2014年12月30日火曜日

ホイアンへの旅-⑦ホイアンの夜


ホテルから町へと向かう無料送迎バスは、夕方の便で2台ものエキストラ車両を追加することとなった。町へと向かって走り始めると、普段は快走する田んぼの中の道が夥しい数のバイクなどで渋滞している。日が暮れかかる頃、ホイアンの町は近隣の村々から繰り出した人々で満杯状態となった。バスの運転手はとうとう途中で客を降ろすという非常手段に出た。私たちは何度も出かけていて慣れていたから、バスを降りて目的地へ向かうことに抵抗はなかった。途中、道端に出ている屋台でドーナツやパンなどを買い、食べながら歩いた。朝来た時とはまるで別の町にいるような賑わいだった。

歴史的な地区の一軒の家の一階で、地元の子供たちが民族舞踊を踊っていた。日本との友好を目的とした催しも開催されていた。「日本橋」のたもとでは子供たちがスイカ割りをしていたのだ。そして日が暮れると大勢の子供たちが、手に灯籠を持って観光客に近づいてくる。彼ら、彼女らは1つ1ドルでその灯籠を売り、観光客は長い柄を使ってトゥボン川へ流していた。私たちは自分の幸福を祈りながら、灯籠が静かに流れていくのを眺めた。無数の灯籠が川いっぱいに広がり、静かに流れて行った。私は「銀河鉄道の夜」に出てくる祭りの情景を思い出した。

満月の夜はあらゆる照明が消され、まさに月光のみで町は輝いていた。足の踏み場もないくらいに混雑する橋を通り、ようやく川向うにたどり着くと、そこでは今日もまた屋台が並び、そのうちのいくつかは大変美味しいベトナム風サンドイッチを作ってくれた。冷たく甘いベトナム・コーヒーが疲れた体を覚醒させる。私たちは帰りのタクシーを探しながら、またもや歩きに歩いた。本日2回目の町歩きは、ホイアン滞在の最後の夜であった。さわやかな風が吹き抜けて行った。満月に照らされたホイアンの町は幻想的であった。私は何か夢でも見ていたような気分で、短かった一週間余りの滞在を終えた。

2014年12月29日月曜日

ホイアンへの旅-⑥ダナンへ


魅力的なホイアンの滞在も何日かが過ぎ、一通りの観光も終わったので、私たちはお土産などを買う必要に迫られていた。ホイアンの町で買えるものは、いつも同じものであった。あれだけ多くの店がありながら、売っているものはどの店も同じものだったのだ。すなわち仕立屋、民芸品、ベトナム料理に使う香辛料やコーヒーなどである。それ以外のものを買おうとしても、どこにあるかもわからない。ある日私はビーチボールを買いに町中を歩き回ったが、あのビニールでできた、日本ならどこにでもあるような浮輪の類(はおそらくすべて中国製なのだが)を発見することができなかった。

つまり工業製品、それに流行の品々はどこにもないのである。

ホイアンの若者は、このような古い町に住んでいることを息苦しく感じているようであった。私たちが服や鞄やそういった少し高級なものを手に入れようと町中をさまよっていると、「ビッグCへ行くといいわよ」と仕立屋の若い女性が教えてくれた。ビッグCとはダナンにあるショッピングセンターだそうである。そして嬉しいことに無料の送迎バスがホイアンからも運行されているらしい。「私は毎週、でかけていたわ」とその女性はいいながら、観光地図に送迎バスの停留所を書いてくれた。そうとなれば是非行ってみよう、ダナンからはタクシーで帰ることもできる。そういうわけで炎天下の町をバス停目指して歩き始めのはいいのだが・・・。

