まれのハオチェン・チャン(Hao-chen ZHANG、张昊辰である。彼が紡ぎだす音楽は、気を衒わない程度に揺れ動き、ささいな感情の変化を表現する。その細やかで、かつ自信に満ちた音楽性は、聞き手にちょっとした驚きをもたらす。そうだ、まだこのような表現があったのだ。それは過去の他の演奏を打ち消すような攻撃性はなく、むしろその中に溶け込んで、自然に独自の世界を切り開いているように見える。なるほど、だから2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールでは辻井伸之と一位を分け合った。

この音楽性が、3年ぶりにN響の指揮台に立つトゥガン・ソヒエフと唯一無二のコラボレーションを繰り広げる。結果生まれる音楽は、完璧である。さらにその音楽が、ブラームスのピアノ協奏曲第2番である。イタリアに触発された北ドイツの作曲家の、ほのかに明るく気楽でありながら、ストイックで静かな音楽を奏でると、知的な愉悦感と安らぎが高度な次元で融合する。イタリアの片田舎を旅するようなのどかなその情景は、夏の朝の中に立ち上る静かな川縁であったり、秋の夕暮れの平和的な田園だったりする。

ソヒエフの伴奏は見事というほかなかった。もともと私はソヒエフを初めて聞いた時から、N響の音がいつもと違うと感じたものだ。それはテレビで見たときに直感した。その後実演で聞いた組曲「シェヘラザード」の圧倒的な名演と、その前に演奏されたブリテンやフォーレの作品で、私は生涯忘れられないコンサートを経験したが、当時音楽監督だったトゥールーズ・キャピトル管弦楽団によるチャイコフスキーの「白鳥の湖」でも、同じことを感じた。彼は不思議なように、オーケストラの音色を操る。音と音の組み合わせが、一音一音と異なっていくそのさまを、全く最適な音量で轟かせる天才的な才能を持っている。

これがフランス音楽のエッセンスとでも言うべきもので、精緻で繊細な音の変化がもたらす雰囲気は、まるでほんの少しの醤油を混ぜただけで味が変化する日本料理のように奥深い。そして今回のドイツ音楽でも、そのことは立証されたのだ。ブラームスの内省的で複雑な心理が、こんなに見事に表現されたことがあっただろうか。そしてピアノの明るいタッチが、ブラームスとイタリアという、どこか相容れないようなものの融合を見事に表現した。あのポリーニがアバドと録音した演奏がそうであったように。

第1楽章のホルンの出だしとそれに続く長いソロ。スケルツォ楽章の独特な変化はリズムにも表現され、第3楽章でのチェロ独奏部分を頂点に、最終楽章での、まるで踊るような嬉しさの中で迎えるコーダに至るまで、酔いに酔った50分間は至福の時間だった。まさかこんな演奏を味わえるとは思ってもいなかった。ハオチェン・チャンは、プロフィールによれば1990年生まれ、若干32歳ということになる。日本での公演も多いというから、一度リサイタルを聞いてみたい。評判によればシューマンが良さそうである。

私が思い立ってN響の定期公演に出かけたのは、朝から冷たい雨が降ると予想され、趣味のウォーキングを諦めざるを得なかったからだ。NHKホールでのN響のコンサートに行くのは、コロナ禍直前の2020年1月以来だから、丁度3年ぶり。これは前回のソヒエフの来日とほぼ同時期である。だがこの間に世界は変わってしまった。プログラム・ノート「フィルハーモニー」によれば、北オセチア生まれのロシア人である彼はウクライナ戦争が始まった時、トゥールーズのオケとボリショイ劇場の音楽監督を自ら辞任したそうである。芸術家か政治を通したメガネで見られるのを嫌ったからだろうか。この間にNHKホールは改装のため、一時的に拠点を池袋に移したが、この東京芸術劇場で聞くN響は、どこか違和感があって好きになれなかった。このたび会場がどんな風に変わっているのだろうかと興味があったが、椅子の狭さや音響など、何一つ変わっていないように思えた。

ソヒエフの音楽は、健在だった。いやより深みに達したのではないか。それが如実に証明されたのが、プログラム後半のベートーヴェンだった。私はコロナ禍で、生誕250周年となった2020年のベートーヴェンの演奏会を全てあきらめざるを得なかったが、それを埋め合わせるように、交響曲が演目に上ればチケットを買って聞いてきた。第5番、第9番「合唱」、第3番「英雄」、第7番、第6番「田園」と聞いてきて、今回は第4番である。この「北欧の乙女」のシンフォニーを、記録によれば過去に10回程度は聞いているようだが、記憶に残っているのはあのカルロス・クライバーの来日演奏だけである。しかし今回の演奏は、その演奏にも勝るような完成度だったと思う。

今回の私の席は、少しケチってB席だったこともあり(何と当日券は座席指定ができないと言われた。かつてはできたのに!)、1階席ではあるもののほとんど壁際というところ。この位置で聞いた演奏もいくつかあるが、あまりいい印象はない。ところが、である。指揮者がソヒエフに変わって、何とこの位置でも素晴らしくいい音に聞こえるではないか!それは奇跡といってもいいくらいに、音と音が程よく溶け合う。さらにはピアノまでも!何度も書くが、ソヒエフの音の組み合わせのバランスと強弱の妙が、こんな位置でも確認でる!そしてN響の木管楽器が、とても見える位置ではないにもかかわらず、手に取るようにヴィヴィッドだ。何ということだろう、それに向こう側に座っているヴィオラのパートの熱演ぶりが、指揮者を超えた位置からもよくわかるのだ。

