2012年3月16日金曜日

東日本大震災の記録(6)

2011年3月15日(火)

私たちの心配とは裏腹に、息子は久しぶりに過ごす祖父母との日々を満喫していた。小学生の従兄弟が学校の卒業式でお休みとなり、その日を利用して友人たちと「キッザニア」に行くことになっていた。そこで我が5歳の息子も一緒にどうかと誘われた。

キッザニアとは子供向けの遊園地で、その空間では子どもの銀行が発行する通貨が流通し、いろいろな経験ができるということだった。私は自動車を運転して、平日の朝から甥や息子と出かけた。暗く、鉄筋で覆われた空間はFMラジオも入りにくい場所で、しかも騒音が大きく、何とも居心地の悪いところだったが、福島原発のもっとも修羅場となったその日を、私は甲子園球場近くにあるショッピングセンター内のこの施設で過ごす羽目になった。

ラジオはしかしながら、情報をふんだんに与えてはくれていない。政府もおそらくは発表するだけの信頼ある情報に接していなかったためだろうと思う。ということは、発表がなく静かな時ほど事態は進行している、ということである。その懸念は現実のものとなった。何と、2号機で格納容器が破損したというのだ。これで1号機から3号機で深刻な事態となった。

この時点で私はいわゆる「レベル6」くらいではないか、と考えた。破損後も核物質を空中高く舞いあげたチェルノブイリとは異なり、炉心は一応緊急停止している。その結果、残ったエネルギー量は数%以下ではないかと思われた。しかし今後冷却に失敗したら再臨界に達することが懸念されていた。そして、その時間は刻一刻と迫って行った。しかも3つの原子炉で同時並行するありさまは、まるで映画のようだ。

スリーマイル島の事故も私はよく覚えている。しかしこの時は早期に収束した。私は1995年、ペンシルヴェニア州の州都ハリスバーグを旅行したが、そこからほど近いところにスリーマイル島はあった。都市の近くにあるこの原発は、その後何十年にもわたって封鎖される。福島も冷却自体が数年、そして海水を入れた炉は廃止になることは確実で、しかもこの地域の立ち入り制限は、息子が年老いるまで続くだろうと思った。
チェルノブイリ原発の事故が起きたのは、ヨーロッパ旅行を計画していた矢先だった。当時はまだ東西に分かれていたベルリンの西側で、私は「牛乳は飲むな」などと警告がされていたのをよく覚えている。

大宮に住んでいたときには、JCOの臨界事故が起こった。この時も私はかなり心配したものだ。結局、原子力の行政は何の反省をすることもなく、愚行を繰り返していたことになる。東電が原子力に関する報告書を偽装していたのは、さらにそのあとだった。

今回の福島原発の問題は、誰に聞いても「人災」だと言う。それはおそらくそうだろう。同じ原発でも東北電力の女川原発は、ここがより震源に近く、しかも街は津波で壊滅的被害を受けたというのに、中に避難所まであるとのことだ。もし福島もこのように無事だったら、「日本の技術力はやはりすごい」ということになったはずである。だが、神は反原発の方に見方したのだろうか。

妻が実家でも最低限の仕事をこなすことを条件に会社から休みを取って、その週いっぱい再び帰省することになった。停電の影響で新幹線に乗り遅れ、18時過ぎになって乗れたようだ。22時に最寄りの駅へ迎えに行こうとしていたら、突如「緊急地震速報」が流れた。東京でも揺れていた。富士山の直下で大地震が起きたとのことだった。東海道新幹線も止まったが、妻は既に新大阪に着いていて、すでに在来線に乗り換えていた。駅で迎えた彼女は、駅弁も売り切れで何も食べていないということだったので、まだ空いていた餃子の「王将」に連れていき、遅い夕食をとった。安心した気持が食欲を刺激し、大いに食べた。

※下の写真は阪神・淡路大震災の時の神戸港。私が神戸市役所に務める友人を励ましに出かけたのは、震災から1カ月がたった頃だった。

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