2023年11月16日木曜日

シベリウス:交響曲第7番ハ長調作品105(パーヴォ・ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団)

シベリウス最後の交響曲第7番は、短いながらも味わいに満ち、様々な要素が凝縮された愛すべき作品である。シベリウスのすべてがここに詰まっているような気がする。この第7番こそシベリウスの交響曲の最高峰だという人が多いが、私もそれに同意したい。1924年に初演されたが、シベリウスはこのあと20年以上もの残りの生涯に、次なる交響曲を残すことはなかった。

単一楽章だが4つの部分に分けて聞くことができる(いくつかのCDでは、この4つの部分を別のトラックに分けている)。演奏はシベリウスの第一人者とされるパーヴォ・ベルグルンドによるものを聞いている。ベルグルンドの演奏を絶賛・評価する人は多い。私もどこかで取り上げようと思っていたが、とうとう最後の交響曲になってしまった。ベルグルンドには、3種類の交響曲全集が残されているが、私が聞いてるのはそのうちの2番目、ヘルシンキ・フィルを指揮したEMI盤である。録音は1984年。

ヘルシンキ・フィルは、私が初めて聞いた外国のオーケストラである。オッコ・カムという指揮者がこのオーケストラと来日し、全国各地を回りながらシベリウスの作品を演奏した。当時中学生だった私は、学生席というのをプレイガイドで購入し、友人とともに大阪フェスティバルホールへ出かけた。交響詩「フィンランディア」に始まり、第2番、そして第5番という有名曲の日だった。シベリウスの交響曲を聞くのはほとんど初めてで、家にあったカラヤンのLP(フィルハーモニア管)を慌てて聞いてメロディーを頭に入れたが、何か素気ない演奏に聞こえたのは録音が古かったからだろう。

ヘルシンキ・フィルというのも初来日で、1982年2月のことであった。この時の記憶は今でも残っている。しかし演奏についてはよく覚えていない。ただこの演奏の模様は民放FMで放送され、のちにCDにもなっている。おそらく名演だったのだろう。しかしヘルシンキ・フィルという団体は、北欧では最も長い歴史を誇るらしいが、当時はほとんど無名だった。技術的にも日本のオーケストラとあまり変わらないレベルに思えた。少なくとも私がその翌年に聞いたイスラエル・フィルなどとは大きな落差があった。特に弦楽器の厚みは当時の日本のオーケストラと同様やや薄かった。だがシベリウスの交響曲に関する限り、それはそれでフィンランド独特のムードを表現するに遜色はなく、それがゆえに私には不満はないどころか、初めて聞く来日オーケストラに随分と興奮した。思えば当時は、1回1回のコンサートが一大事で、私はそれこそ前日、いやそれ以前からそわそわとしていたほどだった。

そんな思い出のあるヘルシンキ・フィルと、ベルグルンドはシベリウスの交響曲全集をデジタル録音した。ここで聞ける温かく、ふくよかな表情に満ちた演奏は幸せな気持ちにさせてくれる。他の表現も可能だと思うが(実際、カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏は、ロマンチックなうねりが終始続いて圧巻である)、これはシベリウスの演奏のひとつの標準ではないかと思う(1回目の全集は聞いたことがなく、3回目のヨーロッパ室内管弦楽団との演奏は、より新しい録音でシャープに聞こえる点が好ましいと思うかどうか)。

さて、交響曲第7番は次第にクレッシェンドする上昇音程から始まる。良く聞くと後ろでティンパニが鳴っており、ここを大袈裟にドラマチックに表現する指揮者もいるが、ベルグルンドはさほどでもない。静かで厳かな最初の部分が続いて、緊張が頂点に達すると、まるで分水嶺を超えたようにピチカートで音程が下降する。ここの表現をいかに印象的にやるかが私のひそかな聞き所なのだが、ベルグルンドは目立たない。やがてスケルツォ風とも言える次の部分へと入ってゆく。

この交響曲で終始活躍し、かつ印象を残すのはトロンボーンの演奏である。時に厳かで、時に広い空間を想起させるこの金管楽器の響きは、ベルグルンドの演奏で聞くと(録音のせいもあるが)どこか温もりがあって、北欧の厳しい自然がほっこりとしていることに安堵する。ハ長調というのが大地の広がりを見せるが、例のごとくそこに色はない。このようにこの作品を北欧の自然と結び付けて聞くのは勝手だが(シベリウスはいつもそうしたくなる)、かといってこの曲は標題音楽ではない。様々な要素が混じりあっているため、短いながらも単純な想像の域を超えてしまうところが、この曲の魅力だと気付く。わずか20分余りに長さの中に、多くの音楽的要素を内在させつつ非常にシンプルで無駄がないところが、この曲の凄いところだ。

シベリウスの交響曲について書くことは、大変労力のいる作業だった。どの作品もその魅力を文章にするのがとても難しいと思った。これが標題音楽だったら、その具体的事物について理解し、そこから音楽に入って行ける。だが交響曲だとそうはいかない。しかもその作品はいずれも骨格ある形式を有してはいないどころか、極めて自由な筆致で書かれている。演奏もどういうものを基準にするとよいのかよくわからない。シベリウスを得意とする指揮者がいる一方で、まったく演奏しない指揮者も多い。シベリウスは演奏者を選ぶ作曲家だと思う。

2023年11月11日土曜日

シベリウス:交響曲第6番ニ短調作品104(サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ロシア周辺に位置する国々は様々な形でこの大国の干渉を受け、時には戦火を交えている。フィンランドもまたその例外ではなく、1918年にロシアから独立するまではロシアの一部だった。交響曲第6番はこのような時期に作曲された。シベリウスという作曲家は、フィンランド独立の歴史と切り離して語ることはできない。しかし音楽自体からはそうした背景を感じるようなものではなく、むしろ他の多くの作品と同様に北欧の自然を映したような、純粋で透明感の漂う作品である。私はこの作品こそ、親しみやすく音楽的にも充実した作品として認識を新たにした。