驚いたことにソヒエフは、ふだん両手のみで指揮するが、ベートーヴェンの演奏では指揮棒を持って現れた。音の強弱にさらにメリハリがつけられ、手品のように各パートを指示していく。丁度真横から見る彼の指揮ぶりは、クライバーとはまた異なった興奮に満ちたものだ。オーソドックスな演奏でありながら、これほどにまで確信に満ちた見事な演奏には、そう出会えるものではない。オーケストラも乗っている。どこかどうというわけではなく、すべてがいい。良く知った音楽が見事に終わって、マスクをしていなければ飛び交ったであろうブラボーを心の中で大きく叫びながら、許可された写真を何枚も撮った。舞台袖から花束が送られ、それが本日限りでコンサート・マスターを引退する「マロさん」こと篠崎史紀氏に渡されたとき、とりわけ大きなものとなった拍手は、珍しいことにオーケストラが立ち去っても鳴りやまなかった。そういえばそれまで冷めた客が多かったN響のコンサートだが、いつのまにか登場の際にも拍手が起こるようになっていた。3年ぶりのコンサートで、変わったものと変わらなかったもの。その両方がいろいろ発見だった、私にとっての今年最初のコンサート。

今シーズンからN響のシェフは、イタリア人のファビオ・ルイージに変わった。ソヒエフもそうだったが、世界中を飛び回る多忙極まりない指揮者には、もう少し落ち着いてコンサートを指揮してもらう必要があると感じていた。だがコロナ禍を経て、少なくともソヒエフに関しては今月はたっぷり3つのプログラムを振る。最近発表された来シーズンでも、再び1月に来日することが決まっている。ハオチェン・チャンとソヒエフは、今私が目を離すことにできない音楽家である。

2023年1月9日月曜日

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート(22)オペレッタの序曲など

後半のプログラムの冒頭では、ヨハンやスッペによるオペレッタの序曲が演奏されることが多い。またウィーン・フィルを設立したオットー・ニコライの歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲も、特別な存在として過去に2回取り上げられている。

ヨハンの作曲した数多くのオペレッタ作品は、その中で用いられるワルツや行進曲が、しばしば別の作品として成立していることも多いし、メロディーだけをつなぎ合わせてチャルダーシュとして演奏されることも多い。

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ヨハン・シュトラウス2世の作品

  • 喜歌劇「インディコと四十人の盗賊(千夜一夜物語)」序曲
    • ムーティ(93)、プレートル(08)
  • 喜歌劇「こうもり」序曲
    • マゼール(80)、☆カラヤン(87)、アバド(88)、★クライバー(89)、小澤(02)、プレートル(10)、バレンボイム(22)
  • 喜歌劇「メトゥザレム王子」序曲
    • メータ(98)
  • 喜歌劇「女王陛下のハンカチーフ」序曲
    • ムーティ(04)
  • 喜歌劇「ヴェニスの一夜」序曲
    • マゼール(94)、★アーノンクール(01)(ベルリン版)、バレンボイム(09)、ヤンソンス(16)
  • 喜歌劇「ジプシー男爵」序曲
    • カラヤン(87)、クライバー(92)、バレンボイム(09)、★ティーレマン(19)
  • 喜歌劇「くるまば草」序曲
    • アバド(91)、★マゼール(96)、☆メータ(07)、バレンボイム(14)
  • 喜歌劇「理性の女神」序曲
    • マゼール(96)

スッペの作品

  • 喜歌劇「詩人と農夫」序曲
    • ★ムーティ(21)
  • 喜歌劇「スペードの女王」序曲
    • ドゥダメル(17)
  • 喜歌劇「美しいガラテア」序曲
    • ボスコフスキー(79)、★マゼール(05)
  • 喜歌劇「軽騎兵」序曲
    • ムーティ(97)、★ウェルザー=メスト(13)、☆ネルソンズ(20)
  • 喜歌劇「山賊の仕業」序曲
    • メータ(95)
  • 喜歌劇「イザベラ」序曲
    • ウェルザー=メスト(23)
  • 喜歌劇「ボッカチオ」序曲
    • ムーティ(18)
  • 「ウィーンの朝・昼・晩」序曲
    • メータ(90)、☆ムーティ(00)、★メータ(15)

ニコライの作品

  • 歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
    • ★クライバー(92)、☆プレートル(10)

2023年1月8日日曜日

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート(21)ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ

兄のヨハンとは対照的に、弟ヨーゼフの作品には内省的で奥ゆかしい傾向があるとされる。華やかさには欠けるものの、味わい深い作品が多い。その象徴的な作品が「天体の音楽」で、演奏される機会が多い。 しかしオペレッタ作品はなく、取り上げられる作品も少ない。