行けども行けどもそれらしいものがない。道行く人にビッグC行きのバス停はどこか、と尋ねても「もう少しだ」「俺のバイクに乗っていかないか」となって、やがては「ノー・サンキュー」。ある中級ホテルのロビーで尋ねると、バスの便は少なく、ローカルバスで行くとよい、とのことであった。ローカルバスのターミナルは、そこからすぐ近くの幹線道路に面している、という風にその地図では見えたのだが、地図は観光地図で縮尺もいい加減、さらに郊外になると遠いところもすぐ近くにあるような書き方がしてあることに私は気付いた(あとでわかったことだが、やはりガイドの地図で一番すぐれているのは、日本語では「地球の歩き方」である)。

大変な暑さの中を家族3人が歩き、やっとたどりついた地元のバス停には、一台のオンボロバスが泊っていて、車体に張られたシールのアルファベットの文字から、そのバスはダナンとホイアンを往復するバスであることがわかった。時刻表を見ると1時間おきという風に見えたので、そういう場合は乗り込んでしまうのが確実な方法である、というバックパッカーの掟に従い、暑い車内に入った。やがて運転手や車掌、それによくわらない人々が三々五々乗り込んできていよいよ出発の時となった。

暑い車内に土埃が舞い込むのを防ぐため、バスは窓のカーテンを閉める。さらに道がでこぼこで常に時速20キロ程度の速さである。そしてこの速さだとダナンまでは1時間はかかると思われた。私たちは睡魔に襲われながらも、開けたまま走るドアから車外へ転落しないように注意していた。途中から道は少し広くなり、大理石を産出する仏教寺院の山(マーブルマウンテン)が見えてきた。ダナンはもうすぐであった。写真などをパチパチとっていたら、後ろから日本語で話しかけてきた若い学生風の女性がいた。「あなたは日本人ですか?」

彼女はホイアンで日本語を学びながら、ホイアンでガイドのアルバイトをしているとのことであった。私がビッグCへ行くと告げると、そこは彼女の家の近くであり、一緒に降りましょう、行き先を案内してあげますよ、と言うのである。そう言えば私たちは、どこで降りればいいのか見当がついていなかった。一応車掌風の太った中年の女性に「ビッグC」と連呼しておいたのだが、バスは繁華街を右に左に走り、確かにどこでおりたらいいのかわからない。

こういう旅行は何とかなるもので、私たちは彼女の案内に従い、ある地点でバスを降りた。彼女はビッグCへの行き方をカタコトの日本語で伝え、私は感謝を申し上げてわかれた。その地点から汚いところを10分程度歩くと、確かにビッグCはあった。もし彼女に会えなかったら、私たち家族はダナンの町でさらに迷っていたに違いない。

彼女はバスの料金のことを訪ね、私が払った金額を言うと「それは良心的な方です。よかったですね」と言った。あとで知ったことだが、何でも料金表のないベトナムでは、公共バスでさえも料金が不明瞭で、特に外国人には何割増しかの料金になることが慣例化しているようである。しかもその裁量権は車掌に委ねられている。いやもしかしたら車掌は、当然のように外国人からは多くを徴収しようとする。あたかもそれが観光客に課せられた義務であるかのように。

ビッグCはダナンにあるショッピングセンターだったが、我が国で言えば、中小都市にある西友かイオンのようなところであった。KFCというファーストフードがあったので、疲れた体にコーラを流しながら休んでいたら、ビル自体が暗くなった。それは数分続いた。つまり停電であった。この停電のおかげでエスカレータが動かなくなっていた。私たちはカートを引きづりながらスーパーマーケットの中をうろうろした。久しぶりに味わう都会の雰囲気であった。

入り口にたむりしているタクシーの一台と交渉し、帰りは多くの荷物を抱えて一気にホテルに帰り着いた時には日も傾きかけていたが、私たちはさっそく水着に着替え、プールで一泳ぎした。バス内で出会った彼女によるとダナンに暮らす日本人は数百人とのことであった。夜になると空に大きな月が現れた。満月は今週末とのことであった。私たちが帰国する前の日の土曜日の夜は、ホイアン中が灯籠祭りで賑わうとのことであった。私たちは満月の夜をホイアンで迎えることができるのを嬉しく思った。ホテルのそばの行きつけのレストランの中庭にある池でカエルを見ていると、息子は帰りたくない、みたいなことを言った。何もない夏の夜は、まさにそれゆえに、とても有意義で気持ちのいい時間であった。