第1楽章は清涼感の漂う静かな序奏で始まる。この感覚が非常に美しい。一気にシベリウスの世界に入ってゆく。やがて木管楽器が孤独感を醸し出すメロディーを吹き始める。寂しいのだが湿度は感じられない。その中から速い主題が現れて疾走するような部分に転じる。この変化していく部分が大変きれいで素敵だと、初めて聞いた時に思った(それはカラヤンの演奏だった)。この主題こそが第1主題で、それまでは前奏だと思っていたのだが、実は第2主題だそうである。

細かくリズムを刻みつつ、大空の中に太陽が昇っていくような雰囲気は、真っ青な大空を眺めているようなイメージを私に抱かせる。この作品にはハープが使われている。飛び立つ白鳥のようなアクセントを加えながら、速い音楽はやがてゆっくりと落ち着きを取り戻し、あっけにとられるような終わり方をする。

第2楽章に入ると木管楽器がゆったりとしたメロディーを吹き始め、氷上の白鳥はしばし一休み。物憂い表情も見せるが、後半小刻みなミニマル音楽風メロディーに速度を上げたかと思うと、次第に明るいメロディーへと移っていく緩徐楽章である。この楽章もあっけなく終わる。

3分余りと短いが凝縮されたようなスケルツォ風第3楽章を経て終楽章へと入ると、同様に速いがより深刻で切羽詰まったような感じになる。ここで頭角するのがコラール風のメロディーで、途中から次第に明るさも垣間見えるあたりは祈りのような部分でもある。この作品は、すべての楽章で静かに終わるのが特徴だ。

イギリス人指揮者にシベリウスを得意とする人は多いが、サイモン・ラトルもまたその一人だろう。私はまだ彼が30歳の若手だった頃、フィルハーモニア管弦楽団と来日した際にシベリウスを聞いている。この時は第2番の交響曲だったが、あっけにとらわれるような高速の演奏だった。あれから40年近くが経過したが、この間に2組の交響曲全集をリリースしている。私がこのたび聞いたのは、このうちの後の方でオーケストラはベルリン・フィルである。

ベルリン・フィルの機能性を最大限に生かしつつ、ラトルらしい集中力と迫力を感じさせながらオーケストラをドライブしている。この作品の作風に、ラトルの演奏がとても合っているように感じた。

2023年11月7日火曜日

辻本玲チェロ・リサイタル(2023年11月4日、Hakujuホール)

NHK交響楽団の首席チェロ奏者を務める辻本玲のチェロ・リサイタルを代々木にあるHakujuホールで聞いた。オーケストラ作品やオペラが専らの私が室内楽のコンサートに出かけるのは珍しいので、そのことから書き始めなければならない。

今から5年余り前の2018年4月、私はピエタリ・インキネン指揮日本フィルの演奏会に出かけた(https://diaryofjerry.blogspot.com/2018/05/6992018427.html)。その時私はワーグナーの「指環」をオーケストラのみによるダイジェストに編曲した「言葉のない指環」(ロリン・マゼール編)を聞いたのだが、その中に大変印象的にチェロ弾く人を見つけた。普段はそのうようなことをしないのだが、私はそれが誰であるかをプログラム冊子で確かめたほどだった。ほどなくして私の高校の同窓会が東京で開かれ、何とそのチェリストが卒業生のゲストとして招待されていることを発見した。それが辻本玲だったのだ。

急に身近に思えてきた彼の演奏を、同じように素晴らしいと感じた人も多いのではないかと思う。そして2020年には何と、日フィルからNHK交響楽団に移り、今ではテレビ中継もされる定期公演などで良く見かける。高校の同窓会誌に彼を応援する会のことが掲載されていたのを発見したのは今年。私の親の世代が中心の会だが、私もさっそく会員になった。その会報(メルマガ)には、彼の出演する演奏会がリストアップされている。そして一度、リサイタルでもと思っていたところ今回のコンサートを発見、急いで席を確保した次第である。

毎年何度か、リサイタルを開いているようだが、今回の会場はHakujuホールというところで、私も初めて出かけた。原宿や渋谷から歩くこともできるが、最寄りは代々木公園駅である。休日ともなると人通りが多いこの界隈には、お洒落な飲食店が立ち並び、外国人の姿も多い。11月とはいえ、季節外れの暑さが続く今年は、晴天が続いている。私は原宿のカフェで時間を調整し、遅れないように会場に入った。以下、その時の感想文で会報に投稿したものを転記することとしたい。

私は辻本さんのリサイタルも、Hakujuホールに行くのが初めてでしたので、行き先を間違えることもなく、出口で迷うこともないように万全の準備をして出かけました。ところが会場へ着くとその入口に張り紙が掲示されており、何とピアニストが沼沢淑音さんから大伏啓太さんに交代、それにともなってプログラムの一部が変更になるとのことでした。

もともとのプログラムは、ハイドン(古典派)からシューベルト(ロマン派前期)を経てラフマニノフ(ロマン派後期)に至る素敵なプログラムを期待していたのですが、お怪我をされてとのことで、繊細な楽器を操る芸術家にはこういうこともあろうかと思った次第です。