今年2023年のニューイヤーコンサートでは、久しぶりにウェルザー=メストが登場したが、何とわずか1曲を除き、すべて初登場の曲だった。そしてその1曲が、ヨーゼフのワルツ「水彩画」だったことは記憶に新しい。

  • 「オーストリアの村つばめ」作品164
    • ☆クライバー(92)、★アーノンクール(01)、プレートル(08)、メータ(15)
  • 「ディナミーデン」作品173
    • ☆ムーティ(97)、メータ(07)、バレンボイム(14)、★ネルソンズ(20)
  • 「トランスアクツィオン」作品184
    • ムーティ(94)、★ティーレマン(19)
  • 「うわごと」作品212
    • ★マゼール(80年代)、カラヤン(87)、☆アーノンクール(03)、メータ(07)、ヤンソンス(12)
  • 「天体の音楽」作品235
    • カラヤン(87)、クライバー(92)、ムーティ(04)、バレンボイム(09)、ヤンソンス(13)、ヤンソンス(16)、ティーレマン(19)、バレンボイム(22)
  • 「水彩画」作品258
    • マゼール(80)、★アバド(91)、☆小澤(02)、ウェルザー=メスト(23)
  • 「我が人生は愛と喜び」作品263
    • ★メータ(95)、ウェルザー=メスト(11)

私が最も好きな作品は「うわごと」だが、何故か演奏される機会は多くない。カラヤンがよく取り上げ、87年のニューイヤーコンサートでも演奏されたが、カラヤンとしてはベルリン・フィルとの録音盤の方が上出来である。

2023年1月7日土曜日

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート(20)ヨハン・シュトラウス2世のワルツ

年明けはここ2年に亘り、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートについて書いてきた。今年はその総集編として、ヨハンとヨーゼフの有名なワルツについて、触れておこうと思う。

毎年、数多くの作品が演奏されるお正月恒例のニューイヤーコンサートだが、後から振り返って、さてこの作品はいつ誰によって演奏されたか、と考えることは多いにもかかわらず、なかなか思い出せない。そもそも誰が演奏しても、よく似た演奏になるのも確かだが、その分印象に残らないということだろうか。もっとも、シュトラウス一家のワルツは、ウィーン・フィルでなくてもいい演奏が存在するわけで、何も有名指揮者が意を決して望むような大曲でもない。「美しく青きドナウ」なら毎年、アンコールに演奏されているから、まあ旬の演奏はその時にだけ聞いておけばいい、という考えもある。実際、どの作品が何年に誰によって演奏されたかを一覧できるアーカイブは、いろいろ探したが見当たらなかった。

そうであるなら自分で作るしかない。ここではヨハンの、いわゆる「十大ワルツ」、およびヨーゼフの「七大ワルツ」を中心に主要作品を取り上げる。またヨハンやスッペによるオペレッタの序曲は、別に取り上げることとする。★は特に印象が残った演奏。☆は次点。私が様々なソースをもとにまとめただけなので、抜け漏れがあった場合にはご容赦いただきたい。また、演奏は一部を除き、ニューイヤーコンサートが一気にメジャー化した1987年のカラヤン以降のものを取り上げた。それ以前の「古き良き時代」には、クラウス、ボスコフスキーらが数多く演奏しており、これらが今もって最高の演奏とされていることは、言うまでもない。

  • 「加速度円舞曲」作品234
    • クライバー(89)、マゼール(94)、ムーティ(04)、メータ(15)
    • 真に印象に残る演奏は、これらではなくクリップス(57)
  • 「朝の新聞」作品279
    • ★メータ(95)、アーノンクール(01)、プレートル(10)、バレンボイム(22)
  • 「ウィーンのボンボン」作品307
    • マゼール(84)、メータ(98)、プレートル(10)
  • 「美しく青きドナウ」作品314
    • ★メータ(15)、☆アーノンクール(01)、他多数
    • 毎年演奏されるが、どれも同じような演奏。その中で15年のメータは傑出していた。
  • 「芸術家の生涯」作品316
    • ★クライバー(89)、マゼール(99)、小澤(02)、ヤンソンス(06)、ティーレマン(19)
  • 「ウィーンの森の物語」作品325
    • メータ(90)、☆マゼール(94)、★マゼール(99)、マゼール(05)、☆バレンボイム(14)、ムーティ(18)
    • マゼールによる94年、05年の演奏は、序奏と後奏で指揮者自らがヴァイオリンを弾いている
  • 「酒、女、歌」作品333
    • ボスコフスキー(79)、★ムーティ(00)、プレートル(10)、メータ(15)
  • 「人生を楽しめ」作品340
    • アバド(88)、ムーティ(97)、★プレートル(08)、ヤンソンス(12)、ネルソンズ(20)
  • 「千夜一夜物語」作品346
    • クライバー(92)、マゼール(05)、☆ドュダメル(17)、バレンボイム(22)
  • 「ウィーン気質」作品354
    • ★メータ(90)、小澤(02)
  • 「我が家で」作品361
    • ボスコフスキー(79)、クライバー(89)
  • 「レモンの花咲くところ」作品364
    • アバド(88)、ムーティ(93)、ウェルザー=メスト(13)、ネルソンズ(20)
  • 「南国のバラ」作品388
    • ★メータ(98)、バレンボイム(09)、ムーティ(18)
    • ニューイヤーコンサートではないが、ウィーン・フィルによる演奏はベームによるものが名演として記憶に残っている。
  • 「北海の絵」作品390
    • ★メータ(98)、☆マゼール(05)、ティーレマン(19)
  • 「春の声」作品410
    • ☆カラヤン(87)、クライバー(89)、ヤンソンス(06)、★ムーティ(21)
    • 87年カラヤンの演奏では、ソプラノ独唱にバトルが起用されている。
  • 「入り江のワルツ」作品411
    • マゼール(96)、ムーティ(00)、ヤンソンス(06)
  • 「宝のワルツ」作品418
    • アーノンクール(03)、バレンボイム(09)、★ヤンソンス(16)
  • 「皇帝円舞曲」作品437
    • カラヤン(87)、アバド(91)、マゼール(96)、★アーノンクール(03)、プレートル(08)、ヤンソンス(16)、ムーティ(21)
  • 「もろびと手をとり」作品443
    • アバド(88)、アーノンクール(01)、★バレンボイム(14)、ネルソンズ(20)