2014年12月28日日曜日

ホイアンへの旅-⑤ミーソン遺跡

チャンパ王国の遺跡は、今でもベトナムに点在している。その最大のものであるミーソン遺跡がホイアン近郊にある。ここは世界遺産として登録されている。あのすさまじいベトナム戦争経てもなお、ラオスへと連なる山岳地帯の入り口に、忘れ去られたように煉瓦を積み重ねて作ったような建物が残っているというのは私に大きなロマンを抱かせた。ぜひこの機会にチャンパ王国の遺跡を見てみたいと思った。

ミーソン遺跡に行くには、タクシーをチャーターするしかない。私はいつも行くホテルのそばの地元レストランで「ミーソン遺跡ツアー」を申し込んだ。朝の約束の時間になると一台のタクシーがホテルに来て(ベトナム人は時間には非常に正確である)、私たちを一台のトヨタ車に案内した。よく見るとドライバーはレストランの主人の弟のようであった。ホイアンの近郊を抜け川を渡り、途中高速道路を通りながら約40キロの道のりを走った。

ベトナムの農村風景をぐねぐねと走りながら次第に山のほうへ入っていくと、入り口に立派な博物館(は日本の支援により建設された)のゲートが姿を現し、そこで入場券を買うと、さらに狭い山道を通り殺風景な駐車場に着いた。大型のバスでやってくる韓国人グループや、HISの旗を持った日本人団体客などが早くも歩き始めていたが、それもお昼までで、一斉に帰ってしまう。なぜなら午後は、暑くて観光どころではないからだろう。私たちも駐車場から遺跡群に向かって歩きながら、うす曇りの天候であることに感謝した。

チャンパ王国は2世紀からベトナムに滅ぼされる17世紀まで存在したチャム族の王国で、交易で栄え、広く東南アジアに勢力を伸ばした。ホイアンはいわばその中心地であり、海のシルクロードの東側の起点にあたる。ホイアンの中心にある「日本橋」が造られた朱印船貿易の頃、日本人町が栄えたのもチャンパ王国の頃と言える。つまりホイアンは日本の東南アジアへのゲートウェイであった。そして興味深いことは、チャンパ王国の国教はインドの影響を受けたヒンズー教(及び後にはイスラム教)であったことだ。その聖地ミーソンの遺跡群は、シヴァ神を祀っている。日本にも近いこのような場所に、そんな文化があることを、恥ずかしいことにこれまで知らなかった。

ミーソン遺跡群にはただ朽ち果てた煉瓦の建物と、内部を改装して博物館風にしてある以外は、さほど見るものもないところであった。その煉瓦も土をかぶり草の生えたいかにも古そうなものから、新たに煉瓦を積んで色を塗り替え、観光地風にしたものまで様々で、どの遺跡がどういう意味を持つかは別途資料を読まないとわからない。だがここでも私は、エジプトのピラミッドやギリシャのデロス島でそうであったのと同様、余りの暑さに観光どころではなくなったというのが正しかろう。それでもわざわざベトナムにやってきて見たインド風の建造物は、仏教文化に興味のある私にとって貴重な経験だった。

緑濃い山岳地帯の中を歩きながら、蒸し暑さと雨季に降ると言われる豪雨、それにベトナム戦争で深く傷ついた遺跡群のことを思った。このような遺跡はゲリラ戦にとって格好の隠れ家となったが、それゆえに破壊された遺跡も少なくない。世界遺産でもなければひっそりと、それこそ見向きもされないような遺跡に囲まれ、そこの歴史が幾重にも重なって存在することの深みを思った。それは何か異様な感じでもあった。やはりここも、ベトナムを考えるときにいつも感じる複雑でとらえどころのないような何かを感じることとなった。