シューベルトのアルペジオーネ・ソナタの代わりに演奏されるのが、しかしグリーグのチェロ・ソナタイ短調と書かれており、同じ国民学派の音楽を堪能することもできるということで、それはそれで期待が高まりました。 
ハイドンのディヴェルティメントニ長調という曲を聞くのは初めてでしたが、私は全交響曲を聞きとおしたこともある大好きな作曲家で、骨格のあるかっちりとした中にも、それとなく技巧的な部分もある作風に惹かれています。短い作品でしたが、たっぷりとした辻本さんのチェロに聞きほれました。マイクを持って大阪弁の辻本さんが、ピアニスト交代に至った経緯などを説明し下さりました。直前のことだったので、短い期間にプログラムをやりくりしたのは大変なことだったと推察します。しかし次のグリーグはまるでブラームスのように濃い作品で、北欧のリリシズムを期待していると裏切られる結果となりました。 
Hakujuホールは私にとって、ちょっと残響が多く、特にピアノの音がダブって聞こえるようなところがああるような気がしますが、次の「ヴォカリース」とチェロ・ソナタト短調に関しては、私は作品と演奏に没頭し、そこで展開されるロシアの響きにうっとりとする時間でした。 
晩秋(といっても今年は暑いですが)ほどラフマニノフが似合う作曲家はないように思います。それは私がかつて岩手県をドライブしていた時、紫波町にあるレコード収集家の「野村あらゑびす記念館」に向かっていた時でした。11月の寒い日ににわか雨が降り、そのあと見事な虹が現れたとき、ラジオからラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れてきたのでした。濡れて鮮やかに蘇った紅葉に青空と途切れる雲、晴れたと思ったら小雨が交じるその向こうに、広大な平野と山々が見えました。岩手はラフマニノフ、というのが私の思い出です。演奏会の2日前の日経コラムに、その岩手出身の宮沢賢治とクラシックに関する記事が載っていたのを思い出しました。
辻本さんも出かけたことがないところを想像しながら音楽を演奏する、というようなことを話されましたが、私はチェロと岩手とラフマニノフが結びついており、なんかそんな変なことを考えながら、演奏を聞きました。
アンコールには、今回演奏されなかったシューベルトから「アヴェマリア」を、さらには定番のピアソラ作曲「オブリヴィオン」を演奏されました。いずれも思いに満ち深々としたた演奏で、秋の快晴の昼下がりを堪能した一日でした。そのあと妻と伴に渋谷まで歩き、日本シリーズ観戦のお供に夜の総菜を買って帰ることができました。 
2023年11月2日 日本経済新聞夕刊

2023年11月4日土曜日

東京都交響楽団第985回定期演奏会(2023年10月30日東京文化会館、オスモ・ヴァンスカ指揮)

今年はシベリウスの作品を重点的に聞いてきた。7曲ある交響曲(「クレルヴォ」を入れると8曲)のううち、前半の2(3)曲はまだ若い頃の作品で本当のシベリウスらしさに欠け、第3番は過渡的とされている。第4番は暗く陰鬱な作品だ。交響曲作曲家としてのシベリウスの真価が発揮されるのが第5番からとされている。シベリウスの後期の交響曲第5番、第6番、第7番はほぼ同時に着手された。

この3つの交響曲を同日に演奏するコンサートがあることを知ったのは、直前のことだった。シベリウスを得意とする第1人者のひとり、オスモ・ヴァンスカが都響の定期に登場するのである。コンサートは1回限り。しかも月曜日の夜で場所は東京文化会館。こんな玄人好みの演奏会は、さぞ閑散としているのだろうと思った。実際、当日券を含めチケットは全席種発売中。東京文化会館というのはトイレや席が狭く、あまり快適とは言えないが、アクセスが良い(改札口から30秒!)ことと、音響がさほど嫌いなほうではない(ただし前の方)。そういうわけで1階席脇後方のB席を買い求め、仕事が終わってから上野に駆けつけた。

驚いたことに会場には沢山の人が詰めかけていた。そして9割以上の席が埋まっていたと思う。我が国ではシベリウス・ファンが結構多いが、それにしてもヴァンスカは人気があるということだろうか。何でもこの日のプログラムは、コロナ禍で2度も延期になったものだそうだ。そしてヴァンスカは都響にこそ初登場だが、これまでに東京でシベリウスの名演を成し遂げてきている。ただ私は縁がなかった。10年以上前の2008年に読響の定期演奏会で聞いたことがあったが、その時はベートーヴェンの作品ばかりで、それはそれで大いに評価が高かったものだが、実演にはさほど心を動かされなかった記憶がある。得意のシベリウスではどうか、と期待が高まる。

7時になってメンバーが舞台に登場し、最初のプログラムである交響曲第5番の冒頭が鳴り響いた時、これはちょっと怪しいなと感じた。いつもの都響の切れがなく、音色にも彩がない(もともとシベリウスに色はないのだが)。練習不足か、それとも過度の緊張によるものか。この曲の間中、弦楽器は惰性的で管楽器はしばしば不安定。2つの楽章を合わせて改訂された第1楽章は失望のうちに通り過ぎ、ピチカートが印象的な第2楽章が少し心に残る程度。もっとも第3楽章は少しダイナミックになって、音色の微妙な変化が味わえる演奏になった。

東京文化会館のトイレはひどく、いつも長蛇の列ができる。しかもそれが二手に分かれて階段を何階分も上ることになる。再開されたバーカウンターに行くと、何とワイン1杯が800円もする。かつてはそんなに高かったかと思う。だから閑散としている。この会場には傘置きもないので、雨が降ると大変である。傘を席の下に置くと(そうするしかない)、通るときつまずきそうになるからだ。まあ今日は快晴で、傘の心配はなかった。

期待外れの前半を終えて後半が始まった。すると何と、見違えるような音色に変化したオーケストラからは次の交響曲第6番の冒頭から、一糸乱れぬアンサンブルが聞こえてきたのだ。第1楽章冒頭の静謐な音色が微妙な変化を重ねつつ、やがてトレモロが姿を現し、速いメロディーになってゆくところが私は好きだ。それにしても何という変貌ぶりなのだろうか。前半とはまるで違うオーケストラのように聞こえる。いや、前半が酷かった。都響の本領がここへきて発揮されたということだろう。

交響曲第6番は、そういうことで実に素晴らしい演奏だった。おそらくこの曲に、今回の演奏会の力点が置かれていたのだろう。私はシベリウスの魅力に改めて感動した。第2楽章に至っては、第1楽章でパッとしなかった木管楽器も腕を振るう。私は最近スウェーデンの作家、ヘニング・マンケルの小説を読んだばかりなのだが、そこで随処に語られる北欧の寂寞の表情を想像した。この作品でのみ登場するハープの音色が、色のついた温かみを感じる。

