朝日を浴びて輝く青森港に青函連絡船が到着すると、私は久しぶりに内地の人となった。ここから大阪までの距離を帰らねばならない。奥羽本線のホーム止まっている列車に乗りこみ、秋田まではゆっくりと途中下車をしながら何本かの列車を乗り継いだ。すなわち弘前、大館、東能代といった駅で私は小休止したはずである。
北海道から青森に入ると、そこは紛れも無く本州の景観である。道路は狭く曲がりくねっている。民家は古く、寄り添うように立っている。北海道ではどの家にもあった石油タンクが見えない。津軽地方なら他の地域よりも希薄なはずの歴史的な因習の重みを、どういうわけか景色からも感じることができる。それは北海道の出身者に言わせれば「暗い」というものだ。私もそれがわかるような気がする。
秋田で私は高校時代の同級生に会うことができた。彼は私よりも1年早く大学生になり、秋田の大学に通っていた。今でも彼は東北に住んでいるが、たまに会うことがある友人である。そしてその当時から彼の勉学に対する取り組みはちょっとしたものだった。
彼のアパートで私は1泊させてもらった。彼は秋田の後進性と自分の通う学校のレベルの低さを嘆いた。彼は彼の友人の車で私を男鹿半島に連れて行ってくれた。展望台から見る夕陽はとても綺麗だった。八郎潟の巨大な水田が眼下に見下ろせた。猛スピードで走るその車は、彼の友人の運転で、その恐ろしいまでのスピードは地方都市に住むことの鬱屈した感情を示すものだった。夕食に立ち寄った学生向けの食堂で、超大盛りのライスとともに分厚いトンカツを食べた後は、彼のアパートで夜中まで語り合った。若者の時にしか味わえない、空虚で攻撃的な時間が過ぎていった。
一夜が開けると彼のアパートは郊外の畑の中に立つ小さな住宅の1階で、そこから駅まではのんびりと歩いていったように記憶している。大阪行きの特急「白鳥」に乗ったかどうか、私は記憶が定かではない。いや、私は羽越本線の区間を昼間に走った記憶が無い。かと言ってこの区間を走る夜行列車はすべて寝台車である。もしかしたら新潟まで出て、急行「きたぐに」に乗ったのかも知れない。いずれにせよ私は、羽越本線、北陸本線を経由して大阪へ戻った。9月の学校が始まる直前に、私はもとの実家に帰り着いた。
とうとう北海道旅行を最後に私の鉄道旅行も行き先を失ってしまった。鉄道がなくなったわけではない。鉄道旅行の魅力を失ってしまったのである。全国をくまなく走る国鉄の列車を、丸で時刻が正確であるかどうか確認するような、ただ乗るだけの旅行に私は物足りないものを感じていた。もともとはお金がなかったから、少ない予算でできるだけ多くの場所へ行くことのできるものとして始めたものだった。だが大学生になり、アルバイトをしてお金を貯めれば、もう少し大きな旅行ができる。それは鉄道という狭い世界に閉じ込められなくてもいいものだ。いや、日本という枠を取り除くことだって可能である。
大学生になって私は、世界中を旅してみたいと思うようになっていた。私が大学に入学した1986年はまさにその始まりに相応しい年だった。前年の「プラザ合意」によって通貨が切り上げられ、空前の円高となったのである。つまり海外旅行のコストが格段に下がった。「地球の歩き方」が次々と刊行され、バックパッカー・ブームが巻き起ころうとしていた。世の中はバブル経済へと突き進んでいたのである。
これとは対照的に、鉄道がたどる運命は悲惨なものだった。国鉄がJRに分割民営化されることが決まっていたからだ。それは半年後の1987年4月1日の予定だった。当時の中曽根政権は、大きな反対の中を国鉄民営化に突き進んだ。それ自体は正しい方向だったと言える。だが、ある時期私を魅了したローカル線の旅が、その魅力を急速に失いつつあった。世界の鉄道に興味もあった。けれどももともと鉄道である必要はなかった。私は、1987年の国鉄最後の日を迎えるにあたり、その「特別きっぷ」によって全国の列車を乗り回したのを最後に、鉄道に乗ることだけを目的とした旅行に終止符を打つことに決めた。
北海道から帰る途中、乗り残した多くのローカル線に未練はなかった。これらが近い将来廃線の憂き目に会うことは明白だったからだ。生きていない鉄道に、さほど魅力を感じない。いやそもそも誰も乗らない、地域の支持を失った鉄道に乗ることが、どれほど素敵な景観の中を走っていたとしても、何か空虚なものに思えてきたのだ。それは湧網線や深名線での経験で明らかだった。まるでそれらの路線も、雨の中を私が旅行したように、霧の中に静かに消えていくように思えた。列車が大阪駅に着くと、まだ9月初旬の太陽は容赦なく私に降り注いだ。私は大粒の汗をふき、セーターを脱いでプラットフォームに降り立った。
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