2012年4月28日土曜日

N響の思い出③

1992年の春に就職とともに上京した私は、まだ試用期間だったというのに上司の目を盗んでオフィスを抜け出し、あこがれのNHKホールへと急いだ。新宿のオフィスからは程近い距離だったが、5時半の退社時刻から1時間30分後にはコンサートが始まった。指揮者はうるふ・しるまーガブリエル・フムラという人で、曲目はまだ聞いたことがなかったブルックナーの交響曲第6番だった。

馴れない会社勤めの疲れが頂点に達していたゴールデン・ウィーク明けの5月14日と日記には書いてある。私は演奏が始まると間もなく睡魔に襲われ、当時たった1000円だった三階席には客もまばらで私はかなり深く眠ったように思う。気がつくと第2楽章が終わろうとしていた。長い休止のあとで第3楽章が始まり、そしてそれは私のとって経験したことのない陶酔の時間へと変わっていった。この時の経験はいまでも不思議なくらいだ。それから終演までの数十分は、私にとってはじめてのブルックナー体験とでも言うべきものだった。

演奏が終わると深い感動に身が包まれた。しかしこのときの演奏が名演だったかどうかはよくわからない。客席からは疲れきったような盛り上がらない拍手が起こっていた。だが私に取ってこの時の演奏は、N響の思い出の中でもベストなもののひとつである。いずれこのときの演奏が素晴らしかったと言い出す人がいないか、心待ちにしている。

ブルックナーの名演奏は、あとひとつあってピンカス・スタインバーグによる第4番「ロマンチック」である。これは1994年9月14日で、アンドレ・ワッツを迎えてのメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番も聴いている。ここでの「ロマンチック」は、やはりシルマーとの第6番と同様の、ブルックナーの音楽に触れてたまに体験する大感動ものだったのだが、そこにいたすべての人がそうであったかどうかはわからない。

スタイバーグは、1992年の秋にも来日してスメタナの「わが祖国」やホルストの「惑星」などを指揮して私も大変に感動した。N響との相性はなかなかいいと思ったのだが、最近あまり指揮をしないのが不思議である。

ヘルベルト・ブロムシュテットは、N響の名誉指揮者のひとりだが、私にとってはシベリウスの名演が印象に残る。1992年10月31日で、交響曲第7番だった。

この他ではエフゲニー・スヴェトラーノフとの相性が良かった。それでこのコンビで1993年1月の定期演奏会には2回も出掛けた。最初がチャイコフスキーの交響曲第4番で、戦車のような演奏。続いてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番とカリンイコフの交響曲第1番を組み合わせた演奏会は、このコンビが残した白眉の一つと思う。ピアノ独奏はその後亡くなったシューラ・チェルカスキーであった。

シャルル・デュトワはこの頃から定期演奏会によく出演し、中でも記憶に鮮明なのは1994年6月の定期。サラ・チャンとのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に続いてショスタコーヴィッチの交響曲第4番が演奏された。この長い曲を見事に弾ききったN響の、演奏後のほっとした表情が忘れられない。客席は3階まで空席がないほどの盛況で、よく知っているなあと感心したのを思い出す。

1995年1月に阪神大震災が起こり、その混乱が続いていた頃、小澤征爾が何十年ぶりかにN響の指揮台に復帰して、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチを独奏に迎えてのドヴォルジャークのチェロ協奏曲などを指揮した。これは奇しくも追悼コンサートのようなものになったのは、運命の名せる技だろう。今はなき20世紀最大のチェリストは、満身の思いを込めて生きることへの思いを演奏に込めた。この時の特別な演奏会はテレビでも中継されたが、涙が出るほどの名演奏だった。

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