スケルツォ風の第3楽章を経て宗教感さえ漂うとされる第4楽章。それでも曲はあっけなく終わる。全体を通して同じように静かな調子は、初めて聞くと戸惑いも多く印象に残らないのだが、いい演奏で聞くと味わい深い作品だと改めて思った。勿論、会場の拍手は前半よりも多かったと思う。

続けて演奏された交響曲第7番もまた、実にいい演奏。私はこの曲の魅力に初めて気づいた。わずか20分余りの曲は、交響曲と呼ぶにはあまりに自由な形式である。ヴァンスカはこの曲もまた、大いに思いを入れて指揮していたように思う。都響のアンサンブルの美しさは、私の好みから言っても、このデッドなホールによく合っていた。配られたプログラムの解説には「重大なハ長調の大地の上で神秘的にきらめくオーロラのようである」と書かれているが、まさにそのような演奏だった。

様々に変化する曲の構成も、白く幻想的なシベリウス独特のキャンバスの上で繰り広げられる。時に室内楽的な佇まいも、あっけにとられたように終わる。指揮者は随分長い間タクトを下ろさない。静まり返った客席は、その瞬間を楽しんでさえいる。満足したのだろう。次第に湧き上がる拍手とブラボーの中を、ヴァンスカはソリストたちを順に立たせてゆく。おそらく3割ほどの人が、熱心なシベリウスのファンだったのだろう。そして今宵の演奏の良さがわかったと見える。オーケストラが退席してもなお、鳴りやまぬ拍手に応えて舞台にマエストロが登場すると、より一層大きな歓声が沸き起こった。

もうすぐ寒い冬が来ると思いたいが、ここのところの日本列島は季節が逆戻りしたかのような暑さである。来年春の上野の音楽祭のブックレットが出来上がって、会場に配置されていた。これを取って行く人が多いところを見ると、上野におけるクラシック音楽のファンも、それなりに固定的に存在するのだろうと思う。だからこのホールは、客席やトイレを改装して欲しいと思う。まあそんなことを考えながら、家路についた。

2023年10月20日金曜日

リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」(サッシャ・ゲッツェル指揮ボルサン・イスタンブール・フィルハーモニー管弦楽団)

趣味の街道歩きのため、新幹線で各地へと向かう車内で音楽を聞き、このブログのための文章を書きたくなることは前にも書いた。前回(8月)私は北陸新幹線で金沢に向かい、リストの「前奏曲」を聞いた。そして今回、一気に秋めいた信濃路を軽井沢から佐久方面へと歩くために、快晴の関東平野を北上する「あさま」の車内で、リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」を聞いている。

なぜか。この作品の演奏の中で、とりわけ注目に値する新しい演奏に出会ったからだ。それはオーストリアの若手、サッシャ・ゲッツェルがイスタンブールのオーケストラを指揮して録音したもので、Onxyというレーベルから発売されている。もっとも発売されたのは2014年ということだから、もう10年近く前のことではある。私は時々聞くロンドンの「Classic FM」でたまたまこの演奏を聞いた。その時は確か第3楽章だけだったような気がするが、そのあまりにもエキゾチック(というのはあくまで西欧から見てのことだ)なムードに驚いたからである。

私はSpotifyのPremium会員となっているので、このような場合には即座に検索、自宅のネットオーディオ機器で再生したり、スマホにダウンロードして持ち歩くことができる。今回もちろんそのようにしたのだが、それにしても聞いたことのない指揮者、オーケストラによる珍しいCDも、このようにして新しく出会うことになる。そしてさらにわかったことには、このCDには、同様の傾向を持つ(すなわち東洋的な)作品であるイッポリトフ=イヴァノフの有名な組曲「コーカサスの風景」から、最も有名な「酋長の行列」なども収録されていること、さらには何と、その「シェヘラザード」の楽章の合間に、聞いたこともない楽器による中東風の短いインテルメッツォが挟まれていることだ。

昔わが家にもあったストコフスキーの名盤以来、この曲を様々な形で提供する魅力的な試みが時を隔ててなされてきた。時には原曲を逸脱する演奏が注目を集めることもあるが、私は一介のリスナーに過ぎないのでこのようなものは大歓迎である。このたびの演奏はまさに、イスタンブールという、まさにヨーロッパとアジアの境を本拠地とするオーケストラだからこそうって付けの試みだ言えよう。なお、ゲッツェルはウィーン・フィルの元ヴァイオリン奏者で、指揮者に転じてからは神奈川フィルやN響も指揮しており、我が国ではそれなりに知られた存在であるようだ。

「音の魔術師」という愛称はフランスの作曲家ラヴェルに付けられるが、私はまた「ロシア五人組」のひとりであるリムスキー=コルサコフに対しても相応しいものだと思う(そのラヴェルにも「シェヘラザード」という曲がある)。後年の作曲家に与えた影響は大きく、例えばレスピーギがリムスキー=コルサコフの弟子だった。そのリムスキー=コルサコフはベルリオーズの管弦楽法を学び、自ら「管弦楽法」という著作を残している。

海軍学校の兵士だったリムスキー=コルサコフは、海や航海に関する音楽を残す。交響組曲「シェヘラザード」もその一つである。この作品は有名な「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」を題材としており、次の4つの部分から成っている。

  • 第1楽章「海とシンドバッドの冒険」
  • 第2楽章「カランダール王子の物語」
  • 第3楽章「若い王子と王女」
  • 第4楽章「バグダッドの祭り、海、青銅の騎士のある岩にての難破、終曲」

ヴァイオリンの独奏が冒頭と終結部だけでなく随処でソロを聞かせることから、この作品の録音には担当したソロ・ヴァイオリン奏者の名前が記載されている。この録音では、指揮者のゲッツェルが自ら弾いているのではと想像したが、どうもそうではないらしい。ヴァイオリンのソロは、この話の主人公で毎晩シャリアール王に物語を語っては聞かせるシェヘラザードのテーマである。第1楽章「海とシンドバッドの冒険」では、波打つ海の情景に乗って、この2人の主題が絡み合う。全体の構成から見ると前奏曲といった感じの曲である。