お昼過ぎにホイアンへ戻ってくると、そこにだけ多くの旅行者がいて賑わっていた。今もホイアンは世界中の人々をひきつけているが、それは大昔からそうであったように、様々な文化や習慣が入り混じりながらここの自然や文化に溶け込んでいたのだろうと思う。それがインドシナ半島の南シナ海に面した真ん中辺にあって、今ではベトナム社会主義国の中部に位置している、ということなのだろうと思う。

2014年12月27日土曜日

ホイアンへの旅-④ホイアン市街



タイに比べた場合のベトナムのリゾートの特徴は、何といっても風紀の良さであろう。あのネオンサインだらけのタイのリゾートには、いかがわしい店が公然と並んでいたりするが、社会主義国ベトナムにはそのようなところはほとんどない。ましてここが、近世の面影を残す交易都市となると、クーラーはおろか電気設備もあまりない。実際秋になると町中が水没するような洪水に見舞われるのだそうだ。そのような街に滞在する外国人は、タイと異なり健全である。自転車で付近を散策し、何カ月も滞在する。物価はタイよりも安く、従ってお金はないが長期に滞在したい外国人にはこれほど理想的なところはないだろう。

というわけでホイアンの町へは私たちは、ほぼ毎日昼か夜にでかけることとなった。最初は夕方までホテルのプールで過ごし、日が暮れてから出かけた。だが次第に生活のパターンが変わり、朝から昼にかけて街を歩き、昼過ぎにホテルに戻ってプール、夜はホテル近くの地元のレストランへ行く、といくパターンとなった。夜のホイアンはそれはそれでとても魅力的だが、ゆっくりとショッピングをするにはお昼も捨てがたい。だが日中の町はすこぶる暑い。

ホテルの無料バスが、1日4回往復していて、少なくて使いにくいという意見は多いものの、これを使わない手はない。少なくとも街へ行く際には、これを利用するのが便利である。実際バスの時刻になると、ロビーには毎日多くの人たちが集まってくる。多いときには臨時にタクシーを手配してくれて、乗合なので無料。ホイアンのホテル専用バスターミナルに到着する。ここから歴史的地区までは徒歩で10分程度である。その間も土産物屋やテーラーなどを眺めながら歩く。

ホイアンの中心部はそれ自体が観光地であり、入場券を必要とする。その入場券には博物館などの見どころに何箇所かはいることができるチケットが組み合わされている。ホイアンの中心部に足を踏み入れると、まるで時間が止まったかのような感覚に見舞われる。百年以上はタイムスリップしたような路地には、昔の街並みがそのまま残っている。けれどもその建物はほとんどすべて、土産物屋かテーラー、あるいはレストランである。町の趣を損なわないように気を使いながら、これらの店は多くの観光客を惹きつけている。

テーラーはホイアンを訪ねる際に、欠くことのできない訪問先である、ということを私たちはホテルからのシャトルバス内で知り合ったオーストラリア人姉妹から聞いた。彼女たちは毎年のようにここへ来て、靴やシャツをオーダー・メイドで買っていくというのである。私たちは彼女の推薦する店に行き、スーツ一着とシャツを注文した。勿論、数多くの生地が並べられ、採寸するための小部屋も並んでいる。その中でも最も有名なのが、Yalyというところで、ここはかなり手広くなっており品質はぴか一だが、地元の人に言わせるとめっぽう高いとのことである。それでも日本で同じことをするのに比べたら、大変お買い得と言える。それに旅の記念にもなる。縫製は確かで、ベトナムが世界中の衣料品の工場となっていることが頷ける。服や靴の仕立てには数日かかるので、再び店を訪れ寸法のチェック(直しが必要な場合は対応してくれる)、さらに受取りとなる。

ホイアンの町はそぞろ歩きが楽しい。昼、夜、最低2回ずつは訪れる必要がある。歴史的地区をはずれた界隈にも数多くの店やレストランがあり、それらはTrip Adviserによってランク付けされているので、いい店はどこも流行っている。私は郵便局に行くついでに、バーレー・ウェルと呼ばれる地元のレストランに出かけた。ここでは香ばしく肉を焼き、大量の野菜に巻き、ライス・ペーパーに巻いて食べる。つまり自分で春巻きを作りながら食べる。さしずめ手巻きずし感覚である。

