いつのまにか3月から4月にかけての東京では、興味を惹くコンサートが目白押しとなった。今年で10年目を迎える「東京・春・音楽祭」というのが開催されているからだ。この集中的なコンサートに、何か明確なコンセプトやテーマが設けられているわけでもなさそうだ。それで様々な作曲家の演奏会が、博物館など上野公園を中心とした各地で連日開催されている。
そもそもの始まりは、オペラであったようだ。小澤征爾がR.シュトラウスの歌劇「エレクトラ」を、ロバート・カーセンの新演出で開催したのが2005年、翌年はヴェルディの歌劇「オテロ」と続き、小澤の病気による交代や大震災の影響などの紆余曲折を経つつも、2010年からは「パルジファル」を皮切りにワーグナーの楽劇を毎年1つづつ取り上げて、その演奏会が中心に据えられている。「とにかく続けることが大切」などと言われ、なんとか続いてきたこの10年の軌跡は、コンサートでもらった分厚い冊子に詳細に記録されている。何とも気合の入った音楽祭である。
私も今年はじめてその音楽祭に出向き、ワーグナーの楽劇「ラインの黄金」を聴くことにした。今年から向こう4年がかりで「ニーベルングの指環」を上演するというのである。演奏会形式ながら指揮はマレク・ヤノフスキ、管弦楽はNHK交響楽団である。ヤノフスキといえばドレスデンでデジタル録音した「指環」のディスクが有名だが、彼は2000年代に入ってからワーグナーの主要なオペラをすべて演奏会形式で収録し、ペンタトーン・レーベルからSACDとして発売されている。ベルリン放送交響楽団を指揮し、多くのワーグナー歌手を揃えたその演奏は、店頭で少し聞いただけだがなかなか良く、私はヤノフスキが指揮者でなかったら出かけることをためらったかも知れない。
桜が散り始めた上野公園も土曜日となれば改札口を出られないほどの混雑ぶりである。そのうちどの程度の人がワーグナーを聞きに来ているのか、などと考えながら東京文化会館へ足を運んだ。会場はすでに多くの人で溢れているが、「ラインの黄金」は休憩なしの2時間半を一気に聴く必要がある。その音楽は常にセリフ付きの対話のようなもので、「指環」の多くの名シーンはその他の楽劇に譲るので、「ラインの黄金」自体は「指環」のプロローグのような作品に過ぎない。有名な音楽は幕切れの「ヴァルハル城への入場」くらいである。
だが私としては初めて見る作品である。そのために対訳を手に入れ、4色ボールペンを手にしながら手元にあった4種類の演奏(ベーム、カイルベルト、ティーレマン、ヤング)を1ヶ月前から会社の行き帰りに聞いてきた。そのためにどの台詞がアルベリヒで、どれがヴォータンか、大変よくわかる状態になっていた。この「予習」こそがワーグナーへの重要なステップだろうと思ったからだ。かつてブーレーズのビデオを見た時も、レヴァインのビデオを見た時も、それなりに面白いとは思ったが、やはりストーリーを押さえておく重要性に気づいたのだった。
第1場は3人のラインの乙女とアルベリヒ(トマス・コニエチュニー)が登場する。演奏が始まると舞台上部に設けられた大きなスクリーンには、ラインの川底をイメージした映像が流れる。NHK交響楽団は100人は越えようかと思われる大きな編成が舞台いっぱいに広がり、左手には6台のハープがずらりと並んで壮観である。ヤノフスキはこの大きな編成を、とてもまとまりのあるものとして演奏を始め、それは弛緩することがなかった。この驚くべき集中力は、オーケストラの技量も手伝って、ハイレベルな上演になることに大いに貢献したと思う。とにかく綺麗に音樂が流れるのである。
第2場に移ると、スクリーンはヴァルハル城を遠望する風景(どことなくノイシュヴァンシュタイン城を思わせる)に変わる。舞台には代わってフリッカ(クラウディア・マーンケ)、フライア(藤谷佳奈枝)、ヴォータン(エギルス・シリンス)が登場している。緊張を孕みながらも、音樂は極めて自然に流れる。唐突な響きも、過剰なうねりもない。悪く言えば意外性に欠けるものの、良く言えば大変スマートである。指揮者の音楽観が、揺るぎないものとして完成しているからだろうと思う。
