
「フンディンクの館にジークムントが辿り着き、疲れて倒れこむ。妻ジークリンデは強く惹かれあう・・・」ちょっと待った!これだからオペラのあらすじはわかりにくい。いや、そもそも「ラインの黄金」の話はどこへ行ったのだ?ヴォータンは?指環は?指環を奪った巨人は?
このような飛躍した話は、あらかじめあらすじを抑えておかないと理解することが困難だ。もちろん配慮はある。第2幕で長大なモノローグにより、これまでのあらすじがヴォータンによってとつとつと語られるのだ。だが、多くの場合、ここで睡魔が襲う。神々もこれには勝てない。そういうわけで、何が何かわからないまま第3幕に突入。有名なワルキューレの騎行の音楽に出会って「なかなかよかったわ」。もし初めてこのオペラを、外国に出かけるなどして字幕なしで見た場合、こういう結果になることは想像に難くない。
それで第2段階のリスナーは何冊かの本を買い込み、あらすじを予習することになるのだが、これがまた登場人物が多すぎてややこしい。冒頭のようなくだりである。しかも気のきいた聞いた解説書には、トネリコの木だの、ノートゥンク(剣の名前)だの、ヴェルズング族などとやたらドイツ語が登場し、しかもジークムントは自分の父をヴェルズなどと呼ぶ!
さらに詳しい解説書には家系図が描かれ、もはや登場しないラインの乙女たちの本名や8人のワルキューレ(女戦士)の名前、まだ生まれていないジークフリートまでが記される。しかも「示導動機」などというわかりにくい音楽用語まで登場し、ヴァルハルの動機だの、死の告知の動機だのと説明が続く。
これでもう嫌にならない人はいないだろう。もともとクラシック音楽は分かる人にはわかり、わからない人にはわからない、という性質があるので、わかる人ほどわからない人に冷たい。だから友人に助けを求めようものなら、やはりヴォータンの歌唱は50年代ハンス・ホッターに尽きる!などと言い始め、さらに混乱する!
というわけで私も、何度か見たこのオペラをどこまで理解していたのか疑わしいのだが、今日あらためて見て、わかりやすく書きたいと思う。
まず、標題となる「ワルキューレ」は定冠詞付きの単数形なので、これはブリュンヒルデのことだ。彼女は神ヴォータンの娘である(ちなみにヴォータンには何人もの女性との間に子供をもうけているが、そういうことは省略)。で、この物語は父(ヴォータン)にある時期から反抗し、やがて自立していく道を選ぶ女性の成長の物語である。ここに神の地位の失墜と人間の自由の獲得が現れているのではないかと思う。
私は女性ではないから、父親に反抗しながらも愛情を感じる気持ちはわかりにくい。だが子供を持つ父親としての気持ちはわかるようになった。ヴォータンを歌うバス・バリトンの歌手ブリン・ターフェルも3人の息子の父親だとインタビューで語っている(このインタビューアはプラシド・ドミンゴだ)。第3幕最後の父と娘の抱擁のシーンは、本作品最大の見どころだが、ここで私はやはり涙をこらえることができなかった。Met Live in HDシリーズを立て続けに12作品も見てきたが、そのような気持になったのは今回が初めてである。しかも良く見ると、無表情なまま身動きひとつしなかった隣のご婦人も泣いておられる。後ろからもすすり泣きが聞こえる。それくらいここは胸を打つ。子を持つ父親の心情の例として、この娘との別れのシーンは、舞台装置の回転や色の変化、それに音楽の盛り上がりが最高潮に達することと相まって忘れ難い印象を残す。この瞬間を見たくてここまで5時間も見てきたのだ、と一同が納得する瞬間である。
最高の場面について先に語った。テーマも押さえた。あとはそもそもなぜヴォータンが娘と別れなければならなかったのか、というところである。ひとことで言おう。ヴォータンの妻が強いからである。ヴォータンは最初は娘に味方していた。だが急にその方針を覆し、娘に逆の指示を与えるのだ。それは妻フリッカの説得に抗しきれなかったからである。神というのも実にたよりないもので、散々愚行を重ねた挙句、至極まっとうなことを言う唯一の登場人物に逆らえない。だが、このような人間臭いところがまた、オペラの面白いところなのかも知れない。
では娘と父が争った出来事とは何か。時系列を逆に見ていくと第1幕に行きつく。すなわち、ジークムントとジークリンデの関係である。この二人は一目見たときから運命の糸を感じ、愛し合った。このシーンまでが第1幕でここでのクライマックス、すなわち二人の抱擁シーンが前半最大の見どころである。
さて、この二人は実は双子の兄弟なのだが、その父は実はヴォータンなのである。こうなるからややこしい。ジークリンデは愛のない結婚を強いられ、悪くはないが冷たい夫フンディンクと生活をしている。愛がないとはいえ結婚であることには変わりがないので、ジークムントとの関係は不倫であり、しかも禁断の愛である。
