2012年3月28日水曜日

東日本大震災の記録:読書ノート(1)

震災後に発生した原発事故に関しては、その後、数多くの本が出版された。私が読んだ本を記録しておく。



2011年5月28日 広瀬隆「福島原発メルトダウン」(朝日新書)

我が国のテレビや新聞が真実の報道をしないなか、3月11日に起きた東京電力福島第一原子力発電所の大事故については、いよいよ書き下しの書籍が発行され始めた。そのような中でひときわ目を引くのが本書であった。本書の良さは、現在進行形の事故よりもむしろ、原子力発電全般にわたって平易な記述がされていることであり、一番知りたいことを教えてくれるところがあるからだ。

そもそも原子力発電が、単なる湯沸かし器であることを今回始めて知った私だったが、そういう無知な私でもこれまでの、いわゆる「反原発」派の発言には半分程度は真実であると思われるものの、あとの半分は誇張ではないかと思っていた。けれども今回の事故を受けて、これらの人々の言ってきたことが決して誇張ではなかったことが実証されたと言って良いだろう。

本書を読み進めると、原子力発電所が次々と建てられていったのが1970年代であって、その時の耐震基準が非常に低く、さらに津波をほとんど想定してこなかったという、恐ろしい現実がわかる。そしてさらに怖いことは、原子力発電所から出る放射性廃棄物の行き場がないことだ。青森の六ヶ所村の記述には戦慄を覚えるのだ。飛行機事故と違い、何世代もの長きにわたってつけを回す原子力発電は、もうやめた方がいいと私は考えるに至っているが、そのことを裏付けるタイムリーな書物であると考える。

そもそも国策として始められたという原子力が、核オプションを残すことを目的としていたであろうことは、どこにも書かれていない。しかし、国策であったということは、いつどこで決まったのだろう。もし明確な決定があるなら、それ以降の推進派は今やみな責任者である。決定がないというなら、そういう民主的手続きを経ていない過程に対し、なぜ一般の市民が負担を負わねばならないのだろう。
国が発動する節電対策もおかしい。そもそも電力が足りないというのは嘘で(そのことは本書で語られる)、そうでなくても東京電力は、かかった費用の料金への上乗せ権と引き換えに、必要な電力需要を保証する義務があるはずだ。それが果たせないような会社には、即刻退場いただくのが筋と言うものだろう。

YouTubeで海外メディアのニュースを見ると、1号機と3号機の爆発が原理的に異なっていることが明確に報道されている。しかし我が国でそのような報道に出会ったことがない。本書はそのような詳細レベルにまでは踏み込んでいない。本書は事故を知るための本ではなく、事故をきっかけとして現在の日本の原子力発電の現状を概観するものである。広瀬氏の講演はYouTubeでも見られるので、併せて視聴すると考えが深まるだろうと思う。もはや必要な情報の乏しい日本の新聞やテレビ報道に接する必要性はかなり低いと思う。夏の電力不足が本当なら、テレビ放送こそ休止すべきだ。



2011年6月29日 小出裕章「原発のウソ」(扶桑社新書)

この数ヶ月間のニュースは、私たちの気分を決定的に変えたと言っていい。もはや政府の言うことはほとんどがあてにならず、そして個人の安全を守ってもくれない。政府が守るのは電力会社と、そして原子力行政のみである。その陰で被災者がどんどん死んでいく。ただちには影響のない我々も、やがては過去の大きすぎる負債を抱えて、もはやなすすべを失う。停電しても頑張って仕事をしようと言う向きもあるが、日本経済はもはや回復不可能な傷を負ってしまったのだから、何をあがいても仕方がない。

本書はそのような日本の原子力行政が、いかにひどいものかを書いたものである。小出先生は大阪にある京大原子炉実験所の助教だが、いわゆる「原子力村」の住民ではない。今では2人に減ってしまた熊取6人衆のひとりとして、これまでもずっと反骨の批判精神を展開してきたが、その彼がこんな形で注目されることを本人もわからなかっただろうし、期待もしていなかっただろう。

この本は売れているようだ。おそらく今もっとも知りたいと思うことが、丁寧に書かれているからだろうと思う。そしてその話には誇張がないと思うが、それでも戦慄を覚えるような話が続く。私はこの事件が起こってから原子力行政に興味を覚えたが、私はこの事件から得た教訓は、「原発のそばには住んではいけない」というものだ。そうとしか言いようがないと思う。

6月の終わりになって政治の収束も見えない中で、原子力行政がどちらに転ぶかは大変微妙なところである。しかし私は、いくらかの揺り戻しはあるにせよ、もうもとのようにはならないだろうと思う。想定外の地震や津波だったのかも知れない。だが、核燃料の廃棄場所がない、というただそのことだけで、この政策には根本的な問題がある。

私がこの本を読んだ理由は、実際には電力会社に対する感情的な思いからである。これだけの災害を発生しておきながら、その責任はあいまいなままである。刑事事件に問われてもおかしくないと思うが、ただの庶民にそのような権限はない。電力会社や電力事業がいかに欺瞞にみちたものであるかを少しでも知りたくて、それでこの本を読んだというのが正しい。私の思いは、少しは達成されたが、しかしだからといって何かが変わったわけではない。ただ、こういう本が次々と売れることで、「原発のウソ」が少しでも多くの人に知れ渡ることを願うのである。


2011年7月2日 宮台真司、飯田哲也「原発社会からの離脱」(講談社現代新書)

宮台真司氏の視点は、一貫して日本社会の抱える難点に注がれている。彼はそれを「悪い共同体」の「悪い心の習慣」という。これはどういうことか。ちょうど東京電力福島第一原発の事故が生じ、そこから原発を撤廃すべきか、存続させるべきかをテーマとした社会的論議が巻き起ころうとしている。そこで、原発社会を我が国はなぜ選択し、そこから抜け出せないのかを社会学的視点で議論してみようというわけである。

対談の相手は今や自然エネルギーの騎手となった飯田哲也氏だが、この本は原発を技術的に扱った本ではない。むしろ原発がやめられない社会の問題点を日本社会の本質的問題と捉えて一般化し、そこに解決の糸口を見出そうとしている。

私が注目したのは、そのような社会状況の中で、世界が70年代から徐々に知識社会へと向かい、その象徴がエネルギーの問題に集約されているという点である。ここから共同体自治を主体とした社会への転換が要であると説くのだが、では我が国の状況は、というともやは30年遅れだと嘆く。そして変革のチャンスだった民主党による政権交代が、どのように掛け声倒れとなっていったかを克明に説明する。

飯田氏はこれからの社会が、それでも変化を余儀なくされるであろうと説く。そしてその底流にあるのは、世代間の考え方の違いであることを明確に指摘している。私はエネルギーの問題が、今後は急速に広まるにつれて、このような「古い世代」の価値観が急速に後退していくと指摘している点に注目している。「それでもそう簡単ではない」とも言うが、「知の焼け跡」から復興することに期待を寄せる。

「飛躍するにせよ沈没するにせよ、大災害は当該社会の歴史的推転を早める」というところは、私がこの4ヶ月間に考えてきたことと全く一致している。日本社会を理解する上で、今ホットな原発の問題から提起している本書は、わかりやすくしかも、興味深い。

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