2012年10月6日土曜日

ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」(2012年10月5日、新国立劇場)


歌劇「ピーター・グライムズ」は20世紀を代表し、かつまたイギリス史上に残る名作オペラだが、最初から乗り気がしなかった。そして第1幕を見終ったところでの私の感想は、率直に言って何ともやりきれない話だな、ということだった。

村に溶け込めない漁師がつまはじきにされ、再起を目指して再生を試みるが、家庭内の暴力沙汰に殺人容疑まで加わり、やがて自殺をしてしまう・・・あまりにリアリティがありすぎてオペラの楽しみを感じないばかりか、不協和でリズム感もない音楽と、荒涼とした漁村に荒れ狂う海という舞台・・・これはまるで台無しではないか・・・と思った。

神は弱き者を助けないばかりか、見放す。ピーターには理解を示す女性教師や船長もいたが、かれらはやがて限界を知る。それ以上に可哀想なのは、ピーターによって虐待される2人の少年だ。これでは孤児院にいるよりも過酷な日々ではないか。この2人の少年は、歌うことなく舞台に登場するが、何とも痛々しい存在である。もしかするとピーター以上に悲痛な日々・・・それを好まない形で強いられる。不幸という他はない。このオペラには救いというものがないのだろうか。

帰りの地下鉄で、買ったばかりのブックレットを読む(これは新国立劇場でいつも売られているが、少し高価ではあるもののなかなか読み応えがある)。そこに演出を担当したウィーリー・デッカーが作品について書いているのを読んで、私は見方を変えることになった。この文章は素晴らしいいので、部分的に転記しておこうと思う。

デッカーは、ブリテンのすべての作品に通じる共通的な主題を2つ挙げている。それは「アウトサイダー」と「罪の問いかけ」であると。ピーター・グライムズのような「深い孤独や疎外感を抱えた人間」は、「疎外された人」であり「同性愛者のブリテンが当時の社会で置かれていた立場に通じるものだ」というのである。まずこの物語を読み解くには、ここからスタートしなければならない。一方の罪の問いかけについては、ブリテンが生涯にわたって問い続けたテーマであり、「20世紀を代表するモラリスト」とまで言っている。

そのような前提に立って、ピーターとエレンの関係についてデッカーは、「どちらも社会の外側にいる人間」であり「魂の部分で非常に近いものを持って」いて「村の狭く閉塞的な在り方よりもはるかに大きく広い魂や心を持っている」にもかかわらず、エレンが状況を改善しようとするのに対し、ピーターは完全に村人と敵対関係あるという点が決定的な違いであると述べている。この違いこそが、この物語の悲劇の中心であるということだ。

それはピーターがエレンととうとう結婚できないということに現われている。なぜなら「結婚とは限界を知って受け入れること」に等しいからである。ピーターは限界を知らず、結婚のようなものに安住できないため、その居場所は家庭ではありえない、それは「船」や「海」であり、そしてその矛盾を解決できるのはピーターの「死」だけであると。

そう考えていくと、2人もの少年をなぜ死なせてしまったかが自然と理解できるようになり、そしてなぜ彼が最後には海の中に沈む道を取るがが理解できる。そしてデッカーはそのようなピーターをスケープゴートにして成り立つイングランドの当時の村社会というものに切り込んでいる。大英帝国の陰の部分に、そのような恥部があることを暴いているのだ。であればあるほど、第2幕以降に会話に寄り添って離れない教会と祈りのシーンが偽善的であると思えてくる。もしかしたらピーターを少しは庇いたくなってくるというものだ。地下鉄を降りて家路を急ぐ間に、私のこのオペラの見方が急速に深まり、そして一面的には捉えられない複雑さを意識した。

新国立劇場の今シーズンの幕開けとなるこのプロダクションは、指揮者、主要な歌手のすべてが初登場という触れ込みだった。それだけ力が入っていたのだろうと思う。それに違わず大成功だったのではないか。4階席の端まで超満員の二日目には、「チケット求む」の人もいて主演のテノール、スチュアート・スケルトンにはとりわけ大きな拍手とブラボーが飛んだ。

さらに印象的だったのは、各幕間に響くオーケストラの演奏で、それは有名な「4つの海の間奏曲」の原曲でもある。海の様々な表情が、暗い舞台の間中鳴り響いた。東フィルも良く鳴っていたが、管弦楽のみを取り出して考えると実力不足は否めない。何か余裕が無い感じで、一言で言えば板についていない。それでも指揮のリチャード・アームストロングはつぼを得た音楽作りで素晴らしかった。

演出のデッカーは、数年前のザルツブルクや昨シーズンのMetでも見た「椿姫」の斬新な演出・・・大時計とソファーだけの・・・で一斉を風靡した彼にしては普通の、やや大人しい演出に思えた。だが私はこのオペラの演出を評価できるほどにはこのオペラに詳しくはない。

イギリスのオペラというものが・・・ヘンデルを除けば・・・私の初体験であった。最初は平凡なだけの、とらえどころのない音楽が続くことが予想され、そしてまさしてもその通りだなと思った。しかし第2幕の少年が崖から落ちるシーンなどは、これがイギリス風の抑制の効いた作品であることに胸を撫で下ろした。音楽が物語を必要以上に誇張し、荒唐無稽であることも厭わないイタリア・オペラとは異なる世界がある。ここでは音楽が、感情を増幅することはあっても誇張されすぎることがない。だからリアリティの強い作品でも、理性を失わずに見ていられるかもしれないと思った。

0 件のコメント:

コメントを投稿

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)

ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...