2012年4月12日木曜日

ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 ①ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団


「田園」は私が最も愛するベートーヴェンの音楽である。それはひとことでは語り尽くせない。とにかく私は「田園」が好きで、過去に何度もこの曲について書いてきた。自分の古い日記(は当然まだインターネットもブログもなかった頃に遡る)にも度々登場するこの曲、それをギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団により演奏されたCDを聴いた時の感想が残っている。少し恥ずかしいが、私がまだ20代だったことをお断りして、下記にコピーする。なおカップリングは第5番。これも名演である。

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思えばこれまで何度「田園」の名演レコードに感動してきたことでしょう。40年代のフルトヴェングラー、50年代のワルター、クライバー、60年代のクレンペラー、セル、70年代のベーム、カラヤン、バーンスタイン、デジタルの80年代はテンシュテット、と枚挙に暇がありません。しかしヴァントはこれらの過去の名演に勝とも劣らない結果を残してくれました。これは90年代を代表する名演となるのは間違いないでしょう。

「田園」の第1楽章の冒頭から考え抜かれた特徴的なパッセージで始まります。それはたった1小節で聴くものの心を掴むのに十分効果的です。続く主題のメロディーが少し遅すぎるのではないか、と考える人がいるかもしれません。しかし少したつとその完璧なまでの美しさに耳を奪われます。心地よい起伏が何度か繰り返されていくうちに、この演奏がやがてはどれほど見事なものに仕上がるかを想像してしまうことでしょう。「田舎に着いたときの愉快な気分」そのままの表現で、ドイツの風景が目に浮かびます。イタリア系の指揮者からはこの雰囲気が出てきません。ウィーン・フィルの明るい風景でもなく、ここはあくまで「ドイツ」なのです。

第2楽章でも完璧なまでの美しさが持続します。それはクライバーやワルターのような典雅なものではなく、非常に素朴です。バーンスタインのように人間味あふれるものではなく、飾り気のないものです。またカラヤンのように都会的(郊外的?)でもありません。しかしこれが無機的かというと決してそうではないのです。素朴だからといって古くはなく、むしろ大変新鮮です。オーケストラも第1級の技術で不足感など全く感じません。非常に自然で素朴で、それでいて新鮮で美しいのです。

第3楽章は木管の美しさに感動します。ここではしばしば「ドイツ的」とされる演奏にみられがちな「洗練のなさ」が当てはまりません。かつてのベーム盤がおそらくは最も対応されて論じられるべきでしょう。しかしウィーン・フィルとの盤ではむしろ「余分なもの」がベームの意図した表情を阻害した感が否めません。ブラームスやモーツァルトの晩年の演奏が、それ以前の録音に比べて「音楽が甘い」感じがするのは私だけではないでしょう。年をとって細かい指示が行き届かなくなり、オーケストラの技量に頼って指揮をするようになったのは、ベームのみならずカラヤンでも見られた現象です。しかしヴァントは違います。

第4楽章の「嵐」のシーンでそのことが明確に示されます。嵐は突如やってきて瞬く間に物凄い勢いで爆発します。しかしここでもまた、その迫力は過度の重々しさに陥ることはありません。第5楽章に入っていく部分に、この演奏の真骨頂があります。それは嵐が過ぎ去っていくにつれて徐々に、非常にゆっくりと、しかし確実に「感謝の気持ち」に変化していきます。主題がそれは美しい管楽器によって示されます。そしてそれに続く弦楽器の見事なまでの響き!この表情を何と表現したらいいのでしょうか。恍惚の気持ちが心地よい起伏を伴いながらも、一定のレヴェルで淡々と持続します。叩いても壊れることのない頑強さを内に秘めながら、しかもなめらかに喜びの気持ちが歌われるのです。

いまだかつてこのような見事な「田園」を聴いたことがありません。聴きおえて「ああよかった」と独り感じてしまいます。第5楽章の表現などは特にフルトヴェングラーやバーンスタインといった歴代の演奏とは違ったものです。そしてこの曲にかくも新鮮で見事な解釈を与え得たのは奇跡としか言いようがありません。そう、そういう演奏なんだよ、望んでいたのは!

この恐るべき「田園」の後に第5番が始まります。ああ何ということでしょう!そこでもまたヴァントの指揮は魔法のように心を引きつけるのです。

第1楽章の十分に激情的な表現と、おそろしくロマンティックなカデンツァ。そこでふと我を見つめるのです。しかし間もなく繰り返される「運命の動機」ここにはまぎれもなくべートーヴェンが存在します。正攻法的解釈がこれほど見事に表現されるなら、他の演奏は一体何だったんでしょうか?それは第2楽章と第3楽章で如実に現れています。

第4楽章。このおそらく最もべートーヴェンらしい音楽に私は何度感激したことでしょう。小澤征爾がボストン交響楽団と共に北京を訪れ、中央人民管弦楽団と合同演奏をしたときのこの楽章を雑音混じりの北京放送で聞き、それをテープにとっては毎日10回も聴いたものでした。メロディーが頭を離れず、短波の雑音とともにそれは私の脳裏に焼きついて離れませんでした。

以来何度かこの曲を聴く度に、私はあの時の感激を追い求めていたのです。しかし初恋を二度することができないように、フルトヴェングラーの47年盤、カルロス・クライバー盤、バーンスタイン盤、ジュリーニ盤などの超ド級の名演ですら、いや小沢のテラーク盤ですら二度とあの時の感激を味わうことはなかったのです。

しかし、このヴァント盤は当時小学生だった私の感動の記憶をその時と同じほどにまで思いおこさせるものでした。CDのような媒体に録音されたもののうちでは最も完璧に演奏された第5の一つであり、しかもその表現は正統的なものなのです。第4楽章はインテンポの表現で圧倒的な推進力が横溢しています。決して破綻を来すことなく、しかも極めて重厚です。もう何も言うことはありません。この演奏を聴きなさい。恐らくは今後少なくとも10年間はこの曲のベストであり続けるでしょう。

(1994年)

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