ホイアンの町中にある市場は、訪れるべきナンバー・ワンの場所である。ここで料金交渉をしながら、あらゆるものが手に入る。香辛料やコーヒーなどである。そしてその中のレストラン(屋台のようなところ)で、大変に美味しいカオ・ラウという麺を食べることができる。市場の近くには歴史文化博物館、メインストリートを「日本橋」と呼ばれる来遠橋まで行く途中に、福州会館、貿易陶磁博物館などがある。これらに寄りながら、暑さで歩き疲れたら、川沿いのジュース屋で休みといい。サトウキビのジュースなどは一気に汗が吹き飛ぶ。ボートに乗らないか、と声を掛けられるがそれもまた楽しい。

「タンキーの家」は200年以上前に建てられた中国様式の家である。ここには今でも人が住んでいて、人の家に入る感覚で中を見せてくれる。私が行ったときには入り口におばあさんが横たわっており、そのそばでチケットを聞いてくれた。中には井戸や歴代の主人の写真などが飾られていたが、そのそばで子供がお母さんと遊んでおり、洗濯機が回っていた。

数日後ここの前を通りがかったら、隣の土産物屋が葬儀場になっていた。良く見るとあのおばあさんが亡くなっていた。その葬式は数時間後には終わり、もとの土産物屋になっていた。一人の人間がこんなにも自然に亡くなり、そして自然に弔われ、自然に時間が過ぎていく。考えてみれば、我が国でも少し前までは生と死がごく普通に共存していたのだろうと思う。そう言えばホイアンで毎夜のように行われる灯籠流しも、死者を弔うというよりは幸せを願う行為であるように思えてくる。おそらく両者は連続しているのだろう。実際、流す灯籠を1ドルで売る子供たちはみな、For Happy Lifeと言って寄ってきた。私たちは1つ買い求め、あの亡くなったおばあさんのために流した。彼女の、そして私たちの、これからの幸せな人生を願って。

2014年12月26日金曜日

ホイアンへの旅-③Palm Garden Resort

ホイアンの海側、南シナ海にトゥボン川の河口が広がるあたりに、高級リゾートが並んでいる。その一つが、今回私が滞在先に選んだPalm Garden Resortである。すぐとなりにはAgribankが経営するリゾートもあり、こちらはややローカルだがその先にはNam Haiなどと言った超高級ホテルもある。もちろんリーズナブルなリゾートもあって余分な贅沢を求めなければそのようなところで十分である。料金は10倍程度も違う。

Palm Garden Resortは5つ星ホテルということになっているが、タイやその他の国々の5つ星ホテルと比べるとその違いは歴然である。ここは4つ星クラスと思われる。だが私たちにはそれで充分であった。朝食も必要以上に豪華ではなく、プールも子供連れには十分広いし、すぐそばが海岸で、部屋は広くて奇麗である。私は沖縄の米軍基地内にあったスペース(VOAの中継所だった)を改装したJAL系のホテル、「JALプライベートリゾート・オクマ」に泊った時のことを思い出した。

私たちのホテルの選択基準は、今回も息子のための広いプールであった。子供が騒いでもいい広いプールのあることが第一条件。そしてPalm Garden Resortのプールは、やや変わった形をしており、その一部が子供用として浅く作られていて、広さは他のホテルに比べやや広いと思われた。プールでの日々は今回も忘れられないものとなった。夕方近くになると、泳いでいる人も少なくなり、私たちはプールの一角を占有してWabobaと言われるオーストラリア製のゴムボールを水面に反射させて遊ぶという、日本のプールでは考えられないような遊びを、今回も存分楽しむことができた。一方海は、南シナ海に面しており、波は適度に高く、そこそこ浅い。水も思ったよりきれいに見えたが、実際のところはさほどきれいではないと思う。ビーチ(クア・ダイビーチ)自体は白砂の海岸がどこまでも続き、海岸沿いを散歩すると海辺に面した大衆的なレストランが軒を並べていて、タイのような歓楽的雰囲気を好まない向きには理想的だろう。遠くダナンの町が見え、岬まで見渡せる。