ゲッツェル指揮ボルサン・イスタンブール・フィルハーモニー管弦楽団による演奏では、この第1楽章と第2楽章の間に1分足らずの即興演奏が差しはさまれている。ここで演奏されるのはウードという弦楽器で、中東の雰囲気を醸し出している。

やがて演奏は第2楽章に入るが、ここで活躍するのは木管楽器の独奏である。そしてリズムも様々に変化し、聞いていてもっとも面白い楽章だと思う。オーケストラ音楽として聴きどころが満載。もっとも有名な第3楽章は緩徐楽章で、美しいメロディーによって最高のムード音楽となっている。この第2楽章と第3楽章は、全体を聞く時に強い力を聞き手に与える。「シェヘラザード」を聞いたという充実感は、この2つの音楽を聞いていくことで醸成されるような気がする。各楽器の特徴を良くとらえたソロが頻繁に現れては消える。そのすべてがロシア発の中東ムードに嫌味なくブレンドされている。

第4楽章の力強い音楽は、ここまで聞いてきた音楽ですでに酔いしれている聞き手をさらに延長して楽しませるに十分な効果を持つのだが、この演奏ではここに2回目の「間奏曲」が入る。そして再び活躍するシェヘラザードのテーマ。いっそう技巧的になったこのメロディーのあとで、速いテンポに転じ進行するオーケストラによって、それまでに登場した様々なテーマを交互に奏でては次第に緊張度を上げてゆく。船が難破するのだ。そして曲は最後に再びシェヘラザードのテーマを繰り返して静かに終わる。オーケストレーションの極みを堪能する充実感を味わうことができる。全体で約45分。

多くの演奏家がこの曲の魅力を捉え、様々な表現をディスクに残してきた。有名なコンドラシンの演奏(コンセルトヘボウ管)は私にとって相性が悪く、どこがいいのかよくわからないままだった。極めつきとの定評もあるゲルギエフ盤は、あまりに巧妙にこの曲を操って見せるが、私は少し戸惑うほどでちょっとついていけない。結局、平凡で保守的なオリエンタリズム主体の演奏を求めているのかな、などと思ってみたり、要はこの曲に対する自分の立場がこれまで定まっていなかったのである。このたびイスタンブールのオーケストラによる演奏に出会って、ようやくこの曲の記述をする気持ちになった。

なお、このディスクには東洋風の曲がさらに3曲も収録されている。リズム感があってそれぞれ面白い。特にイッポリトフ=イヴァノフの組曲「コーカサスの風景」から「酋長の行列」は有名である。かつて「ロシア名曲集」のようなコンピレーション・アルバムが発売されるときには、たまにお目にかかった懐かしい曲である。私はバーンスタインが指揮するニューヨーク・フィルハーモニックの演奏で良く聞いたものだった。一方、トルコの作曲家エルキンの「キョチュケ」なる珍しい舞踊曲も収録されている。

そしてさらに!ボーナス・トラックに収録された2つの曲は、民族楽器を取り入れた編曲による「カランダール王子の物語」と「コーカサスの風景」より「村で」の別バージョンである。これらのおまけ特典を含め、聞き所満載のこのディスク、今ではもはやCD媒体を購入することはほぼなくなったが、売られていることは売られている。もちろん数あるダウンロードもしくはストリーミングサイトで聞くことができる。


【収録曲】
1. リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」作品35
2. バラキレフ(リャプノフ編):東洋風幻想曲「イスラメイ」
3. イッポリトフ=イヴァノフ:組曲「コーカサスの風景」より
      第2曲「村にて」
4.   第4曲「酋長の行列」
5. エルキン:舞踏組曲「キョチェケ」

(ボーナス特典)
6. 「カレンダー王子の物語」(民族楽器との競演による別バージョン)
7. 組曲「コーカサスの風景」より第2曲「村にて」(民族楽器との競演による別バージョン)

2023年10月16日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第754回定期演奏会(2023年10月13日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

終演後の拍手が20分近くも続く演奏会など、そう滅多にあるものではない。来日した世界的オーケストラの演奏会ではない。日フィルの新しい首席指揮者に就任したシンガポール生まれの若手、カーチュン・ウォンの就任披露を兼ねた定期演奏会である。プログラムは、マーラーの交響曲第3番。音楽史における最も長い交響曲の部類に入る休憩なしの1時間40分。ホルン8人、シンバル7台を含むフル・オーケストラに加え、一人の独唱(アルト)、女声合唱団、少年合唱団が加わる。

採算に合わないのだろう。何かの記念となる名目でもない限り本番の演奏に出会うことはない。私は昨年3月京都で、広上淳一の京都市交響楽団の常任指揮者の最後の演奏会にて、この曲を聞くはずだった。そのために藤村美穂子をドイツから招聘し、万全の体制でこの公演が行われるものと思っていた。ところがコロナの影響で合唱団の練習ができなくなり、あえなく別のプログラムに入れ替わってしまったのだった。過去に私がこの曲を実演で聞いたのは、シャルル・デュトワがNHK交響楽団を指揮した2015年の定期公演ただ1回のみ。この時に演奏はもちろん素晴らしかったが、NHKホールというところは広すぎるせいか、集中力が続かないことが多い。前の方で聞いていないと、なかなか印象的なものにならないのだ。

自然の描写を主体とした比較的静かな部分が多く、マーラーの交響曲の中ではもっとも明るい音楽だと思う。多数の楽器が様々に絡み合い、バンダを含む各楽器の音色の微妙な変化を聞き分ける必要がある。なかなかオーケストラ泣かせの曲なのだろうと想像がつく。それが100分も続くわけだから、間違うととてつもなく退屈なものになってしまうだろう。指揮者もよほど自信がないと、この大曲を指揮しきれないのではないか。これが第2番「復活」だと、「終わりよければすべてよし」となるのだが。