舞台の後方にファーフナー(シム・インスン)とファーゾルト(フランク・ヴァン・ホーヴz)が登場し、フローとドンナーの努力もむなしく、フライアを人質に連れ去る。このあたりで登場するローゲ(アーノルド・ベズイエン)は、ヴォータンやアルベリヒともどもなかなかの熱唱である。このローゲとヴォータンがニーベルハイムに降りていき、そこに登場するミーメ(ヴォルフガング・アブリンガー=シュペルハッケ)とのやりとりは全体のなかでも際立って素晴らしかったのだが、その第3場へ移るトランジションのシーンは、オーケストラ最後方にずらりと一列にならんだ数十人の打楽器奏者が一斉に金属音を鳴らし、その音はオーケストラと調和しながらあくまでリズミカルであった。スクリーンは煮えたぎる火の中にいる様を表している。
ラインの乙女から奪った黄金からミーメが指環を作り、それがあろうことか、頭巾をかぶって蛙に化けている間にヴォータンに捉えられてしまう。何か学芸会のお芝居のようなストーリーも、ワーグナーの音樂に乗って深刻かつ大袈裟に展開する。舞台に聞き入る何千もの聴衆は、物音ひとつ立てない。今日の客はとてもワーグナーを楽しみにしているなと思う。そして主役4人の素晴らしい熱唱が終わるといよいよ再びヴァルハル城のシーンへと移る。ここからが第4場である。
第4場に来ると、いよいよ来る時が来たなと思う。ヴォータンの奪った指環は、フライアの身代金としてファーフナーに与えられるのだ。ここで私のいた1階席の真上にスポットライトが当たり、見ると2階席右手の最前列にエルダがいるではないか。彼女は知の神の啓示のように舞台に向って歌う。時折振り向く指揮者との呼吸が舞台に新鮮な雰囲気を与えると、いよいよ音楽も大詰めである。ついにトランペットが高らかに鳴り響き、やっとの思いで神々の入城シーンとなる。スクリーンが城をアップし、そこに虹でもかかるのかと思ったが、さすがにそれはなかった。だがオーケストラの響きが一層美しくなり、舞台から歌手が消えると最後の数分間はオーケストラの名演となった。
いよいよ「指環」が始まる、と思ったところで幕となる。
待っていたかのような万雷の拍手は、とりわけ3人の主役男声歌手(ヴォータン、アルベリヒ、ローゲ)に向けられ、さらには指揮者とオーケストラにも多大なブラボーが飛び交った。職人的な指揮のおかげで、歌手達は自分の実力をうまく発揮したように思う。どの歌手をとってもあまり欠点が思いつかない。とても綺麗でテンポがやや速く、つまりは大変分析的な演奏だと思った。と同時に決して表面的な醒めた演奏でもない。過去のバイロイト指揮者で言えば、ブーレーズのような感じだろうか。
観客のマナーがいいのはこの演奏会で特筆すべきことだろうと思う。いつものN響の定期のように、形式的な拍手が多いわけでもない。これだけ熱狂的な拍手が起こるということは、なかなか聴くべきポイントを押さえた人たちが大勢いたと思わせる。だからこそ歌手も、そしてオーケストラも好演した、と言えるかも知れない。こんなレベルの高いコンサートなら、来年も出かけてみようか、と思わせるに十分な演奏だった。会場を出ると、傾きかけた太陽が動物園の方向に沈むところだった。上野公園の賑わいは、地底と天上を行き来したあとでも、何事もなかったかのように和やかだった。
なお、この公演でNHK交響楽団のゲスト・コンサートマスターを務めたのは、ウィーン・フィルのライナー・キュッヘル氏のようだった。このことは配られたプログラムには掲載されていない。
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