折しもウクライナをめぐるロシアと西欧諸国との争いが激化しているさなか、ロシアの民族主義的なオペラとも言うべきボロディンの大作「イーゴリ公」がメトロポリタン・オペラで100年ぶりに上演され、The MET Live in HDシリーズでも見ることができた。この作品をアメリカで初演したのがメトだから、まさに初演時以来の上演ということになるのだが、その今回の演出は斬新なもので、モスクワ生まれのディミトリ・チェルニアコフが手がけ、歌手達もロシアから数多く参加して、ロシアものを本場さながらに楽しむというメトならではの贅沢な企画となった。
ボロディンは歌劇「イーゴリ公」を未完のまま残し、友人のリムスキー=コルサコフとグラズノフによって仕上げられたようだ。このあたりの経緯を含め、この作品はロシア以外ではさほど知られていない。ストーリーは中世ロシアの叙事詩に記述された史実に基づいている。従って12世紀の話で、ロシア人のイーゴリ公がホロヴェツ人(韃靼人)の制圧に向けて遠征したが失敗し、囚われの身となったものの、敵方の協力者を得て脱走し妻ヤロスラヴナのもとへ帰るという内容である。
Met Live Viewingのホームページに記載されたあらすじでは、以下のように紹介されている。
「ポロヴェツ人との戦に敗れたノヴゴロド公イーゴリと息子ヴラヂーミルは、ポロヴェツ人の首領コンチャーク汗に捕われた。協力者を得たイーゴリ公は脱出に成功するが、汗の娘コンチャコーヴナと恋仲になったヴラヂーミルは留まることを決意し、汗に娘との結婚を許される。一方イーゴリ公の領地では、主が不在の間に陰謀を企む義兄ガーリツキィ公らの専横が人々を脅かし、さらにポロヴェツ軍の侵攻により街は荒廃してゆく・・・。」
だがチェルニアコフの演出では、この英雄的表現が薄められ、主人公イーゴリ公に焦点をあてた人間的ストーリーとして描かれている点が新鮮であると言う。言われてみればそのように感じるのだが、それにもまして見せるのは舞台装置のデザインである。まずプロローグの前に、舞台上にメッセージが表示される。「イーゴリ公にとって戦争は自己逃避である」といった趣旨である。これはこの演出を解釈する上での鍵であると、インタビューで彼自身答えている。
プロローグの舞台は大理石で作られた宮殿内部で、いままさに遠征に出発しようとしている軍人たちが、急に起こった日食に恐れおののき、イーゴリ公(バス・バリトンのイルダール・アブドラザアコフ)の妻ヤロスラヴナ(ソプラノのオクサナ・ディーカ)は遠征をやめるようにと促す。ディーカの第1声はメトの広い舞台に轟く、震撼するような声だった。だがそのような忠告を無視し、イーゴリ公は遠征に出発する。
さて続く幕は、舞台上に設けられた真っ赤なケシの花が一面に咲く、現実離れした舞台である。イーゴリ公は戦争で負傷し、いまやホロヴェツ人によって捕虜となってしまったのだ。時折挟まれる映像が、負傷した兵士をクローズアップすると、この異様な美しさと奇妙なコントラストを見せる。この幕は、本来第2幕として置かれているようだが、ここでは第1幕として上演されている。そして父と同様に囚われた息子のウラヂーミル(テノールのセルゲイ・セミシュクール)と、ホロヴェツ人の領主コンチャーク汗(バスのステファン・コツァン)の娘コンチャーコヴナ(メゾ・ソプラノのアニータ・ラチヴェリシュヴィリ)は恋に落ちる。コンチャーク汗は、戦闘を放棄すると約束するなら逃してやってもいいとイーゴリ公に迫るが、イーゴリ公は取り引きに頑として応じない。コツァンの低音の響きは頂点に達し、やや苦しいながらも低音の魅力もまたあるものだと気付かされる。
やがて舞台にはあの有名な音楽「ダッタン人の踊り」が流れてくる。こういう風に演奏されるのか、と思いを新たにしながらバレエに見入る。このようなバレエシーンは、グランドオペラの流儀に従ってこのあたりに置かれるのがしっくりくる。舞台を覆うけしの花が、ちょっと異様な美しさを持っているので、ここは心から楽しむというふうではない。娯楽作品としてのオペラではなく、もっとシリアスな内容なのだ。90分に及ぶ第1幕が終わり、最初の休憩時間となる。
今回出かけた六本木のTOHOシネマは、METシリーズを上映するに際してプレミアムなシートを用意してくれた。リクライニング付きの椅子に十分な広さの座席と手すり、飲み物を置く広い台、それに防寒用の毛布の配布など、4時間にも及ぶ大作を見るのに相応しい空間である。平日の昼間というのに、結構な人出で驚いた。
第2幕(と今回の上演ではなっている)は再びロシアのプチーブリである。イーゴリ公の妻ヤロスラヴナは、夫の帰りを待って慕うアリアを歌う。そこに登場するのは彼女の弟で悪役のガリツキー(バスのミハイル・ペトレンコ)に娘を誘拐されたという女達の直訴である。ガリツキーは姉の言うことにも顧みず、自らがイーゴリ公に代わる領主だと宣言するが、その横暴ぶりもまたロシア風というか、私などはイタリアやドイツのオペラにないものを感じる。
困惑するヤロスラヴリに貴族たちはイーゴリ公が捉えられ、ホロヴェツ人の軍団がまさにプチーブリに迫っていることを告げる。舞台は急展開し、天上の一部が剥がれ落ちて舞台にいたガリツキーは死んでしまうのだ。イーゴリ公の不在をいいことに、街の権威をほしいままにしていたガリツキーに天罰が下ったかのようなシーンは、(私が調べた範囲では)オリジナルにはない。そして2人のグドーク弾きの代わりに、ガリツキーに媚びへつらう2人の廷臣が登場して舞台を盛り上げた。
最後の幕(第3幕)では、再びホロヴェツの陣営である。ここにホロヴェツ人の中に捕虜を逃すという協力者が現れ、イーゴリ公は脱走を決意するのだが、困ったのはコンチャーコヴナと恋仲になったウラヂーミルである。結局ウラヂーミルは、愛と祖国の間に揺れるものの、最後には祖国を捨てる決意をするのだ。ここでのラチヴェリシュヴィリは、迫真の演技で見るものを熱くさせたが、彼女は来シーズンにカルメンを歌うことが決まっているという。今から楽しみである。
最終幕は廃墟と化したプチーブリ。一人の若者がうなだれているが、周りの誰も気がつかない。グドーク弾きが彼を見つけ、イーゴリ公であることを発見すると一同驚くが、イーゴリ公は自分だけが生き残って脱走したことに呵責の念を抱くのだ。つまりこの演出ではハッピーエンドというわけではない。散らかった廃墟を片付け始めるイーゴリ公は、ロシア人としての誇りを保ったのか、それとも裏切ったのか。そのあたりの評価は見るものに任されているのだろう。
ロシアという土地が、やはり他の西欧と違うということをまざまざと感じた今日の上演は、私にとって新たなオペラ鑑賞体験のまたひとつの新しいページとなった。韃靼人とはロシア南部に生活するトルコ系の遊牧民、すなわちタタール人で、その後モンゴル人を総称するものとなった。汗というのは、タタール人の君主に付けられる称号である。音楽は時折アリア的なものをみせつつも合唱が全体に展開し、大音量の歌が続く。スタミナがないとなかなか実演で楽しむことはできないと思われるのだが、指揮者のジャナンドレア・ノセダは聴かせどころを捉えて手堅くまとめ、客席から大きな拍手を受けていた。
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