日フィルの定期は同じプログラムが2回あって、今回は金曜夜と翌土曜のマチネであった。土曜の演奏会は完売していた。私の聞いた金曜の演奏会もほぼ満席だったから、前評判は極めて良かったのだろう。それも彼が、これまでに積み上げてきたこのオーケストラとの実績によるものだ。

2016年にマーラー国際指揮者コンクールで優勝した若きアジアの俊英は、破竹の勢いで世界中のオーケストラの演奏会に出場しているが、その彼が我が国のオーケストラ演奏を数多くこなしてくれることに喜びを感じている。何でもそのコンクールの前から日本にも住んでいるようであるから、日本での活動に支障はないものと思われる(我が国に住居を持つ有名な外国人は結構多い)。私はコロナ禍に見舞われる少し前、兵庫県の芸術文化センターのオーケストラを彼が指揮する演奏会のチケットを両親にプレゼントしたことがある。だが私は、この指揮者にこれまで縁がなかった。それが今回かなったというわけである。

実際いつにも増して期待が高まった。前もってマーラの第3交響曲の演奏をいくつか聞いてみた。ドゥダメル指揮ベルリン・フィル、アバド指揮ウィーン・フィルなどである(本ブログで過去に取り上げたのは、ブーレーズ指揮ウィーン・フィル、初めて聞いたのはショルティ指揮ロンドン交響楽団だった)。そして今は、バーンスタインの演奏に耳を傾けながら、この文章を書いている(ニューヨーク・フィルハーモニック)。

さてその演奏だが、これは圧倒的な大成功だったと言えるだろう。日フィルがこれほど巧く演奏した例を私は知らない。特に弦楽器のアンサンブルは精緻を極めた。第6楽章は特に、極上のビロードのように深みのある色艶と光沢感が絶妙だった。終始集中力を欠かさず、いつまでも永遠に続くように思われた。何度も訪れるホルンの重奏も、時に不安定な時もあったが致命的な物ではなく、トランペットも舞台裏から聞こえるポストホルンも、さらには2台のハープや木管楽器と良く溶け合った。

シュタインバッハにある別荘でわずか2年のうちに書きあげられた交響曲第3番は、明るい雰囲気に満ち溢れた、ハンブルク時代の最後を飾る、マーラーの作品の中では自由で希望に満ちた作品である。それは彼の自然賛歌であり、美しい情景描写と心理描写に彩られている。冒頭こそファンファーレの大音量が鳴り響くがそれも最初だけで、あとは全6楽章、耳を澄まして聞く微弱音や弱音機を伴った金管ソロなどが続き、大音量の爆発を期待すると裏切られ続く。終楽章のコーダでクライマックスが築かれるものの、マーラーにしてはむしろ控えめで、その感動も長い道のりを経た後に底から湧き上がる精神的高揚感が勝っている。その意味でブルックナーやワーグナーのような作品に接する時のような気持ちになる。他のマーラー作品では、「大地の歌」が音楽的にこの部類に入ろうか。

カーチュン・ウォンの演奏は冒頭から気合の入ったものだった。オーケストラを含め少し緊張していたのだろう、雄弁に両手を駆使し、時には大きなゼスチャーで体を揺らして細かく指示する割には、オーケストラが大人しく思われた。だが、実際の演奏会ではいつもこのようなものである。それがどこかで化学変化を起こし、奇跡のような時間に突入することが稀にある。今回それがやってきたのは、第1楽章のコーダに向かう手前、チェロの重奏からだった。私の見立てでは、この数小節を境にオーケストラの音色が変わった。自信をつけた各楽団員が、それまでに見せたことがないようなレベルのアンサンブルを奏で始めたのである。

実演を聞く楽しみは、まさにこのような一期一会の時間に立ち会えることである。紛れもなくそれが起こった。長い第1楽章が終わって一旦指揮台を降りた時、オーケストラは再度チューニングを行った。合唱団とソリストは最初から舞台に登場し、微動だにせず出番を待っている。まるで赤ん坊を抱くような慈しみを持って、静かな音楽は進む。

カーチュン・ウォンの指揮はあらゆる指示を細かく出す。それが好みの分かれるところだろう。陶酔しすぎず、あくまで理性的な側面を残すことに、この指揮姿が貢献しているのかも知れない、と思った。だがかといってロマンチックな側面が犠牲になっておらず、若々しくて情熱的でもある。交通整理のような指揮姿で有名なロリン・マゼールの指揮を思い出させたが、決して無味乾燥で醒めた演奏にはなっていない。むしろオーケストラとの関係が今後深まったら、よく反応する個性的な演奏が生まれるのではないかと期待している。

1時間程が経過して3度目のチューニングを終えると、山下牧子(メゾ・ソプラノ)の歌唱が、舞台右側の壇上から聞こえてきた。第5楽章ではそこに、女声のハーモニア・アンサンブルと東京少年少女合唱隊が加わる。特に東京少年少女合唱隊の透き通った一糸乱れぬ歌声は、「ビムバム」という印象的な歌詞が何度も登場して独特の印象を残す。この歌唱が入る2つの楽章と最終楽章は、通して演奏される。

第6楽章は第1楽章と対照をなすものだが、自然描写が心理描写に置き換わってより高く、昇華されてゆく感を味わう。大野和士は解説で、この部分を天井に開かれた扉が開き、そこに入ってゆくような感じだと話しているが、そのような高まりは30分近くをかけて徐々に、確実に進んでいく。弦楽器のアンサンブルが例えようもなく美しいが、それを見事にやってのけた今回の日フィルは、圧巻の出来栄えであった。会場の誰もがその演奏に心を打たれた。この曲の最上の演奏のひとつが、今、示されているという感覚。消えては去っていく実際の音楽を、その時にだけ居合わせた人たちとだけ共有している感覚。演奏者と聴衆が一体となって、マーラーの音楽に酔いしれた。

