2012年10月15日月曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第3回目(1983年3月)

5日に及ぶ鉄道旅行を初めて敢行した私は、とうとう「阿房列車」の旅の仲間入りをしてしまった。大阪に帰るとその2日後には、早くも次回の旅行へと向かったのは、今から考えると驚く。これは記録にそう書いてあったので判明したことである。ということは初回の旅行の記憶が鮮明で、2回目の旅行の記憶はほとんどない、ということを意味している。

2日後の外出は以前より計画されていた。その日は朝から、安土、彦根、それに長浜の各地を周り、城(址)をめぐる計画だったことだ。これは高校のサークル仲間と計画していた。その一人の鉄道ファンがいて、彼が私にそのあと大垣発の夜行列車に乗るのを誘ったのである。丁度いい時間に長浜で別れるので、そのあと米原へ出て夕食を取り、岐阜方面へ向かう。

夜行列車の出発まではまだ少し時間があったので、彼は東海道本線の支線である美濃赤坂行きの列車で終点までのわずか2駅を往復するという意味のないことを思い立ち、私もそういうふざけたことは好きな方だから、いそいそと同行した。夜の田舎の駅に降り立ち、何を見るでもなく来た路線を折り返す。彼はそれが楽しいと思っているのだろうか。私は不思議だった。なぜならちっとも楽しそうでないのだから!

彼は鉄道が時刻通りに動くことに喜びを見出す人だった。そのため遅れが生じたり、乗り遅れたりすることに嫌悪を示していた。彼とはその後何度か同じような旅行をしたが、そのように列車が動くこと以外に興味を語ったことはなかった。だが、その他のことに異常に喜ばれても困る。何も言わなければ、彼は私のとって好ましい同行人であった。お互い興味の対象に干渉することなく、ただ列車に乗り続けることになった。

誠に不思議な感覚のまま、夜行列車の友となった彼とは、まず東海道本線で東京駅に行き、それから中央線で長野県の辰野まで下る。その後、飯田線に乗って豊橋まで行き、最後には名古屋から閑散本線で帰阪するという、2日間としてはかなりの強行軍であった。

大垣発の東京行き普通夜行列車は、名古屋駅を深夜に出て、豊橋か浜松あたりからは停車駅が減る。その後、夜中の静岡駅で10分程度の停車時間があり、それがこの列車の最大の停車であったようだ。私がこのことを思い出したのは、この間に静岡駅のスタンプを集めていたからだ。10分程度の時間に、私は夜中の駅を走ってスタンプを押しに行ったのだろう。今考えると変なことをしていると思うが、同行者がいると荷物の心配をしないでいいので助かった。それに何時間も窮屈な社内にいると、体を動かしたくなるのだった。

早朝4時40分に東京駅に着くと、始発の中央線快速列車に飛び乗ることができる。高尾でさらに下り列車の乗り換え、甲府を過ぎ、3日前にも通った諏訪湖を眺めながら辰野駅にはお昼頃に到着したのだと思う。ここでさらに飯田線に乗り換える。豊橋までは5時間程度の旅だが、これには二度とやらないような強行な鉄道旅であった。

時刻表で見ると飯田線はその駅の多さで線路をくねくねとまげて記載してある。さらに驚くべきことに、その駅すべてに停車する1日何本かの直通列車は、各駅での停車時間がほとんどない。しかも駅の間隔は2分程度である。これが可能なのは、電気で動く電車だからだ。そして少し走っては停まり、また少し走っては停まる。まるで通勤電車のような感覚で5時間以上を乗る必要があった。

加えてその日は天気がわるく、渓谷を眺めているうちに雨が降り出し、満員の車内は蒸し暑くなった。前日からほとんど寝ていない私は、どのように過ごしていたのか今となっては思い出せないが、これといって楽しかった記憶もないので、相当疲れていたのだろうと思う。


豊橋駅で名古屋方面へ乗り換え、早く走る列車に感動したものの、さらにそこから亀山方面へと走るローカルな列車に揺られ(これは空いていた)、さらにそこから奈良までは、ディーゼル区間の淋しい旅行となった。こういう時同行人がいると嬉しいものである。彼とは学校のことや友人のことなどをいろいろと話し、夜の新今宮駅で別れた。高校2年を迎える前の、比較的自由な休み時間を、私は何とも不思議なことに費やした。旅行自体は阿呆列車そのものだったが、こういう経過を経なければその後も続く旅行好きになっていたかは疑わしい。家を離れて自由に行動していることだけが、私を旅行に駆り立てていたようにも思える。

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