子どもを東京に連れ戻すため、関西へひとりで帰る。子どもはまたひとまわり大きくなったような気がした。
4月3日(日)
鎌倉に住む伯父の訃報に接する。この伯父はもう80代の高齢で、長らく闘病中だったが、実家が山形県の米沢だった。質実剛健という感じの伯父で、旧制高校の面影が残る東北大学を卒業した技術者だった。
私はあまり頻繁には会わなかったが、鎌倉に住んでいたため東京に来てからはお世話になった。古き良き教養人ながら、甥の私には圧力的なところがなく、古都に居を定めてからは、お寺巡りをして楽しんでいたようだ。
丁度、東京に帰るときだったので、大阪に住む叔母と同じ新幹線にのり、お通夜の段取りを確かめながら東京へ帰った。春休みということもあり、新幹線は通常以上の混雑であった。
4月5日(水)
その伯父のお通夜が鎌倉で営まれた。計画停電と震災の影響で火葬場の予約が取れず、葬儀自体がずれこんだ。久しぶりに会う親戚と、しばし故人との別れの時を過ごした。桜が満開で、通り抜けてゆく古都の風は清々しかったが、やはりどこか寂しげでもあった。
原子炉の周辺からは、微量のプルトニウムやストロンチウムなども検出される。そして事故の国際的な評価レベルが、それまでの5から7へと修正された。東電はその後、原子炉の溶融の可能性を認めるが、何をいまさら、という感じである。首相が「周辺は20年はもうすめないだろう」といったとか言わないとかで騒ぎになっているが、言い方に問題があったにせよ、内容には驚かない。
今起こっているニュースは、3月の中旬に想定していた範囲内である。そういう意味で、事態はおちついてきた。しかし震災から1カ月がたとうとしていた矢先に、大きな揺れが再び東日本を襲った。
東北地方に再び津波警報が発令され、東北の全域で停電した。深夜だったのでテレビを見ていたが、揺れているカメラは仙台の郊外で変電所のものと思われる電力ケーブルの発火をとらえていた。
問題は翌日にも停電が続いたことだ。停電域が大きく、しかも時間が長かった。私は詳しいことはわからないが、東北電力の管内も電力事情は綱渡り状態だと直感した。そしてもっと深刻なことは、福島や女川、それに東通の原発で、電源喪失状態になったことだ。このような余震が続けば、いまでも収束しない原発問題は、さらに深刻となる。幸い津波は来ず、停電も順次復旧したが、私はこの余震の停電で現在の脆弱さが浮き彫りになったと思っている。
東北新幹線は走行中だった列車が、3月11日の震災でも安全に停車した。JRは気象庁とは異なる独自の計測システムを持ち、それを列車にいち早く伝えることで列車を一斉に停車させたらしい。これはすごいことだと思った。今回の震災は、見るに堪えない人災を招いた一方で、「想定された」地震や津波に対処した数々の話が伝わっている。一度整理して発表してもらいたいものだ。

だからもともとあまり人が住んでいないし、住んでる人は津波の恐怖を心得ていたようにも思う。
だが、これらの美談に隠れて、数多くの人が死亡したり行方不明になったことを忘れてはいけない。多くの海岸沿いの街は、まちそのものが一気に流された。人口の半数以上が行方不明、という信じられない事態となった町や村は、1つや2つではない。そして日本中の海岸付近で、同じような規模の災害があり得るということだろう。
浜名湖に近い新所原だったかの関所のあったところに博物館があって、訪れたことがある。年表には260年の江戸時代に2回か3回の程度で、津波により流されていると書かれていたことを発見した。鎌倉の大仏にも大仏殿があったが、それが海に流された、とテレビのニュースは伝えている。日本中でこれから想定されるリスクに対し、一斉に見直しが始まるだろう。私の会社も、一部機能を関西地方に移す計画があるようだ。
※写真は青葉城から望む仙台市街(2005年)。
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