
だが歌劇「ドン・ジョヴァンニ」はそこから始まる3時間のドラマで、しかもその音楽は、次から次へと溢れでて尽きることがない。豊穣で力強く、シンプルにして重みのある音楽の洪水、そして歌・・・。歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の魅力は簡単には語れない奥深さを持っている。
The Met Live in HDシリーズの今シーズン第2作品目。最終日に映画館に滑り込んだのは金曜日の7時過ぎで、すでに序曲が終わっていた。私はこの演出が「新演出」という触れ込みで、今や誰もが知る「ドン・ジョヴァンニ」となれば斬新で現代的な演出になるのではと期待していた。ところが私の目に飛び込んできたのは、古めかしい衣装に身をまとったレポレッロとエルヴィーラで、有名な「カタログの歌」が始まったものの、その雰囲気はこれまでに見てきたものとあまり変わらない。
演出はマイケル・グランデージという人だが、彼は2011年も暮れようとしているこの時代にあって、なおも作品に忠実に描こうとしている。これは増えてしまった新解釈の中にあってあえてクラシカルな雰囲気を見せようとした確信犯というべきものか、Metの保守的な聴衆に迎合したのかはわからない。だがこの有り触れた演出によって、本作品がなかなかの出来栄えであったにもかかわらず、歴史に名を残す評判には達しなかった点が残念である。
おそらくモーツァルトが現代に生きていたら、彼は相当斬新な演出を好んだであろうことは想像に難くない。ドン・ジョヴァンニを筆頭にいわゆるダ・ポンテ三部作には、それまでのオペラの伝統を打ち破る力が込められている。階級社会を前提とした陳腐でありきたりの展開こそ、モーツァルトが最も嫌ったものだろう。彼は勃興する市民社会の時代に呼応し、その息吹を作品に込めた。人間味あふれるストーリーと、それを単純なステレオタイプな解釈で終わらせない見事な音楽こそ、彼が愛し、育てた音楽だったのではないか。管弦楽作品だけでは見えてこないモーツァルトの深い味わいは、オペラ、とりわけ中期の3作品の中に恐縮されている。
だとすれば、設定を現代に置き換え、今の現代人にとって楽しい演出こそ、私の、いや多くの聴衆の期待したものだったに違いない。けれども今回の演出はまったくその期待を裏切るものだった。最後のシーンでドン・ジョヴァンニが地獄に落ちるシーンは、本物の火が噴き出して見るものをあっと思わせたし、舞台展開の妙味というものもあっただろう。だが、私が期待したのはもっと過激な演出だった。
主役のクヴィエチェンはポーランド人の若手で、この役にはまっている。レポレッロ役というのがこれほど重要であるというのか、というのは私にとっての発見であった。もっともコメディックなレポレッロは、もしかしたらパパゲーノと同様にモーツァルトが愛したキャラクターかも知れない。
ドンナ・アンナの恋人ドン・オッターヴィオもよくわからないキャラクターだが、彼はラモン・ヴァルガスが手堅く演じ、そのベテランぶりは本上演を引き締まったものにしていた。騎士長のバスにはコツアンという歌手だったが、最後のシーンでドン・ジョヴァンニとの掛け合いは見事だった。これに比べてエロヴィラのフリットーリは、やや期待はずれ。
誰かが幕間のインタビューで、この作品は女性に好まれていることを述べ、男にとっての魅力は・・・まあモーツァルトの音楽そのものでしょうね・・・と言っていた。確かにそのような気がする。インターミッションの時に眺めてみると、これまで見てきた数多くの作品とは違った雰囲気がそこにはあった。若い、しかも女性が多いのである。あとカップルも多い。
やはり女性に好まれる劇なのだろうと思う。だが、その内容は一見女性を蔑視しているようにも思える。ダ・ポンテの三部作はそういうぎりぎりの勝負である。それにしても何故か惹きつけてやまない魅力が、この作品いやドン・ジョヴァンニにはあるのかも知れない。
それがどのようなものか、私なりに考えてみる。まずこのオペラには3人の女性が登場し、その性格は対照的である。もっともわかりやすいのは村娘のツェルリーナで、彼女は何のためらいもなく恋愛を楽しむ。結婚したばかりの旦那(マゼット)もそっちのけである。この楽天性はむしろ微笑ましい。
これに対し、ドンナ・アンナは複雑である。彼女は父親である騎士長を殺されたことも忘れないが、それにもまして倫理観に強い女性だ。婚約者(ドン・オッターヴィオ)の平凡さに我慢をしながらも、ドン・ジョヴァンニの魅力をどこかで認めているところが面白い。
けれどもドンナ・エルヴィーラの必死な姿に比べれば、この二人の恋愛に対する気持ちは軽い。ドンナ・エルヴィーラは本気でドン・ジョヴァンニに恋してしまっている。だからこそ要所要所で現れては他人に介入する。演じたマリーナ・レベッカはインタビューでこう答えている。「私の解釈では、彼女にとってドン・ジョヴァンニは最後の男性なのです。だから必死なのです」
これは作品論である。ドン・ジョヴァンニの作品に対する興味も尽きないが、モーツァルトの音楽に食い込むにはここでそれぞれの個性が音楽的にどのように表現されているかを知らなければならない。だがそのレベルでこの作品を理解するには・・・あまりにな難解である。音楽的知識を総動員して挑むには、モーツァルトの音楽は素人には敷居が高い。モーツァルトも一般の観客にそこまでを求めているわけではないだろう。だが、そのような多くの仕掛けがあって初めてこの作品が現代にも通じる魅力を保ち続けるのかも知れない。
今後はもっとたくさんの演出で見てみたい。そのようななかから作品を解く鍵に出会うだろうと思う。だが、どのような演出で見てもモーツァルトの音楽は同じだし、それに各幕の後半は、ストーリーなどどうでも良い音楽の大氾濫で、それにただ圧倒されるのみである。そのようにして毎回、モーツァルトの音楽の罠にはまってくような気がする。
代役のファビオ・ルイージの指揮は引き締まっていて悪くはないのだが、レヴァインだったらなあ、などと思うところもないではなかった。
(2011/11 東劇)
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