会社のビルを出て西新宿の街に出てみると、歩いている人が多いものの、普通にパチンコ屋はやっているし、居酒屋は呼び込みをしているし、一見普段とは違わ ない光景だった。が、地下鉄の改札へ下りていくと多くの人が座り込んでいて、電車の再開の目処は立たないとのアナウンスが流れている。東京中の電車が止 まっていた。私は、田町までの徒歩を覚悟していたので、再び地上へ出て明治通りを渋谷方向に歩きだした。
道ははげしく渋滞し、歩道は人であふれていたが、整然と歩いている光景は変な感じだった。千駄ヶ谷から神宮球場の前を通って外苑前に向かうあたりは交通量もまばらで、時折寒い風が吹き抜けてゆく。イヤホンからラジオを遮って携帯電話が着信し、初めて妻と話すことができた。

この日は実は東京タワーも点灯していた。乃木坂で日が暮れ、六本木ヒルズの下を通って麻布十番に差し掛かったところで、ラジオの緊急ニュースは福島原発 (最初は第二が先だったような気がする)において冷却機能が失われ、総理大臣が避難の命令を下すとの情報が入った。私はただならぬことが生じていると思っ た。
保育園にて子どもを確保し、自転車でマンションに帰ったが、エレベータが一基しか動いておらず、ガスも点検中で止まったままだった。部屋はCDラックが倒 れた程度で損傷はなく、私はガスが復旧するのを待ってお風呂を入れ、テレビを見ながら食事を取り、そして妻の帰りを待った。
津波の被害はやはりテレビで見るとものすごいものがあった。しかし深夜に帰宅した妻の最初の言葉は、原発における炉心溶融についてだった。海 外のメディアはこの時点で、原発の事故がメルトダウンの可能性のあることを伝えていた。死者の数の増え方は、阪神大震災の3倍程度だと直感した。最終的な死者は2万人を超えると思った。もし、原子力発電の機能停止が続けば、東京が放射性物質に汚染される可能性がある。私の高校の同窓会のMLで、お互い無事を確 認しあった際、福島第一原発に温度計を納入している同級生がいたことがわかった。
電話をもらった彼によれば、放射性物質の拡散は風向きによるとのことだった。3月の東京は、冬型では北西の風が、春型では南風が吹く。これは大変ラッキー なことだと思った。もし避難命令が出て、その区域が拡大することになると、これは一大事だと思った。けれども、何も情報がない中で最初の1日が終わろうと していた。お風呂の水をそのまま抜かずに、私はラジオを耳元において熟睡した。
(2011/4/15)
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