
そのような昔の聴き方はいつの間にか流行らなくなり、今では「ジャジャジャジャーン」という言葉も使わなくなった。ベートーヴェンの音楽も相対的に価値が下がった(というよりバブルがはじけた)という感じだが、ではそれに代わってマーラーの音楽を小学生が口ずさむようになったとは聞かない。モーツァルトやシューベルトも聞かない。今の人々はどのような音楽を聞いているのか、私は皆目わからない。
それでも自分にはベートーヴェンがある。他の誰もが聞かなくなっても、ベートーヴェンのCDを持っていれば終生困ることはないだろうとも思う。
第5番はそういうわけで、私がもっとも最初に聞き、馴染んだ交響曲である。初めて通して最後まで聞いた時の感激は忘れることができない。第2楽章の歌うようなメロディー、第3楽章の壮烈なフーガ、そしてピアニッシモからクライマックスに至る第4楽章!音楽が続いて演奏されるのがまた何とも新鮮だった。第4楽章がさらに繰り返される演奏に初めて接した時(それはレナード・バーンスタインのLPレコードだった)には、おおここがもう一度聞けるのか、と心底感激したし、いつ終わるのかわからないような長いコーダも、偉大な曲はこうやっておわるのか、と感慨ひとしおだったのである。
ドミソファミレドレド・・・とハ長調に転調した第4楽章は、こんなにも簡単なメロディーだ。この曲は全体を通して一切無駄のない骨格を持ち、それが完璧な造形美を形成する。ある本に「古典音楽の最終型」と書かれていたが、まさにそういう音楽である。だからどんな演奏で聞いても、ベートーヴェンの歌声に歓喜し、果てしなく続くエネルギーの湧出に狂喜する。私がこの曲のLPを貸した友人たちはみな、クラシック音楽ファンになった。そしてもう何度聞いたか知れないこの曲を、たまに何かの拍子に聞くと、そうだ、そういう曲だったのだ、と思いを新たにする。
ハ短調の交響曲には、そういう何か魂の根源的な部分に訴えかけるものを持っている。それが形式を重視した古典派の音楽としてなされてしまった以上、それ以降の音楽はこれを超えることが困難となった。ベートーヴェン自身がこの曲を「田園」と並行して作曲し初演したことは、興味深い。古典派の到達点と、標題音楽のさきがけとなった曲は、随分と趣が異なるが、表裏一体である。そのどちらの面においても画期的な作品を一緒に書いたベートーヴェンは、やはり大した才能と、そして野心の持ち主だったのだろう。
ケント・ナガノがモントリオール交響楽団でこの曲を指揮した時、「フランス以上にフランス的」なオーケストラにベートーヴェンの演奏経験を持つプレーヤーはほとんどいなかったらしい。だが新しく録音されたハ短調は、見事な推進力と切れの良い味わいでなかなか惹きつける名演と言える。「エグモント」などと同時にカップリングされ、朗読が挿入されたり、そこにやや政治的な意味づけをする意図はとても感心できないが、音楽そのものはなかなかの充実度である。最近第9が出て評判のようだが、最初にリリースされた第5番が最も魅力的に思える。
0 件のコメント:
コメントを投稿