私の好きな作品は、「ウィーンの森の物語」と「女、酒、歌」である。ともに長い序奏が付けられているが、後者の序奏が古い演奏では省略されていた。一方、前者の序奏には主にツィターの味わい深いメロディーが印象的であり、この部分を他の楽器で弾かれると、私としては興がそがれる思いがする。

2023年1月3日火曜日

謹賀新年

2023年の年頭にあたり、新年のご挨拶を申し上げます。

昨年末のティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリンによるブラームスの演奏会で、私のクラシック音楽の生活も一区切りを迎えた心境です。今のところ、今年の演奏会に出かける予定は何もありません。とはいえ1月は、久しぶりに来日しN響を指揮するソヒエフの演奏会には、大変興味があります(でも音質に改善が見られないNHKホール、そもそもチケットが買えないサントリー定期、それに休憩のない短いCプログラムに全く魅力を感じません)。

昨年定期会員になった東フィルの演奏会には、結局様々な理由で行けないことも多く、今年はサブスクリプションを見合わせました。実際、私はプレトニョフやバッティストーニによる演奏会にもやや食傷気味で、チョン・ミュンフンの振るいくつかのコンサートにしか興味が湧いていません。

都響は時に素晴らしいコンサートに出会えますが、直前までチケットの購入をためらうことの多いのも事実です。また東京文化会館では、しばしば品のない客に遭遇することが多く、避けています。それでも定評のある小泉和裕のコンサートと大野和士によるマーラーの「復活」などは行ってみたいと思っています。

東響も好きなオーケストラですが、川崎のホールが苦手であることと、ノットという指揮者は悪くはないですが、音を鳴らしすぎるのが気になって(東フィルにおけるバッティストーニのように)最近は避けています。

読売のオーケストラに目を転じると、ヴァイグレを始めとするいくつかの指揮者に興味を引かれるものの、ここのオーケストラは私にとって、これまで平均点以上の感動を与えてはくれませんでした。久しぶりに定期演奏会に行こうかとは思っていたりもします(ただし、池袋の会場は忌避しており、サントリー限定です)。

それでは今年もよろしくお願い申し上げます。

2022年12月25日日曜日

ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮シカゴ交響楽団)

今年はラヴェルの作品を多く取り上げた。このブログの音楽記事は歌劇と管弦楽曲を中心に構成しているが、独特の機能美と構成の巧みさで、父はスイス、母はバスクという辺境の地にゆかりを持ち、ローマ大賞の選考にも漏れるといった数々の事件にも見舞われながら、多くの野心的作品を生み出していったラヴェルは、フランス音楽の大所というべき存在だと思っている。

そのラヴェルの、もう一つの作品ともいうべきものが、組曲「展覧会の絵」である。もともと「展覧会の絵」はロシアの作曲家、ムソルグスキーによるピアノ曲だが、ラヴェルはこの曲を原曲以上に有名な管弦楽曲に仕立て上げた。俗に「管弦楽の魔術師」と言われ、オーケストレーションの巧みさをまざまざと見せつけられる作品は、もしかしたら「展覧会の絵」以上のものはないのかも知れない。

生前には一度も演奏されることのなかったムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」は、19世紀の後半に作曲されているが、これをまずリムスキー=コルサコフが管弦楽曲に編曲している。レスピーギの師匠でもあったリムスキー=コルサコフは、「シェヘラザード」といった曲が有名であるだけの目立たない作曲家のように思われがちだが、後世に大きな影響を残したロシア5人組のひとりとして、重要な作曲家である。

ラヴェルがリムスキー=コルサコフ編に接したのかどうかはよくわからないが、独自の編曲で「展覧会の絵」を世に送り出したのは1922年のことである。このころ彼はは「ラ・ヴァルス」を始め、オーケストラによる斬新なバレエ曲をすでに作曲しており、名声を確立していた。そこで「展覧会の絵」に接したラヴェルは、インスピレーションを刺激されたのだろう。トランペットのファンファーレで始まるこのオーケストラ版は、編曲という新たな音楽的分野を輝かしいものに変え、以降、ストコフスキーを始めとしてチャレンジする作曲家も少なくない。それだけでなく、原曲(ピアノ曲)を演奏するピアニストが多いのも、オーケストラ版の存在が輝かしいからだ。それなら一度、原曲でも聞いてみようか、と。