指揮者が長いポーズをとって指揮棒を下ろさない。その間中、雷に打たれたように静まり返った。おそらく最も行儀のいい聴衆が、何も乱すことなく、この長い時間を静寂の中に留めた。やがて沸き起こる拍手と歓声が会場を覆ったとき、指揮者はまず歌手に走り寄り、続いて金管セクションに赴いた。これから長い拍手の時間だった。2つの合唱団と指揮者、さらにバンダで活躍したプレイヤーが何度も舞台に呼び出される。続いてセクションごとに立たせ、それを会場の各方向を向いてお辞儀を繰り返す。指揮者が去っても楽団員は残り、起立を拒む。そして楽団員と合唱団が全員引き上げるまでの長い時間、拍手が絶えることはなく、むしろそれは大きくさえなった。しばらくして指揮者がひとり舞台に登場すると、さらに大きな歓声が沸き起こった。

これほど満足した演奏会は、なかなかないものだ。そして今後、カーチュン・ウォンの演奏会が多く組まれているのも嬉しい。彼はアジアの作曲家の作品を多く取り上げたいと話しており、それと有名曲を組み合わせたプログラムが予告されている。チャイコフスキーのような聞きなれた作品でも、彼の演奏で聞いてみたいと思う。だから、やはり健康を維持して時間と経済力をつけないと、と前向きに誓った一日だった。

2023年10月9日月曜日

finalのBruetoothイヤホンZE3000

新しいオーディオ機器を購入するたびに、音楽の新しい発見を楽しむことができる。アンプやスピーカーだけでなく、それは数千円のイヤホンにも言える。聞き古した音楽も新しい機器で再生すると、丸で別の演奏であるかのように感じることが多い。気に入った機器で久しぶりに聞く音楽は、とても新鮮である。そういう嬉しさがあるものだから、私はたまにオーディオ機器の記事を書いてきた。もっとも私はあまりお金をかけない主義だから、高級なものとは無縁である。飽きたり、失くしたり(ポータブル機器の場合)、気に入らないものを間違って買ってしまうリスクを低減するために、できるだけ安価な機種でそこそこの効果が期待できるという場合にのみ、オーディオ機器を買い替えている。

このようにして数年に一度は記事を書いてきたが、コロナ禍に見舞われたここ数年は、イヤホンを始めとするポータブル機器の視聴にも支障があった。加えて最近は機器を店頭で試す場合、いろいろとややこしい設定を行う必要があり、なかなか簡単に行えない。こういうことから、それまでのように手軽に、様々な音源で視聴を繰り返すことが難しくなってしまったのである。

イヤホンは従来の有線タイプに加え、ワイヤレス型のものが出回って久しい。私も発売当初からBruetooth型のイヤホンを試したきた。ところがまだ技術が未熟だったせいだろうか、これがちっとも良くなかったのである。同期(ペアリングという)に手間取ることがしばしば。当初のものは、耳にのみ装着するタイプはなく、途切れた有線タイプか首に巻くタイプのものであった。しかも全くもって音質の点で満足が行くことはなかった。

ところが私のスマートフォンを買い替える時期が到来し、とうとうステレオ・ミニジャック付きのものでなくなってしまったのである。それまでは音がいいという触れ込みで買わされたSONYのスマートフォン(Xperia)を使おうとしたが、イヤホンはおろかスピーカーで聞く音もあまりに酷かった。それでも中クラスの機種で、それなりの値段がしたにもかかわらずだ。結局、前に買って持っていた中国製(本命はHuaweiだったがこれが買えなくなり、仕方なくOPPOというメーカーのものだった)にSIMカードを差し戻した。満足するには程遠いものではあっが、それでもXperiaよりはましだった。端末の分割支払い契約は最低でも2年あり、私はその間我慢を強いられた。

スマートフォンで聞く音楽には限界があると思った。そもそもイヤホン用のアンプにさほどこだわって作られていないのではないか。そこでBruitooth型のイヤホンの登場となるのだが、これは実のところ有線でのイヤホンに勝るということはない、というのが今もって通説だ。スマホの音質設計の悪さは、DA変換とアンプを耳元に移すことで解決すると思われたのだが、満足の行く音質を辛うじて確保するには、3万円以上の費用が必要と判明した。

もっともSONYは同様の音質重視ユーザーの意見を取り上げるだけの器量は、いまでも健在であるかのように思う。Walkmanの新型モデルはネット対応で、私のようなSpotify会員なら専用機で高音質のストリーミングが楽しめるという謳い文句である。旧機種に比べると電池の持ちがいいとも評判で、これを買おうかと悩んだ。しかしXperiaの経験があるせいで私はSONYにいささか懐疑的であり、スマホとは別に専用機を持つ面倒と、ネット対応とは言え音源はいったんダウンロードする必要があること、それだけのためにAndroidを搭載するというのもいかにも大袈裟であることなどから購入に躊躇したのである。

結局Xperiaの2年契約が終わる今月になって、ようやく私のスマホ生活に変化が訪れた。新しい機種をSONYとOPPO以外のメーカーから選択する必要があった。そして私の契約する通信会社において比較的有利な条件で手に入る機種は、SAMSUNG製(Galaxy)の古いモデルに限られた。Galaxyは初めてである。しかも店員に聞くと今もって音はSONYがいいと言ってくる。ついでにいえばカメラもXperiaがいいと言う人が多いが、これにも私はまったく同意しない。そういう経緯により、私の新しいスマホは韓国製となった。そこにはもはやステレオ・ミニジャックは付いていない。Type-Cのインターフェースから有線接続のイヤホンを使うには、2つの方法がある。ひとつはType-Cのプラグを持つ有線イヤホンを購入すること。しかしこれは選択肢が非常に狭い。今一つの方法は、Type-Cをステレオ・ミニプラグに変換するコードを介して接続する方法である。しかしこのようにつなぐと充電しながら聞くことができない。iPhoneと同じ悩みである。

