ワーグナーの4部作の楽劇「ニーベルングの指環」を管弦楽曲にアレンジした「言葉のない指環」(マゼール編)は、ベルリン・フィルによって委譲され、1987年に初演されたようだ。マゼールの指揮するCDがTerarcから出ていて、私も一度聞いたことがあったのだが、それほどいい作品だとも思わず、中古屋に売ったしまったようで手元にない。そもそも上演すれば15時間にも
及ぶ曲を短くすること自体がナンセンスで、そうであればこれは別の作品としてとらえなければならないのではないか、などと思った記憶がある。
「指環」の音楽はセルやショルティ、それにベームやカラヤンの演奏で抜粋を何度か聞いているし、全曲を通してビデオで見た経験も過去に2度はある。そして滔々と流れるワーグナーの音楽に身を浸していると、ストーリーが何世代にも亘る劇であることも加わって、時間感覚というのがわからなくなる。この世の始まりを思わせる「ラインの黄金」の出だしから、この世の終わりを意味する「ワルハラ城の炎上」までを、たった4日で上演することにも無理があるのに、さらにそれを縮めようとするとストーリーなどあまり意味をなさなくなってしまうのではないかと思っていた。
マゼールはこの編曲を行うにあたって、作曲家としては十分すぎるほどに謙虚だったようだ。ワーグナーの音楽をそのままつなぎ、ごく僅かな例外を除けば一切の音符を加えていないのだ。ではマゼールのオリジナリティは何なのだろうか。そういうことを考えながら聞いていた。
音楽は70分間切れ目なく演奏される。途中の休憩時間も休止もない。にもかかわらずNHKホールに詰めかけたほぼ満員の聴衆は、ほとんど物音も立てずに聞き入った。N響の定期でこのような満員状態は稀である。しかも演奏が終わるやいなや大きなブラボーが飛び交った。私としては音楽が消えて今しばらくは余韻に浸っていたかったのだが・・・。今日聞いていたファンは、みなワーグナーの音楽を熟知しているはずであり、熱狂的な歓声を送るような聞き手は、分別を理解しているとすれば、そのような堰を切った拍手はこの音楽には不向きであるとわかっているはずだ。だがそうではなかったところを見ると、もしかすると意図された演出なのではないか、などと疑ってみたくなる。
それはさておき、音楽は「ラインの黄金」の出だしで始まり、「神々の黄昏」の最後で終わる。ここが全曲盤の抜粋とは異なるところだ。このために一度でも実演を見た人は、その光景を思い出しながら聞くことができる。そのことがなかなかいい。「ワルキューレの騎行」や「森のささやき」、「ジークフリートのラインへの旅」「葬送行進曲」などはそのまま演奏されるから、知っているメロディーが次々と出てくる。その間の「つなぎ」が不自然ではないのは、マゼールの編曲が素晴らしいからだろう。
だが、全曲を見たり聴いたりして少しは知っていると、音楽がもうこんなところまで来たのかと少し戸惑うのも事実である。例えは悪いが、プロ野球ニュースで試合経過を見ているような感じだ。
後半はN響のまれに見る名演で、ワーグナーの音楽が3回席の奥まで轟き、フォルティッシッシモになっても美しさを維持するオーケストラと、ツボを抑えてアーティスティックに魅せる指揮のお陰で、充実した演奏だった。そしてマゼールがこの曲を、一切の休止を挟むことなくつなげた意図がわかるような気がした。通常、各劇の各幕で経験する長大なモノローグに付き合わされた観客は、睡魔や退屈感、それに座り続けることの苦痛に耐え偲びながら、さして変化のない舞台を見続けなければならない。だがその「儀式」のあとにやってくるのは、それがなければ到底得られないほどの、心の奥底からの感動である。これがワーグナーの「毒薬」だとすれば、マゼールはその「毒薬」の何%かを70分の管弦楽曲の中にも投与すべきと考えたのではないか。あれがなければワーグナーでない、と。
部分的にはどうしてあの音楽が出てこないのだろう、やっと出てきたと思ったらもう終わってしまうのか、と思うところが(特に前半部分)に多かった。少し端折ってでも、全体をつないでしまうこと、そしてオーケストラや聴衆が連続演奏に耐えうる興行的しきい値としての70分に全曲を詰め込んだ上で、音楽の自然な連続性を失うことなく、かつそれなりに感動的な構成・・・という離れ業は、やはりこのような天才系音楽家にしかできなかった、と思うことにした。
演奏が終わって秋晴れの中を渋谷まで下ると、改装したばかりのタワーレコードに行き当たった。演奏会を終えた人も大挙して押し寄せたのであろう、レジには長蛇の列であった。マゼールの指揮するベルリン・フィルの、この曲のライブ・ビデオが格安で売られていて、記念に買おうかとも思ったが、今日の演奏がテレビで放映されるだろうと思うと、それを録画すれば良いかと思って踏みとどまることにした。
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