ラヴェルが編曲した組曲「展覧会の絵」については、もう限りがないほどの録音が知られており、特に機能美の最先端を行く東西のオーケストラ、すなわちベルリン・フィルとシカゴ響に名演奏のものが多い。古くはアルトゥーロ・トスカニーニのモノラル録音盤が決定的な演奏として知られており、私も買って聞いた記憶がある。一切の残響を排し、ぐいぐいとコーダに向かっていく様は、まさにトスカニーニの真骨頂だが、このようなオーケストラの技巧を前面に立てた演奏は、機械化が進むアメリカ東海岸で活躍した多くの東欧系の指揮者が担うこととなった。

まずこの曲をラヴェルに依頼し初演したのが、その後ボストン響のシェフとなるロシア系ユダヤ人セルゲイ・クーセヴィツキである。さらにシカゴ響の音楽監督となったフリッツ・ライナーによる演奏は今もって決定的とされ、トスカニーニがモノラルであることもあってライナー盤の評価はゆるぎないものがある。シカゴ響の指揮者は、このあとゲオルク・ショルティに引き継がれ、彼もまた80年代にこの曲を録音している。音楽雑誌「レコード芸術」の裏表紙にショルティの「展覧会の絵」が掲載されたとき、私を含め数多くの音楽ファンが、この演奏を聞きたいと思った。あるときFMで放送されると知った時は、いつもより高級なテープを用意してエア・チェックに挑んだのは中学生の頃だったか。

シカゴ響による「展覧会の絵」は、このほかに若き日の小澤征爾やカルロ・マリア・ジュリーニによる演奏が有名である。本日ここで取り上げるジュリーニ盤は、そのなかでもちょっとユニークな存在ではないかと思う。なぜならこの演奏は、かなり遅い部類に入るからだ。しかし純音楽的な意味でこの作品をゆったりと鑑賞できる点で、この演奏以上のものを知らない。

ついでに言えば、イタリア系の指揮者による「展覧会の絵」は、フィラデルフィア管弦楽曲を率いたハンガリー系のユージン・オーマンディの後を受け継いだリッカルド・ムーティによりフィリップスにデジタル録音されているが、彼の来日時にテレビで見た「展覧会の絵」の名演奏は何度もその後放映され、わが国では有名である。私もCDをもっているが、トスカニーニからの流れが受け継がれている。

当時のアメリカ東海岸にはヨーロッパから流れてきたユダヤ人演奏家が数多く在籍する技巧的オーケストラが点在しており、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団、アンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックなど、百家争鳴の状態であった。

ヨーロッパに目を転じると、ここは何種類も存在するヘルベルト・フォン・カラヤンが牛耳るベルリン・フィルとの録音が燦然と輝くが、フランス系の団体も当然のことながら、この曲を得意としていた。その中の最右翼が、エルネスト・アンセルメが指揮するスイス・ロマンド管弦楽団ということになるだろう。デッカによる曇りのない録音が、この曲の代表的演奏とされていた。アンセルメの演奏は、スイス人のシャルル・デュトワに受け継がれ、彼はモントリオール交響楽団で名録音を残している。アンセルメで「キエフの大門」を聞くときは、安普請の家が揺れるなどと言われたものだ。

この後、近年の演奏として記憶に残るのは、ワレリー・ゲルギエフによる2つの録音(うちひとつは珍しいウィーン・フィル)、ベルリン・フィルをカラヤンから受け継いだクラウディオ・アバド、サイモン・ラトルといったあたりが有名である。

組曲「展覧会の絵」は、展覧会場を歩きながら(プロムナード)、ひとつひとつの作品についてその絵から得られたインスピレーションを音楽にしている。冒頭のトランペット・ソロでプロムナードに圧倒的な印象を与えたのはラヴェルだが、その一声だけでこの曲を後世に残る作品に仕立てて見せた功績は、音楽史に残るものだろう。以降、様々な形での「プロムナード」を挟みながら、以下の順に音楽が進む。

プロムナード
1 小人(グノーム)
プロムナード
2 古城
プロムナード
3 テュイルリーの庭 - 遊びの後の子供たちの口げんか
4 ビドロ(牛車)
プロムナード
5 卵の殻をつけた雛の踊り
6 サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ
プロムナード
7 リモージュの市場
8 カタコンベ - ローマ時代の墓 - 死せる言葉による死者への呼びかけ
9 鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー
10 キエフの大門

聞けば聞くほど味わいのある曲になっていくが、ラヴェルの他の曲と同様、ただ旋律をなぞるだけのような演奏は面白くない。この曲の聞き方としては、このようなちょっとした味わいを感じさせるものがあるかどうかで、ただ技巧にのみ頼っている演奏はつまらない。また私は特に、「ビドロ」で小太鼓が次第に音量を増しながら、弦楽器が重い行進曲を奏でるシーンが好きだが、このような曲は原曲のピアノで聞いても楽しくはない。

