2012年3月13日火曜日

東日本大震災の記録(3)

2011年3月12日(土)

翌日は静かな朝を迎えた。華やかさのない正月のように、街はひっそりとしていて、電車は動いていない。東京の混乱は続いていたと思われるが、私の住む家の周りは至って静かだった。

土曜日の我が家の日課は、5歳の息子をスイミング・スクールに連れていくことである。まさかやっていないだろうと思い電話をしたら、通常通りだという。都営地下鉄はダイヤを減らしながらも動いているようだ。それに何と言っても息子はとても元気である。つまりは休ませる理由は何もない(ちなみにJRは止まっ ていた。これは12日がダイヤ改正の日だったことと関係があるように想像しているが本当のところはよくわからない)。

妻は花粉症がひどく耳鼻科に行くという。こちらも医院長がひとりで対応していて、やはり診療を続けていた。そこで私は息子を連れて地下鉄に乗り、いつも通り水泳教室に出かけた。もちろんその間、ラジオを離さなかった。

NHKのように型通りの放送を繰り返すわけではない民放はどこも特別編成の番組を流していた。私は息子が練習している間中、鉄筋の建物内でも受信できるFM放送(確か東京FMだったか)を聞いていた。話が原発の問題に及んだ。圧力が高まり、ベントをするという話であった。放射性物質を大気中へ逃がす ことを意味するこのベントという作業は、うまくいったのかどうかもわからないまま、話は京都大学の学者へのインタビューとなった。おそらくその先生は、京大原子炉研究所の先生だった(あとでわかったのは、彼は反原発派の先生である)。彼はとんでもない事態が進行中である、ということを繰り返した。東京と福 島は200キロ以上離れているが、原子炉が大爆発を起こす最悪の事態となれば、影響が懸念されるというのである。

身の毛もよだつような話は、しかし今となっても、誇張ではなかったと思う。なぜならこの後、おそらく15日くらいまで、東京電力と原子力安全保安院はなす すべを失い、ただ見守るしかなかった、というのが定説である。後になればなるほど、この時の心配はむしろ正しかったと思われる。

私はふと思いついた。私のマンションから見える東海道新幹線だけは朝から全く平常運転だった。東京の他の路線はほとんど動いていない。昨日帰宅できず、会社で夜を明かした人もたくさんいる。私は耳鼻科から帰った妻に、打診してみた。もし今できることがあるとすれば、それはパニックになる前に東京を脱出する ことだ、と。しかも我々には帰ることができる実家が関西にある。もともと春休みを利用して1週間程度子どもと帰る予定をしていたので、それを少し早めてはどうか、と。

妻は保育園の母親たちと連絡を取り合っていて、その人たちの間でも日本政府が原子力の事故に対処できていないことを、主に外国のニュースを参考に騒ぎ始めていた。実際に外国人が次々と脱出するのは、もう少し後になってからだが、私は12日の昼の時点で関西行きを計画した。妻も私も、どんな批判を受けよう と、身を守ることを優先することにした。週末で仕事がないこともラッキーだった。家に帰ると、ものすごいスピードで荷支度を始めた。

大阪にいる弟は電気工学を専攻していたので(原子力ではないが)、一応はと思い電話して意見を聞いてみた。しかし彼は「寝ているしかないね」などと悠長な ことを言い始め、「まあ避難地域が拡大するようなことがあれば考える、という感じでいいんじゃないの?」などとのたまった。

だが、それは現実のものとなった。テレビをつけると避難地域が拡大することを報じていた。いよいよ来るべき時が来た、と思った。

その時だった。東京電力福島第一原発の1号機を映していたテレビの画面に白煙が映った!爆発だった!私は20時に予約した「のぞみ」の指定席を18時に変更するため、エキスプレス予約にアクセスした。

残った食材が無駄になるからと、妻が猛スピードでお弁当を作り始め、私と息子は最低1週間は過ごす予定で荷物をまとめた。戸締りをして家を出た。幸いタク シーが止まっていて、品川駅まで急いだ。すべりこみで乗った新幹線は、しかしかなり空いており、同じような子ども連れが少しいる他は気持ちが悪いくらいに 静かだった。

妻がスマートフォンで得た情報では、同じ保育園に通う息子の同級生のある家族は実家の三重に向かい、またある家族は沖縄へ避難したようだ。私は新幹線内で聞こえるNHKのラジオ第一放送を聞いていた。

19時半頃になって名古屋を過ぎるころ、官房長官の記者会見があり、この爆発が原子炉そのものの爆発ではなく、建屋における水素爆発であることを冷静かつ慎重に告げた。

この時ほど大きく胸をなでおろしたことはない。最悪の事態はひとまず避けられた。しかしなぜ建屋に水素が充満しているかの説明はないままだった。水素は燃料棒の被覆が溶けないと出てこないといわれている。あるいは水蒸気が超高温に熱せられた場合である。そしてそれはいずれも圧力容器内、少なくとも格納容器内の話ではないか。この時点で炉心が解け、それが外部へ出ていることが明白だった。

息子の保育園の親に東京電力の社員がいた。彼は柏崎の原発の再稼働を成し遂げて、家族を連れて2月に米国に赴任したばかりだった。しかしこのプロジェクトは頓挫するだろう。人生の転機というのはいつどのような形で訪れるかわからない。地震や津波で家族や財産を失った多くの人たち。そして原子力発電所の周りに住んでいて、避難を余儀なくされている人たち。数えきれないくらい多くの人の人生が、この数日で変わった。もし日本経済がこのまま沈んでいくことになれば、私の残りの人生もその影響を受けることは確かだ。そのような中でどこに住み、どこで子どもを育てればいいのか。そういうことも考えながら、あっという 間に新幹線は新大阪に着いた。

大阪に着いた時の安堵感は、ちょっとしたものだった。何事もないように大阪は私たちを迎えた。18年前の阪神・淡路大震災の時は、この逆だったな、と思っ た。様々なデマや噂、例えば天皇が京都に避難しただの、千葉の石油基地のか火災で、明日にも東京に灰の雨が降る、などといったことが丸で他人事のように感 じられた。


結局私は、自分の判断で脱出した。しかし、それは正しかったと思っている。なぜなら、繰り返し言うように、この間の政府はほとんど原発事故に対し、正しい行動をとっていないからだ(たとえば、海水の注入を始めるタイミングは遅すぎた)。私は東京電力と言う会社、そして日本政府がこのような程度の対応しかできないことを、ほとんど動物的勘で理解していたと言ってよい。何かあるたびにニュースを聞くことを趣味としてきた私にとって、今回の報道の裏に透けて見える「空気」には、このような恐ろしいものが感じられた。あるいは、私がすでに大病を患い、放射能や病気についてかなり神経質であることも影響しているだろう。だが、同じ行動を多くの日本人は取らなかった。私は不思議でならない。

※写真は初めて東北に旅行した際に、常磐線から太平洋を映したもの。北茨城市付近と思われる(1983年3月)。

(2011/4/16)

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