2014年4月19日土曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第14回目(1986年9月)③

北海道の最初の目的地を私は根室に定めていた。その先の納沙布岬を目指し、一路東へ向かうには、古典的なルートとして函館本線を旭川または滝川まで行き、そこから根室本線を行くというものがある。明治時代のルートは、このようにして道東へと伸びていた。それは気の遠くなるような道のりである。東京から何泊も列車を乗り継ぎ、3日から4日もかかる計算になる。しかも帯広へと向かう根室本線には、あの狩勝峠が待ち構えている。

狩勝峠は道央と道東を結ぶ難所で、落合と新得の間にトンネルがあり、ここの区間は一駅ながら24キロもの区間をノンストップで走る。トンネルを出ると十勝平野が開けるのは有名で、私もその風景を心待ちにしていた。だが私が乗ったのは、特急「おおぞら1号」で、この特急列車は千歳空港から石勝線という新しく開通したルートを通る。この線によって釧路は随分近くなった。列車はあっというまに新狩勝トンネルを通過し、十勝平野が広がったかと思うと帯広に到着した。

この時まではよく晴れ、窓の開かない特急列車とは言え、私は随分車窓を楽しんだ。ところがここから釧路を目指し海岸近くを走ると、たちまち濃霧に襲われたのだった。釧路へは13時過ぎに到着した。札幌を出たのは8時だったから、それでも5時間はかかったことになる。これで随分近くなったと言われていた(いまでも4時間はかかる)。だが私の目指す根室はここからさらに急行「ノサップ3号」で2時間余もかかるのである。同じ根室本線とはいっても釧路までと釧路からではまったく違う。線路も細くなり、湿原の中の無人駅を通過していく。

釧路支庁の向こうに根室支庁はあって、北方領土はさらにその先である。私が根室に着いたのは16時前で、これでも朝一番の札幌発の特急に乗ったのだから北海道はとても広い。そして私はそこからさらに満員の通学バスに揺られ納沙布岬を目指した。昆布漁の漁村を次々と通過し、寒い濃霧の中を納沙布岬に到着した私は、すぐに折り返しのバスに飛び乗った。もとより灯台以外は何も見えないからすることがないが、せっかく本土最東端に来たきもかかわらず、景色が見えないことを残念に思った。
説明を追加

根室行きバスは、根室発の最終列車に辛うじて間に合うタイミングであった。この列車は各駅停車で、釧路に22時半に到着する。根室から釧路までの区間を再びひとりで乗っていると、わけもなく淋しく、人恋しい気分になってくるのだった。同じことを思ったのだろう、私の乗っていた車両に乗っていたたったひとりの同乗者と目があった時、どちらからともなく話をし始めたのである。このような経験は初めてだった。彼も大学生で一人旅の途中だった。何を話したかは覚えていない。だが季節外れの北国を旅行する若者の動機にはおおよそ察しがつく。彼もおそらく感傷旅行の最中だったと思う。このような旅行者に私は何度か出会った。

根室から釧路に来ると都会に来たように感じる。私は札幌行きの夜行に乗るまでの間、開業85周年という釧路駅の記念きっぷなどを買い求めたりして時間をつぶした。こんな奥地の街に、もう85年も前(1901年)にできたのかと思うと想像力が膨らんだ。だが現代の釧路では、東京と同じテレビ番組が流れ、駅の待合室も特別変わったものではない。鉄道とは近代化の歴史において、中央集権国家、画一化の象徴であった。明治政府が釧路や根室にまで鉄道を敷いたのは、これらの開拓地が戦略上重要だったからだろう。数えきれないほど多くの犠牲者を出した開拓時代の歴史を刻む線路の上を静かに走る急行「まりも」の乗客に、私はなった。


0 件のコメント:

コメントを投稿

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)

ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...