ジュリーニによる演奏の特徴は、この金管楽器ばかりが鳴り響くような印象の曲に、きっちりと中低音の弦楽器が寄り添い、決しておろそかにしていないことだろう。重心を低く抑えていることで、しっとりと旋律が歌われ、ゆったりとした演奏でも聞きごたえがある。もちろん管楽器はシカゴ響のエキスパートが万全のテクニックを披露しているから、惚れ惚れとするほど上手く、その点でも申し分はない。例えば「カタコンベ」の出だしなどは、トロンボーンのアンサンブルが美しい。つまり完成度の点において、これ以上望めないような水準に達している。

なお、このCDには定番の「はげ山の一夜」が余白に収録されている。これも名演。

2022年12月15日木曜日

シュターツカペレ・ベルリン演奏会(2022年12月6日サントリーホール、クリスティアン・ティーレマン指揮)

最近は新聞を読むことが少なくなった。ニュースに興味がないわけではない。老眼がひどくなり、そこに白内障が追い打ちをかけ、活字を追うのが困難な状況だからである。昨今の新聞記事が面白くないということも、重要な理由である。

それでも大きな活字の見出しと、新刊本や雑誌の広告、さらには特定のコラム、文化欄などには目を通している。今月(2022年12月)の日経朝刊「私の履歴書」は、リッカルド・ムーティである。こういう記事は毎日楽しみにしている。

先月足を運んだ北ドイツ放送フィルのコンサートについては、新聞の広告欄で知った。ネットが情報伝達の主流となった今でも、講演会場前で配られる大量のチラシやダイレクトメール、それに新聞広告は、クラシック通にとっては重要なメディアである。特に売れ残った公演が間近に迫っている場合などは、この広告によって最後の販売促進を狙うのだろう、諦めていたコンサートに目が留まることがたまにある。このようにしてたまたま知った北ドイツ放送フィルの演奏会に関するブログ記事を書き終えて、さて今日は土曜日だから、また何か売れ残っている公演の広告でもでているのではなどと思ってみてみたら、シュターツカペレ・ベルリンのものが出ているではないか!

鉄のカーテンの向こう側、かつて東ドイツの歌劇場専属オーケストラとして、伝統あるいぶし銀の響きを維持してきたこの楽団も、もう30年もの間シェフの地位に君臨するダニエル・バレンボイムによって、さらに磨きのかかったオーケストラへと成長を遂げている、ということになっている。私はかつて10年以上前の来日公演で、ベートーヴェンの交響曲のいくつかを聞いたが、重厚感あるくすんだ音色に、とても懐かしい感じを覚えた(ただ演奏の方は新鮮味に欠けるものだったが)。

この時と大きく異なっていたのは、チケット代が倍ほどにまで高騰していることだった。昨今の円安とインフレにより、クラシック音楽の招聘費用にも影響が出始めているのだろう。このまま行けば聴衆の高齢化も手伝って観客数が激減し、来日公演自体が消滅してしまうのではないか、とさえ恐れてしまう。少しの希望は、ここに来て日本を旅したい外国人の数ははうなぎ上りであり、しかも東京の聴衆の造詣はかなり深いため、あまり心配しなくてもいいという気もする。それでも高騰するチケットが買える一部高齢日本人とアジア諸国の金持ちたちで埋め尽くされることになるような気もする。

バレンボイムはブラームスの交響曲チクルスをプログラムに組んでいた。私も第4交響曲のCD(シカゴ交響楽団)を持っており、なかなか難しいこの曲にあっては、かなりの名演奏。あのカルロス・クライバー盤の右に出るような存在だと思っている。ただ、バレンボイムのコンサートは、結構わが国でも開催されているから、ベルリンのオーケストラと演奏するブラームスのチケットが売れ残っていたとしても、さほど不思議なことではない。かつてのベートーヴェン・チクルスの時だって、確か当日券を買って駆け付けた記憶がある。

ところが広告によると、バレンボイムは健康上の理由により来日できなくなり、急遽、クリスティアン・ティーレマンに交代となったようなのである!この告示には私も驚くと同時に、偶然目にしたのは何かの縁ではないかとさえ思った。S席は35000円という信じられない値段が付けられている。それでも「ぴあ」などにアクセスすると、私が行ける唯一の公演、12月7日のプログラム(交響曲第2番、第1番)はもっとも売れ行きが良いらしく、わずか数席しか残っていない。これは大変なことになってしまった。今後ティーレマンの演奏を生で聞ける機会が、どれほどあるだろうか?思えば40年以上前に初めて自腹で演奏会の切符を買って以来、時間と金銭的余裕のある限り、多くのオーケストラ、指揮者の演奏を聞いてきた。そういう私にとって現代最高の巨匠ともいうべきティーレマンは、「いつかは聞いておかなくてはならない」指揮者となっていた。それも最後の!

