2014年4月16日水曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第13回目(1986年3月)

記録によれば大学へ入学した1986年の春に、私は大阪から福知山線の列車に乗り、山陰地方を目指して日帰りの鉄道旅行に出かけたようだ。この時の同行の友人は、同じ高校から同じ大学へ進学したH君で、彼とはすでに3年以上のつきあいだったが一緒に旅行をするのは初めてだった。彼とはその後、大学時代を通じていろいろなところへ出かけたし、今でもたまに会うことがある旧友である(もしかしたらこの文章を読んでいるかも知れない!)。

彼は私よりもはるかに鉄道に詳しく、彼と旅行する時はすべてのプランニングを彼に任せることができる。彼もそのほうがいいようで、つまりは相互に補完的であり、従ってトラブルになることは少ない。そして彼の立てた計画に従い、私達は福知山線を福知山まで乗り、その後、山陰本線を鳥取まで下るということになった。福知山線は当時でも三田を過ぎるとのどかなところを走るローカル線で、大阪からもっとも鄙びた地域に向かう路線だという思いが強い。かつてディーゼル機関車にコトコトと引きずられて行く単線の旅は風情があった。今では宝塚線などという名称で呼ばれ、通勤電車がひた走っている。

三田、篠山口、福知山、和田山、豊岡、城崎などで一定時間の停車があり、そのたびに駅のスタンプなどを集めていたのはいつものことだった。そして昼を過ぎてようやく最初の目的地である余部鉄橋に達した。この余部鉄橋は香住と浜坂の間にあり、トンネルを抜けると日本海を眺めながら非常に高いところを渡る。その高さもさることながら、明治時代に造られた鋼鉄製の赤い橋脚は重厚感があって美しく、眼下には民家が見える。もともと険しい海岸線なので、よくこのようなところに橋を通したな、という感じがする。そして私にとってはこの橋のシーンは、NHKの連続ドラマ「夢千代日記」の思い出に重なる。


体内被曝という深刻なテーマを扱ったこのドラマでは、吉永小百合の演じる主人公が神戸から湯村温泉へ帰る際にここの鉄橋を渡るのである。テーマ音楽は武満徹で、裏日本のうら寂しい情景と複雑な心理が入り交じった、何とも言えないものだった。

その余部鉄橋で列車の転落事故が起きたのは、1986年12月のことであったから、私たちがここを通った半年余り後ということになる。強風にあおられて回送列車が転落し、そのために下の民家の住民が数多く亡くなった。後のJRはこの古い橋を架け替え、2010年には新しい橋となった。数年後、私はこの時の友人と自動車でここに出かけ、慰霊碑などが立ち並ぶ集落を訪問したこともある。

私はこの日も京都からの長距離客車列車に乗っていたので、ここから鳥取までの区間を海を眺めながら過ごしたように思う。小学校の臨海学習や、大学のゼミ旅行など、意外にもこのあたりはよく訪れている。しかし鳥取へはこの時がほとんど初めてであり、そしてここから因美線で津山へ、さらには津山線で岡山へと列車を乗り継ぐのも初めてであった。

中国山地の何の変哲もない風景が私は好きだ。川にそって次第に山へ分け入り、分水嶺を過ぎると川は逆方向に流れている。といっても東北や九州のような険しい山地ではなく、平行して走る国道もどことなく明るい。山の中に開けた盆地と、そこの風情ある街並みは、独特の歴史を感じさせる。津山もその一つである。だが私達は駅前を見る時間もなく列車を乗り換えざるを得なかった。若い時には、またどうせ来ることがある、と考えていた。だが私の場合、未だにその思いは果たせていない。東京に住んでいると、中国山地などという場所へは、そうそう出かける機会もないのだ。

岡山からは通常通り、山陽本線を乗り継いで大阪へ帰った。岡山を出る頃にはもう暗かったから、大阪へは深夜近くに帰り着いたのだろうと思う。それまではなかなか目的地につかなかった列車も、新快速電車が姫路を出ると、あっというまに大阪に帰った。だからこの旅行は、山陰と山陽の差を感じる旅でもあったように思う。

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