いよいよ世の中は、携帯音楽プレイヤー(それはすなわちスマホのことだ)で聞くイヤホンがBruetooth型に集約されつつある。この間に技術が向上し、少しは音質が良くなったと信じて何かを購入することに決め、いつもの量販店へ赴いたのはスマホ購入の翌日であった。まずはType-Cからステレオ・ミニジャックに変換する短いコード(1700円もする)を購入し、同じ売り場でいくつかの機種を試すことにした。予め選択肢に入れた機種を小さい紙に書き写して持参し、外見や装着感などをみてから気に入ったものを買うつもりだった。予算は1万5千円以下。どれを選んで良いかわからない時には、Galaxy Buds2というものが丁度予算いっぱいの値段で売られているから、これにすることとした。言うまでもなくスマホとの相性を想定した結果である。

Bruitoothのバージョンは5.0以上であることが重要だが、これは今発売のものは満たしているだろう。問題はコーデックで、Androidの場合aptX対応であることが望ましい。こうなると機種が限られてくる。私がリストアップしたのは、以下のイヤホンである。

  • Galaxy Buds2
  • YAMAHA TW-E3C
  • final ag COTSUBU
  • Technics EAH-AZ40

客がいっぱいいても話しかけてこない暇そうにしている店員は、概ね知識に乏しく愛想が悪い。しかし休日の午後の売り場は客でごった返しているから、店員を捕まえることができればラッキーである。仕方がないから私は、同じ年代と思われる暇そうな店員にGalaxyのBuds2を見せてほしいと頼んだ。Buds2はショーケースの中にあって、出してもらえないと触ることもできない。その前に在庫はあるのはと聞いたら全色ありとのことだった。「試してみますか?」というので喜んでそのようにしたいと伝え、買ったばかりのGalaxyを取り出した。店員がショーケースの中から取り出して蓋を開けたとたん、私のスマホにペアリングのポップアップが表示されたのには驚いた。今ではとても簡単にペアリングできるらしい。

実際に聞いてみたGalaxy Buds2は悪い印象はなかったが、比較するものがない。ただ少し音量が小さいと感じた。Xperiaでもう懲りているから、音量の大きさは必須である。店員は比較のためにSONYの中級クラスとTechnicsの最新モデルEAH-AZ40M2を出してきた。私はSpotifyで今年のニューイヤーコンサートとモーツァルトのハイドン・セットなどを再生しながら、これらの機種を比較試聴した。そしてSONYのイヤホンは、いわゆるドンシャリで聞くに堪えないこと、さらにTechnicsはそこそこいい機種であることを発見した。ただ私の視聴したTechnicsのものはaptXに対応していなかった。

私が逐一所感を述べると、店員は次にCOTSUBUという機種を試すよう促し私もそれに従った。COTSUBUというのはその名の示す通り小さな筐体だった。おそらく耳の小さな女性向けといった印象で、丸みを帯びたやさしい音は6000円にしては悪くないのだが、高くてもいいからクラシック音楽に向いたもう少しいい音のするものが欲しい。YAMAHAも試してはみたがどこか決め手に欠ける。結局、再度Galaxy Busd2を聞いてそれに妥協しようとしたとき、店員はfinalというメーカーのZE3000という機種はどうですか、と聞いてきた。finelなどというメーカーは初めてである。聞くところによれば、日本のメーカーとのことである。なかなか親切な店員だったから、信じてそれを視聴させてもらうことになった。そして音楽が聞こえた瞬間、文字通り耳を疑ったのである。

finelのZE3000で聞く音楽は、それまでのどのイヤホンよりも安定感があってしかも適度な広がりがある洗練された音だった。中音域の伸びも非常に良く、ボーカルやバイオリンの音が惚れ惚れするし、音を大きくしても歪まないところが素晴らしい。私は驚嘆の意見を述べ、値段を聞いたら予算内の税込み1万5千円強とのことである(実際には10%のポイントもつく)。見るとその隣にはZE2000という同じラインナップの低位機種も並んでいてこちらは1万円。形状など見た目は同じでいったい何が違うのかと尋ねたら、聞いてみますか、ということになった。ZE2000もいい音がしたが、こちらはよりナチュラルな感じで、言い換えれば特徴がない。1万円もかけて買うイヤホンとしては、ZE3000の方がより立体感があって鳴りっぷりがいいと感じた。

さらに素晴らしいのは装着感が見事なことと、ボリュームが小さくても大きな音がすること。音の遮蔽性を確保して、その分ノイズキャンセリング機能が付いていないのは一種の見識だろうと思う(この機能は、使うと確実に音がおかしくなる)。イコライザーも専用アプリもないから、まさしく「この音を聞け」ということである。だが、その音たるや従来のBruitooth型イヤホンの限界を見事に突破していると言わざるを得ない。結局、私は1時間かけて何種類かを試した結果として、迷うことなくZE3000を選択した。帰宅していろいろ検索してみると、これは賞を受賞した優れもので多くの高評価を得ていることがわかった。

いま私はGalaxy A54 5Gにfinal ZE3000を接続してSpotifyを聞いている。これまでSpotifyのストリーミングの音質に限界を感じ妥協していたが、それはまだイヤホンとスマホの高度化によって改善の余地があったことが判明した。これまで聞いていた音楽が、旧い歌謡曲であっても素晴らしい再生音で蘇ってきた。アナログのレコードを聞いているかのようである。

そしてわかったことは、何と有線接続した従来の安物のイヤホンでも、なかなかいい音がすることである。これはスマホに搭載されたアンプが悪くないことを意味している。結局、4年前に不本意ながら買ったOPPOも、2年前に買うことを余儀なくされたSONYも、まったくもって酷い音質だったことは明らかだ。少なくともこのたび買ったSAMSUNGは、私を裏切らないばかりか、スマホ登場以前のごく普通の音のレベルを保証してくれた。そこにfinalのイヤホンを接続することで、これまで有線接続で聞いていた音楽プレイヤーの音に到達した。この4年間、私はスマホによる低レベルの音質を我慢する生活を余儀なくされていた。だが、ようやくそのトンネルから抜け出すことができたのだ。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...