そう思った私は、おもむろに「ぴあ」の空席を検索し、1階最後列というS席にしてはちょっと疑問の残る席をクリックしてしまった。舞台正面の席ではある。そして、熊本や大阪での公演、さらには前日の初台でのブルックナーなどは結構な盛況であると見えた。チケットを手に入れてから、私の頭はブラームスの旋律で溢れた。第2番第1楽章の主題。これほど心が安らぐ音楽があるだろうか。あるいは第1交響曲冒頭のティンパニの連打。思えばこの2曲はベルリン・フィルをはじめ、様々な組み合わせで接してきた。私のブラームスの演奏会史にティーレマンの演奏が加わることへの期待が、まるで修学旅行を前にした高校生のように高まっていった。こういう経験は、久しぶりである。

会場はいつもとは若干異なる、ネクタイを締めた身なりのいい人たちで溢れている。彼らは引退した高齢者(ももちろん大勢いたが)ではなく、現役の、それもそこそこ身分の高い給与所得者、ないしは経営者なのだろう。女性の装いが、高級ブランドの服や装飾品で埋め尽くされている。プログラムも有料で2000円もする。それでもこれは、若い頃からの私のコレクションになっているから、今回も清水の舞台から飛び降りる覚悟で買い求め、大切に鞄にしまった。最近では会場でプログラムが読めないのだ。チケットにはまだバレンボイムの名が記されていたが、プログラムは表紙が少々安っぽいものの、ティーレマンと楽団の写真がふんだんに掲載されていて嬉しい。早々にトイレを済ませ、期待に胸を膨らませながら待っていると、オーケストラに引き続き長身のティーレマンが登場した。

プログラムによればティーレマンは1959年西ベルリン生まれ。私より7歳年上である。私はまだベルリンが東西に分かれていた頃、ここを旅行している(1987年)から、町全体が落書きだらけの壁に囲まれた当時の雰囲気を思い出すことができる。シュターツカペレ・ベルリンは当時東側のオーケストラで、わが国にも有名な名指揮者、オトマール・スイトナーがたびたび指揮者を務めており、来日も多かったしベートーヴェン交響曲全集などの録音も有名だった。

そのシュターツカペレ・ベルリンを、何とティーレマンは今年になって初めて指揮したそうだ。東西ドイツが統合してからも、西側の雄ベルリン・フィルにはしばしば登場しているし、もう一つの東側の歴史あるオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデンでは何年もの間、首席指揮者を務めているから、意外と言えば意外であった。

交響曲第2番の明るく伸びやかなホルンのメロディーが聞こえてきたとき、もうこのコンビがすでに長年の関係を続けているようなものに思えた。ティーレマンという指揮者は、長年私にとってなかなかとらえにくい指揮者だったのだが、実は非常に繊細で、しかもフレーズが静かに入ってゆくところなどを、まるで幼児を撫でるような感覚でものすごく丁寧に指揮することがわかった。それがあまりに丁寧なので、音楽の流れが独特の間を持つこととなる。ここが彼の音楽の特徴で、ちょっと違和感を覚えるときがあったものだ。しかし実演に接していると、その有様は、音楽に自然の集中力を与えはするものの、決して壊すことはない。音量はむしろ小さいくらいだし、テンポはゆっくりしている。必要な時には意味深く遅く、かと思えば次第に速くなるなど、あのウィルヘルム・フルトヴェングラーを思い起こさせる。

風貌の点では、フルトヴェングラーというよりもあの大柄な長身、ハンス・クナッパツブッシュに似ている気もするが、いずれにせよこれらの巨匠の演奏は、アーカイブにしか存在しない一時代前のスタイルである。かといってティーレマンの演奏が、これらと同じかと言えばそうではない。陳腐な言い方をすれば、古くて新しいのだ。ティーレマンがなぜこんなに人気があるのかが、わかったような気がした。

だが、ティーレマンが古楽奏法全盛の時代に、まるで遺跡から生き返ったツタンカーメンのように登場してからすでに20年以上が経つ。私はティーレマンがバイロイトで録音した「指輪」のCDをすべて図書館で借りて聞いたのが、この指揮者との出会いだった。この時の上演は、奇抜な演出で物議を醸したものがDVDで先行発売されていたが、DVD会社は音だけのCDのリリースを敢行した。音楽だけを切り取って聞くと、そこは紛れもなく古色蒼然とした、しかし新鮮味のあるワーグナーだった!

今回のブラームスにも同様なことが言える。第2楽章、第3楽章ともどちらかというと静かで精緻な音がバランスよく聞こえてきて、それはあのベルリン・フィルで聞くような大音量でもなければ、ウィーン・フィルの艶のあるものでもないのだが、まるで北ドイツの空を眺めているような、薄日と冷気を帯びた夏の空気が感じられた。ここで聞くブラームスは、ハンブルクのブラームスであった。

第4楽章になるとそれでも音楽は高揚した。次第にテンポを上げていく。アッチェレランドという指定が楽譜にあるのかどうかは知らないが、彼の演奏は懐かしいその響きだった。感情が解き放たれ、輝かしい陽気のうちに演奏が終了したとき、大きな拍手が沸き起こった。こういう演奏が聞きたかったのだ、と皆が納得しているようだった。後半の第1番に期待が大いに膨らんだ。

交響曲第1番は第2番と違い、けた違いの長さと苦悩の上に生み出されたブラームスの野心作だ。ベートーヴェンの影を追い、その記念碑である9曲の交響曲を発展させる作品を書くことが彼のライフワークとなっていた。作曲開始から21年の歳月をかけて第1番は演奏された。その曲は、推敲に推敲を重ねただけのものが感じられ、大成功だっただけでなく、まさにベートーヴェンの延長線上にある曲とみなされることとなった経緯は、随所に詳しい。

