いつから鉄道に興味を持ち始めたのだろうかと思う。小学生の時、学校に時刻表を持ってきて何やら解説をしていたのがいた。彼は私を誘い、新大阪駅へ列車の撮影に行った。私を釘付けにしたのは、遠く青森や九州から到着した夜行列車だった。私も彼に倣い、家にあった時刻表を眺めてみた。東海道本線下りのページには、夜行列車が深夜の大阪に停車、あるいは通過していく様子が記載されていた。その中に私は「金星」と言う名の列車を発見した。
「金星」は名古屋を夕刻に出発し、西鹿児島まで行く夜行列車だった。もう新幹線は博多まで通じていた時代だったから、このような列車があるのかと私は思った。「金星」なら夜に大阪で見ることができる。同様に「彗星」「明星」「なは」「あかつき」などが夕方に新大阪を発車する。東京から来る最初の夜行は「さくら」を皮切りに「はやぶさ」「みずほ」と続き、「富士」「あさかぜ」「瀬戸」は大阪を通過するのだ。思えばこの頃は、夜行列車の最後の隆盛期だったと思う。だが残念なことに大阪生まれの私は、実家に帰るという理由でこれらの列車に乗る九州や四国生まれの同級生が羨ましかった。
これらの列車に乗るということは、今で言えば、遠く南米にでも行くよりももっとノスタルジーを掻き立てた。遠くから来て遠くへ行く寝台特急は、その豪華なA寝台の写真を見ては、いつか自分も乗ってみたいなどとあこがれた。だがその願いを一度も叶えることなく、夜行列車は衰退していった。
国鉄がJRとして生まれ変わることになった前日の1987年3月31日は、「国鉄最後の日」というイベントが開催された。6000円の切符(「謝恩フリーきっぷ」と言った)で24時間全線が乗り放題となるのである。この日にわざわざ全国の鉄道を乗るために出かけた鉄道ファンは多かった。だが私はそのようなことをしらなかった。同級生のU君が教えてくれた。だからこの旅行は前半を彼と過ごすことになったと思う。日付が変わる直前の3月30日深夜に、私と友人は夜行列車「きたぐに」の乗客となった。
夜行列車は日付が変わるまでの切符を足すことで、そのあとは「国鉄全線乗り放題」の切符が使えた。車内には同じことをする鉄道ファンであふれていたが、座れないほどではなかった。いつもどおりに列車は京都を過ぎ、夜中の北陸路を新潟へ向かった。
新潟で列車を下りた私は、そのまま上越新幹線に乗り換えた。新幹線も自由席であれば乗ることができた。私は普段、貧乏な旅行者だったので新幹線には乗っていない。ここぞとばかりに乗車したことのない上越新幹線を大宮まで行くことにした。だが車内はめっぽう混んでいた。私は立ったまま自由席にいたが、かつては難所とされた三国峠をあっという間に通り過ぎるトンネル続きの車窓は全く楽しくない。
大宮に着くとサンドイッチで昼食をすませ、今度は東北新幹線に乗り継いだ。私が向かったのは当時の終点、盛岡であった。東北新幹線は高校時代の修学旅行で福島から大宮まで乗車して以来であった。この列車には座れたと思う。だから私はどっと眠りに入り、車窓風景などは皆目覚えていない。
夕方の盛岡を出発するL特急「たざわ」は、ほとんど盛岡到着の直後に出発した。車内には鉄道ファンの他に、多くの乗客がいて終点の秋田まで満員だった。まだ雪の残る北東北の山間部を静かに走りながら、国鉄最後の日は暮れていった。この時の同行の友人U君には、ほとんど狂気なほどに乗りまくる人であった。私なら小一時間を途中下車などして過ごす時間を、彼は数分の待ち時間でも次の列車に乗る。そして彼は何が楽しくてこういうことをしているのかわからなかった。付き合っていても楽しくない彼は、何も話さないか、話すとすればそれは列車のダイヤのことだけだった。
私はいよいよバカバカしくなってきたが、これが最後の日と決めていたから次の列車、青森からの夜行急行「津軽」に乗り込んで、ひたすら寝ることに決めた。途中日付が変わる直前の山形で、テレビの取材があった。おそらく夜のニュースでは中継されていたのかも知れない。
夜が明けると急行「津軽」は宇都宮を出て、埼玉県を大宮に向って進んでいた。昭和62年4月1日水曜日は曇りがちで、今にも雨が降り出しそうな日であった。私は大宮で通勤電車に乗り換えた。そして東京の電車のすべての車両に「JR」と書かれたシールが貼られているのを発見した。いやそれは東京だけでなく、全国の全ての列車に貼付されていたようだった。
大阪までの帰りは、もちろん東海道本線の普通列車だった。この区間はこれまでに何度乗ったか知れない。だが、私は国府津駅に着くと、その隣のホームに停まっていた御殿場線の列車に乗り込んだ。雨の中を御殿場線は静かに走り、山間の中に漂う霧に包まれて、ソメイヨシノがあえかな花びらをつけていた。列車が沼津に着いた後、どのように帰ったかは覚えていない。高校時代の鉄道好きの友人S君は、北海道からの帰省の途中、わざわざ二俣線に乗ったと自慢していた。だが私はもうそんな元気はなかった。2泊続けての夜行列車に疲れていたのだろう、早く大阪に帰りたかった。だから新幹線に乗ったのかも知れない。だがそのようなこともやはり覚えていない。
全部で数えると16回に及ぶ鉄道旅行のうち私が比較的よく覚えていたのは、結局旅行ができること、それ自体が楽しみだった最初の数年間の、つまりは私が高校生だった頃のいくつかである。擦り切れるくらいにページをめくった当時の時刻表を眺めると、いろいろなことが鮮明に蘇ってくる。だが、それは期間にしてたかだか2年ほどのことである。
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