
だが有名な凱旋のシーンが早くも第2幕で終わってしまうのである。ええ?まだ物語は続くのに、このあとは何を見ればいいの?などと大学生の私は素人丸出しの気持ちで続きを見続けていた。ところが第3幕、それに第4幕が聞かせるのである。
翌年、私はロミオとジュリエットで有名なヴェローナの野外劇場の前にいた。8月となると猛暑となる北イタリアの小さな都市は、有名な「アイーダ」を見ようとする観光客であふれており、私も飛び込んだホテルに「privato(従業員用)」の部屋を特別にあてがってもらって、やっとのことでベッドを確保した。
古代ローマ時代に建てられた円形野外劇場はそれだけでも巨大で、ローマのコロッセオよりも大きいのではないかと思われた(実際にはコロッセオに次いで2番目の大きさだそうだ)。そこに詰めかけた何千もの観客が、幕が始まる前には手に蝋燭をともして開演を待つ。日が暮れからる夜の10時頃から始まるので、観客席が蛍の乱舞のように輝き、満点の星のようだ。舞台に指揮者のサンティが登場すると、早くもブラボーの嵐となった。
第2幕。その凱旋のシーンはこの劇場の半分を使った壮大なもので、大スペクタクル!登場する象や馬もその大規模な光景の中では大層小さく見える。階段上に何百もの兵士がピラミッド状に並び、決して座り心地の良くない席だったが、私は感激に酔いしれていた。
だが、この時も私は第3幕と第4幕の歌の美しさがとても印象に残った。その2ヶ月後、私はエジプト人の友人を訪ねてヨーロッパからカイロに渡り、本物のピラミッドやモスクを見て過ごしたのだが、彼の家にあったビデオテープが、実は彼が日本滞在中に保存したあの「アイーダ」で、私は再び本場で日本公演のアイーダを見るはめになったのである。 彼はクラシックなどはほとんど興味がなかったようだが、ことエジプトに関しては思い入れが強く、日本滞在中に買ったVHSビデオデッキに日本のコメディ番組などを大量に録画して帰国し、楽しくないエジプトのテレビを消して見ているようだった。
私のアイーダの体験は以上である。テレビでオンエアされたスカラ座公演(マゼール指揮)や、メトロポリタン歌劇場の評判の公演(レヴァイン指揮)は、録画して保管したが通して見たことはない。いやメトのものは第2幕までは見たが、野外劇場の思い出が強すぎて、劇場の中で行われる舞台の限界を好めなかったというのが本当のところであった。
ところが今回見たアイーダの公演は2009年のものだったが、どこかで見たことのある舞台だと思った。それもそのはずで、メトではもう20年以上も同じプロダクションだったのである!さすがに象は登場しないが馬は登場する。そして何百もの兵士や奴隷たち!この作品はアメリカ人に人気があるのだろう。だが本当はそのような舞台の壮麗さと同時に、見事な歌唱のオペラなのである。その本当のところを、今回改めて思い知った。
3人の主役級歌手は、みな実力派で体格も見事である。それだけでも迫力がある。すなわちアイーダのウルマーナ、アムネリスのザジック、そしてラダメスのポータである。ザジックは先日見た「イル・トロヴァローレ」でアズチェーナを歌った圧巻のメゾ・ソプラノで、何とこの役を250回も歌っているという。その円熟した安定感は、アイーダと張り合う闘志むき出しの表情である。
ラダメスは前のビデオではドミンゴだったが、私はドミンゴという歌手は特に晩年、何を歌っても同じような役に聞こえてならない。その点、ボーダのラダメスはいかにも葛藤の滲むエジプトの将軍でなかなかいい。ウルマーナは清楚なアイーダという感じではないが、まあ、エチオピアの王の娘ということでそれもありか。歌はさすが。第4幕の最後ではピラミッドの墓の中と外で二重の舞台が形成され、死後の世界は孤高の愛の姿へと昇華していく。
私はこの舞台を見て、ヴェルディの作品を一貫して貫くテーマに気付いた。それは「心の葛藤」である。初期のベルカント風作品も、「リゴレット」や「椿姫」に代表される傑作の多い中期も、そして「オテロ」に至る後期の作品も、それはほとんどすべての主役級登場人物に現れる共通した要素なのだ。どんな地位でも場所でも、葛藤に悩む人間の姿は悩ましく、不完全で、そして罪深い。矛盾した境地に陥った人間が悩む二律、あるいは三律背反に複雑な社会を生きる現代人が共感しないわけがない。ヴェルディの音楽は、それゆえに今日も愛され続け、そして上演されているのだ。
(2011/09 東劇)
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