一般には、第4楽章にかけて次第に白熱を帯び、最後は圧倒的な興奮が地底から湧き上がるような演奏への期待が高いのだが、よく聞くと非常に抒情的で美しい部分も多く、まるで室内楽を聞いているようなところがある。この点、威勢のいいアレグロとロマンチックな緩徐楽章にはっきり色分けされる古典派のベートーヴェンとは異なる。ブラームスは、ピアノ協奏曲第2番と同様、静かに心を落ち着かせて聞き入ると、その魅力が開いた扉の向こうから静かに溢れてくることに気付く。例えば第2楽章。ここのヴァイオリンのソロと溶け合う瞬間の、息を飲むような美しさなどは、ベートーヴェンの頃にはなかった後期ロマン派のものだ。

ソロが活躍する場面は、冒頭のティンパニに始まり、第3楽章のホルン、それを受け継ぐフルートなど書ききれないほどだが、感動的なのはそれらが一つの大きな宇宙を形成していることだ。絶対音楽としての完全性が、ここに感じられる。数々のソロを含め全体で表現したかったものが、第4楽章になって爆発する。といってもブラームスの爆発は、火山に例えれば溶岩が流れ出すようなものではなく、マグマが地底に溜まって次第に地面を隆起させるようなものだ。

ティーレマンの演奏に話を戻そう。ティーレマンは第2番同様に、ここでも音楽を爆発的な音量にしない。むしろ室内オーケストラのような精緻さで、細かいフレーズのひとつひとつにまで気を配る。楽器が溶け合うこと、複数の楽器がまるで一つの楽器に聞こえるように演奏すること、そして無駄な音が聞こえないようにすること、これらをとりわけ心掛けているように思えた。CDや映像で見るとやや不自然さも醸し出すこのような演奏も、実際に聞いてみると大変新鮮で、もしかすると昔の巨匠指揮者の演奏もこんな感じだったのではないかと思わせるようなところがあった。

私がかつて聞いた同曲の演奏と比較しても、その個性は明らかであった。レナード・バーンスタインがイスラエル・フィルと来日して聞かせたときは、全身全霊を傾けて一心不乱に指揮をしていた姿に目を奪われたが、実際音楽もそのように重厚で大胆であり、興奮を湧き起こすのもだった。一方、クラウディオ・アバドがベルリン・フィルと共演したときには、この理性的なイタリア人による実に整った演奏で、角の取れたスリムなブラームスだった。それに対しティーレマンは、伝統との調和、個々の奏者との絶妙な融合、その延長にある総合的エネルギーが、豊饒な音楽となって導かれる有様である。ベームとカラヤンの音楽を足したような表現というと、おそらく反論も多いかもしれないが、私としてはそんな印象を持った。

もっとも印象に残った部分を記しておこう。それは第4楽章、あの第九を思わせるメロディーが満を持して出てくるところ。その手前でティーレマンが相当長い休止を取ったことだ。この休止の間中、客席はもちろん物音などひとつも立てず、固唾を飲んで聞き入っている。永遠に続くかと思われたその休止が終わると、静かに、そして確実な足取りで、あのアンダンテのモチーフが滔々と流れてきた。古色蒼然とした中に冴えわたる響き。そこからコーダにかけての時間は、まさに至福の時間だった。

オーケストラが退散しても幾度となく舞台に呼び戻されることとなったのは、当然の展開であった。私はこのコンビが、すでに何年もかけて音楽を作ってきたような完成度に達していると思った。彼は、もしかしたら遅かれ早かれ次期音楽監督にでも就任するのではないだろうか。私はそれを期待する。そしてブラームス、ブルックナー、ワーグナーだけでいい。これらの作曲家の音楽を、繰り返し聞いていたい。

このコンサートを聞き終えて家路を急ぎながら、私はこれほどの大金を支払ってまで聞くクラシック音楽のコンサートは、おそらくもう二度とないだろうと思った。まだ聞いていない指揮者、オーケストラはあるにはあるが、「巨匠」という雰囲気の指揮者は今やどこにもいない。オーケストラはベルリン・フィルを別格として世界中に存在するが、どこも似たような水準で似たような音を出す団体になってしまった。であれば、それほど無理をして聞くこともないわけで、地元のオーケストラや滅多に来日しないようなローカルなオーケストラの方が、発見も楽しみも多いような気がする。ただ残念なのは、これらのオーケストラに足を運ぶ熱心なファンが少なく、プログラムが陳腐なものになりがちなこと。重量級の超一流演奏会は、ニューヨーク、ロンドン、バリ、ベルリン、そしてウィーンなどの世界の数都市(東京は今のところそのひとつだが)における数回の演奏会に限られるが、それを追いかけて行くのは(これまでもしては来なかったが)やめておこうと思う。

過去40年あまりの間に出かけた演奏会は延べ300回程度。全く自慢できる数字ではないが、この中には数々の有名指揮者、そして感動的な演奏会があった。一度それらを順に思い出しながら記録していきたいと考えてきたが、どうやらその時が到来したようである。



映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...