我が国においても比較的早くから知られているようだが、私はもちろん初めて。新国立劇場での上演も2009年以来6年ぶりということになる。このような作品は滅多にお目にかかることがないから、行ける時に行っておくのが良かろうと思ったのが前日のことで、検索をしてみると比較的安い席でも当日券があることが判明した。平日のマチネとなると、よほどの物好きでないと出かけないだろうし、それがあの「ヴォツェック」である。救いようのない物語が、12音技法の無音階音楽によって3幕のドラマとなっている。
救いようのない物語・・・それは家族の崩壊の物語である。オペラ、特にヴェリズモのそれは、確かに現代の週刊誌をにぎわすような事件的性格と持った話が題材となっているが、時代設定がやや古かったり、話がいささか唐突だったりすることが多い。しかしこの「ヴォツェック」は現代においてもどこにでもあるような話である。特に昨今の我が国でも問題となっている貧困・・・ワーキングプアなどとも呼ばれている・・・によって破壊された人間性がもつ凶暴性をむき出しにした事件の数々は、社会に復讐しようとして実行される無差別殺人事件や、家族同士の殺し合いなど、このオペラの中ですでに取り上げられたテーマである。昨今の凶悪事件が「理解できない」などと批評するのは容易だが、それはこのように90年も前に作られたオペラの題材にもなっているというような事実を知らなさ過ぎる。貧困と暴力という人間社会の持つ本質的な部分が、すでに古くから文学的に「今日的問題」であることは、少し考えれば明らかである。
家族という唯一の支えを失う主人公のヴォツェック(バリトンのゲオルク・ニグル)は、内縁の妻マリー(メゾ・ソプラノのエレーナ・ツィトーコワ)との間に一人の私生児を設けている。この子役は最後に一声発する以外には無口だが、終始舞台に登場して物語のテーマを際立たせる役割を担う重要な位置づけとなっている。ヴォツェックはその貧困ゆえに、「社会の庇護から抜け落ち、自分の肉体を、労働力を、幸せを売ることによって家族を養わなければならない」存在である。この存在は、原作のビューヒナーの作品が書かれた20世紀初頭から21世紀の現代に至るまで、資本主義文明社会のいわば本質的な問題である。
例えばヴォツェックは「小心者の大尉(テノールのヴォルフガング・シュミット)の髭を剃ったり」(第1幕第1場)、「誇大妄想気味の医師(バスの妻屋秀和)の人体実験のモルモットになったり」(第1幕第4場)して小銭を稼いでいる。マリーはそのような生活に疲れ、敬虔なクリスチャンとしての心を持ちあわせてはいたものの、鼓手長(テノールのローマン・サドニック)と不倫の関係を持ってしまう’(第2幕)。
その関係に気づいたヴォツェックは、半ば錯乱気味にマリーを刺し殺し(第3幕)、そのナイフを川の奥深くへ投げようとして溺れ死ぬ。そのことも知らない息子は、事態を理解せず、ひとり馬ごっこに耽る。今回の演出は2009年の上演時と同様、ドイツ人アンドレアス・クリーゲンブルク(バイエルン国立歌劇場との共同制作)で、指揮はギュンター・ノイホルト、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団である。
物語の残酷さは、幕切れを迎えても素直に拍手さえしずらいような雰囲気をもたらす。しかも音樂が叙情的でもなければ、心を打つようなメロディーがあるわけでもない。いわば現実がむき出しになったような感覚は、かえって心の中に刃物を差すように感じるというべきだろうか。つまり涙をもってある種のカタルシスを得ることは、このオペラの場合できない。オペラが娯楽作品と言うよりは、芸術作品としての、いやそれ以上に社会問題をありのままに映し出す鏡のように、鋭利に迫るのだ。
舞台上に終始張られた水が、舞台上の様々な人やものを反射して映し出し、それが水面に揺れるという一種異様な感覚が、4階の席からもよくわかる。水面に足をつけてピチャピチャと歩くと、それがオーケストラの響きに重なる。カーテンコールの指揮者までもが、この水の中を歩いて挨拶をした。それ以外にはヴォツェックの部屋が前に出たり後ろに下がったりして遠近感を出す。照明は概ね暗いが、人物はみな白い服を来ており、特にヴォツェック以外の者は異様でさえある。
歌唱力については、ここでとやかく言うことは差し控えたいと思う。第一私はこのような無調オペラを見るのは初めてだし、シュプレヒシュティンメと言われる歌唱法については、今回初めて知ったくらいなのだから。ただ他の作品を見た時と比べ、決して悪くはなかった。みな声は良く届いていたし、オーケストラの演奏も水準を維持していた。何よりも遂に私のオペラ体験が「ヴォツェック」に及んだことがとても感慨深いのだ。1時間40分休憩なしの上演は、集中力を絶やさないための措置だったと思うが、水の中で濡れてしまった出演者にとってもそれは必要なことだったと思われる。
