その後御茶ノ水から新宿に出て高層ビルを眺め、原宿から代々木公園をかすめてNHKの前を通り、渋谷の公園通りを下る頃、雨は上がった。地下鉄で皇居前の広場に出ると、空は晴れ渡っていた。霞が関ビルの展望台(というのが当時はあった)に登ると、皇居と官庁街、それに国会議事堂が一望できた。私はここから見る東京が好きだった。
丸ではとバスの周遊コースを地で行くようなまわり方は、地方から出てきた一般の高校生の興味の対象からはかなりかけ離れていたが、それでも楽しかった。東京にしかないものを見るのが目的だったから、それはそれで良かった。そして夜には銀座を歩いた。浅草近くのホテルに戻ると、翌日の朝は早く出発する必要があり、狭いベッドで早く眠ることにした。
上野駅の常磐線ホームから土浦行の普通列車に乗ると、私たちはいわきを目指して北上した。土浦は当時、まだできたばかりの筑波学園都市の唯一の入り口で、駅前は新興地として整備中だった。ところどころ工事中の柵をよけて駅の裏手に出ると霞ヶ浦が見えた。水戸では時間が少しあったので、昼食をとったあと水戸城の跡地を散策した。誰にも邪魔をされず、気を使うこともなく、時間をアレンジして気ままに歩くことの楽しさを、このとき初めて満喫したのかも知れない。
車窓から深い青の太平洋が垣間見えた頃には、列車は福島県に入っていた。とうとう東北地方にまで鈍行列車で来たかと思うと感慨のようなものが湧いてきた。私の立てた計画では、いわき市の平駅から磐越東線に乗り換え、ディーゼル列車でローカル線の旅になる予定だった。ローカル線というのは、大阪生まれの私にとって、何か別世界の乗り物のように思えた。一日に数本しか走らない路線を行く鉄道というものに乗ったことはほとんどなかったからだ(大阪でも福知山線は当時そのような路線で、それで宝塚まで行ったのが唯一の経験だったか)。
磐越東線はローカル線としては地味な線だったが、遠くに雪を頂いた山も見えて夕日に映えていた。停車していくひなびた駅の情景は私の郷愁をさそった。だがしばらくすると通学中の高校生で満員の状態でとなり、3月なので外は寒く、従ってディーゼル車内は暖房によりとても暑かった。高校生の吸うタバコの煙で気分が悪くなる。都会と違って田舎の高校生は何食わぬ顔でタバコを吸っている。そのことが同年代としての驚きであった。
郡山で磐越西線に乗り換え、夜の磐梯熱海駅に着くと、まだ多くの雪が積もっていた。さらに雪が横殴りに舞ってくるので、温泉街を歩くこともできず、私たちは簡易保険の保養センター(その後、かんぽの宿となった)に直行。料理も美味しく、ふとんはふかふかだった。温泉にも入ったとは思うのだが、そのあたりの記憶はほとんどない。
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