当然争いが起こる。もともと属する部族が違い、それが対立関係にあるためジークムントはフンディングと争うことになるのだ。ここでジークムントに武器がない。その武器として、彼の家の庭にある一本の木に刺さった剣を抜いて使おうとする。この剣は魔法の剣で、かつてヴォータンが作って持たせたものだが、誰一人抜けなかったという逸話の代物である。
良く見ればペラペラな、のこぎり状の剣は、いとも簡単に木から抜ける構造になってはいるが、オペラなのでその剣を抜くまでに延々と何十分も歌い続け、音楽が盛り上がる。「ワルキューレ」の3番目の見どころはこの剣を抜くシーンではないだろうか。剣の動機が随所に現れ、寄せては引く波のようになかなかスカッと来ない。焦らされるのである。
今回の演出を私はどうしても初めて見た唯一のビデオ、パトリス・シェローが手掛けたバイロイト音楽祭の70年代のプロダクション(指揮はピエール・ブーレーズ)と比較してしまう。いまとなっては地味ながら、当時はその斬新さの先駆けとなり大いに物議をかもしたものである。
ビデオ監督のブライアン・ラージを追ったメイキング映像では、バイロイト祝祭劇場の客席が取り払われ、カメラワークを随分柔軟に検討したことに加え、舞台での上演であるもののビデオ撮影用のセッションだったので、やり直しのきくものだったようだ。ここがライヴの舞台収録とは違うところである。その時に見たトネリコの木から剣を抜くシーンなどは、余計なものを一切排除したシンプルな舞台が、結果的に小さな道具(剣)への集中度を高めたように感じられた。だから今回はそれに比較すると、やや焦点がぼけていたがそれは仕方ないことだろう。
ジークムントとジークリンデの2人の歌手は立派なもので、舞台の喝さいをさらっていた。双子であることを意識して、見事に息の合ったところを見せ付けた。Good chemistry.というのが彼らの良く使う言葉である。
第1幕では、ジークムントとジークリンデの2人が主役であるとすると、第2幕の主役はヴォータンとブリュンヒルデである。ここで標題役が初めて登場する。ブリュンヒルデを演じたのは、今回の新演出で初めて抜擢されたデボラ・ヴォイトで、私は先日「西部の娘」(プッチーニ)での熱演が忘れられない。開拓時代の肝っ玉女性という印象が強いので、なんとなくしっくりこない。だがメトとしては何としてもこの役は、長年活躍してきたドラマティック・ソプラノ、それもアメリカ人にしたかったのだろう。
ヴォイトは他の作品のインタビューなどにも登場するなかなか魅力的な人である。意外と小柄だが、単に可憐なソプラノではない。ブリュンヒルデも力の入った歌いぶりで、全力投球だった。ただそれがどこの部分にも強く出過ぎて、ここ一番強調されるべきシーンが浮き立たない。それが目立ったのがジークムントを退治しに来てジークリンデとの恋に心打たれ、心変わりをするシーンである。「運命を変える」という彼女のパッセージは、もう少し引き立っても良かった。逆に言えば、それ以外のシーンは抑え気味であって良かった。
第2幕の長いモノローグはヴォータンの見せ場である。ターフェルは圧巻である。彼と妻のフリッカを歌うステファニー・ブライスは当たり役で、その歌はあまりに強すぎて、嫌みはないが他の役を煽っているかのごときである。第2幕は地味で長く、他の部分と比べると少し眠くなるが、それも後半になると美しい部分が出てくる。
そして第3幕。8人の乙女が長いブランコのような坂の上にまたがって一人ずつ歌いながら下りてくる。騎行のシーンである。ワルキューレたちの歌声がここでは圧巻だ。この最大の見せ場は、もっともエキサイティングである。だが実は裏切った娘を追いかけるヴォータンにつかまらないようにと逃げ回るシーンだ。総勢9人ものソプラノがわめくシーンは、好き嫌いがあるようだが、冷静になって見てみればどうということはない。むしろそこからヴォータンに会い、いろいろなやりとりをする会話のシーンこそ真骨頂である。ターフェルの見事な歌唱が、初出演のブリュンヒルデを見事に補っていた。抱擁し接吻を交わすシーンに至って、胸に込み上げてくるものがあり、ワーグナーの壮大な音楽と相まって指環前半の頂点を極める。舞台はそのまま山の中へ。冬の雪山をイメージした高い風景には、時折3D雪崩も起こっている。火の神ローゲがブリュンヒルデの周りに火を放つと、たちまち辺りは火の海に包まれる。「マシン」が回転し、荘厳な柱が何本もできる。ブリュンヒルデを守る火は、そう簡単に超えることができない。たがひとり勇敢なものが現われて、彼女に会いに来る人がいるかも知れない。その人こそ、助けたジークリンデのお腹にいる英雄、すなわちジークフリートなのである!
5時間半に及ぶ映画館は満員であった。3週間の間に12作品を見たが、もうこれでしばらくはいいだろうと思った。フランス物に始まり、ベルカントとヴェルディを経てワーグナーにたどり着いた。私にとってこの夏は、壮大なオペラの歴史をたどる大いなる旅でもあった。
(2011/09 東劇)