ベルクはこのような音楽をドビュッシーや師のシェーンベルクなどから学び、このオペラを見たショスタコーヴィッチは歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」でやはり家庭崩壊のドラマを書いた。だから音楽史に位置づけられる作品としての「ヴォツェック」は、その重要性を今では明確に定義されていると言える。けれどもこのオペラをそうなんども気軽に見ることができないというのもまた事実である。シュールなオペラも娯楽作品を求める観客からは支持され続けるだろうか。救いは客席に比較的若い客が多かったことで、学生席を求めて当日券を手にした若者も目立った。やはりこれは避けて通れないオペラ史の一側面を持った重要作品ということになるのだろうと思った。
家族という唯一の支えを失う主人公のヴォツェック(バリトンのゲオルク・ニグル)は、内縁の妻マリー(メゾ・ソプラノのエレーナ・ツィトーコワ)との間に一人の私生児を設けている。この子役は最後に一声発する以外には無口だが、終始舞台に登場して物語のテーマを際立たせる役割を担う重要な位置づけとなっている。ヴォツェックはその貧困ゆえに、「社会の庇護から抜け落ち、自分の肉体を、労働力を、幸せを売ることによって家族を養わなければならない」存在である。この存在は、原作のビューヒナーの作品が書かれた20世紀初頭から21世紀の現代に至るまで、資本主義文明社会のいわば本質的な問題である。
例えばヴォツェックは「小心者の大尉(テノールのヴォルフガング・シュミット)の髭を剃ったり」(第1幕第1場)、「誇大妄想気味の医師(バスの妻屋秀和)の人体実験のモルモットになったり」(第1幕第4場)して小銭を稼いでいる。マリーはそのような生活に疲れ、敬虔なクリスチャンとしての心を持ちあわせてはいたものの、鼓手長(テノールのローマン・サドニック)と不倫の関係を持ってしまう’(第2幕)。
その関係に気づいたヴォツェックは、半ば錯乱気味にマリーを刺し殺し(第3幕)、そのナイフを川の奥深くへ投げようとして溺れ死ぬ。そのことも知らない息子は、事態を理解せず、ひとり馬ごっこに耽る。今回の演出は2009年の上演時と同様、ドイツ人アンドレアス・クリーゲンブルク(バイエルン国立歌劇場との共同制作)で、指揮はギュンター・ノイホルト、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団である。
物語の残酷さは、幕切れを迎えても素直に拍手さえしずらいような雰囲気をもたらす。しかも音樂が叙情的でもなければ、心を打つようなメロディーがあるわけでもない。いわば現実がむき出しになったような感覚は、かえって心の中に刃物を差すように感じるというべきだろうか。つまり涙をもってある種のカタルシスを得ることは、このオペラの場合できない。オペラが娯楽作品と言うよりは、芸術作品としての、いやそれ以上に社会問題をありのままに映し出す鏡のように、鋭利に迫るのだ。
舞台上に終始張られた水が、舞台上の様々な人やものを反射して映し出し、それが水面に揺れるという一種異様な感覚が、4階の席からもよくわかる。水面に足をつけてピチャピチャと歩くと、それがオーケストラの響きに重なる。カーテンコールの指揮者までもが、この水の中を歩いて挨拶をした。それ以外にはヴォツェックの部屋が前に出たり後ろに下がったりして遠近感を出す。照明は概ね暗いが、人物はみな白い服を来ており、特にヴォツェック以外の者は異様でさえある。
歌唱力については、ここでとやかく言うことは差し控えたいと思う。第一私はこのような無調オペラを見るのは初めてだし、シュプレヒシュティンメと言われる歌唱法については、今回初めて知ったくらいなのだから。ただ他の作品を見た時と比べ、決して悪くはなかった。みな声は良く届いていたし、オーケストラの演奏も水準を維持していた。何よりも遂に私のオペラ体験が「ヴォツェック」に及んだことがとても感慨深いのだ。1時間40分休憩なしの上演は、集中力を絶やさないための措置だったと思うが、水の中で濡れてしまった出演者にとってもそれは必要なことだったと思われる。
ベルクはこのような音楽をドビュッシーや師のシェーンベルクなどから学び、このオペラを見たショスタコーヴィッチは歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」でやはり家庭崩壊のドラマを書いた。だから音楽史に位置づけられる作品としての「ヴォツェック」は、その重要性を今では明確に定義されていると言える。けれどもこのオペラをそうなんども気軽に見ることができないというのもまた事実である。シュールなオペラも娯楽作品を求める観客からは支持され続けるだろうか。救いは客席に比較的若い客が多かったことで、学生席を求めて当日券を手にした若者も目立った。やはりこれは避けて通れないオペラ史の一側面を持った重要作品ということになるのだろうと思った。
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