もうひとつのリゾートホテル選びの基準は、ホテル近くの施設である。そしてこれは今回も当たりであった。私たちはホテル内の高価なレストランへは一切行かず、入り口付近に点在するリゾート客目当ての地元のレストランに毎夜出かけた。そのひとつGolden Fishはマスターの男性が片言の日本語を話し、しかも親切で美味しい。カエルの鳴く小さな池の周りで、私たちは毎晩、野菜のたっぷり入ったフォーやベトナム風春巻き、それにバイン・セオと呼ばれるオムレツを食し、ホワイトローズという地元の名物料理も楽しんだ。サイゴン・ビールを飲みながら、ツアーの申し込みをしたり、隣のテーラーに洗濯物を取りに行ったりしているうちに、私たちの素朴で優雅な夜は過ぎていくのだった。色ろりどりのランタンがつるされ、それが池に反射していた。月のあかりが夜のプールを照らし、もうすぐ満月であることを告げていた。

吹き抜けていく風は、夜であれ朝であれ、日本ではほとんど味わうことのできなくなった風であった。毎朝、私たちは朝食をとるレストランで、クーラーの入っていないテラスの席を選んだ。大きなオムレツと大量の野菜の入った麺、それにハムやチーズといった西洋料理をチャンポンに味わうこの国の食生活は、独特の味わいがあった。勿論あの甘くて濃いベトナム・コーヒーを添えるのは言うまでもない。暑い日差しも日蔭に入れば、吹き抜けていく風が快適である。そして今日もまたプール、昼食、プール、昼寝、夕食と続く贅沢な一日が始まると思うと、とても幸福な気分になるのだった。リゾートでの毎日は、この繰り返しにプラスして、少々の観光旅行というのが、ここ数年の私たちのパターンとなっている。

2014年12月25日木曜日

ホイアンへの旅-②ベトナムについて

私がまだ小さいころ「ベトナム」は2つあった。すなわち「北ベトナム」と「南ベトナム」である。学校の先生は「北ベトナム」がソビエトの支援を受けた社会主義国で、「南ベトナム」はアメリカの支援を受けた資本主義国だと教えた。私が熱中した短波放送のガイドにも、北の「ハノイ放送」(日本語放送もある)とは別に、サイゴンにはいくつかの米軍放送などがあると紹介されていた。

南北ベトナムは1960年頃から戦争(第二次インドシナ戦争、つまりベトナム戦争)を始め、それは1975年3月にサイゴンが陥落するまで15年にも及び、死者は500万人を超えた。アメリカ軍による枯葉剤やナパーム弾の使用は世界中の非難を浴び、従軍記者が撮影するベトナムの人々の、沼地を命からがら逃げる姿などを写した写真は、その凄惨を極めた戦場の様子をリアルに伝えた。反戦運動も広がりを見せ、徴兵されるアメリカ人の若者にも反戦ムードが漂っていく。


東南アジアはまだ貧困にあえぐ地域であり、高温多湿な上に衛生状態も悪く、交通や通信といった社会資本などはまだ整っていなかった。そのような国の中でもさらに、長期に及ぶ戦争により開発に乗り遅れた社会主義国ベトナムに、旅行に行くことができるようになる、などと一体誰が想像しただろうか。それも高級リゾートホテルに滞在し、西洋化された部屋でクーラーをかけ、カクテルなどを飲みながらビーチやプールで泳いだ後は、ショッピングを兼ねて世界遺産を訪ねるなどどいう、当時を少しでも知る者にとっては想像できないようなことである。だがそれが今や現実のものとなって久しい。

実際には私には、ベトナム戦争の記憶はほとんどない。むしろ私が驚いたのは、ベトナム戦争が終わった直後にもかの国は、今度は中国との間で国境紛争を起こし、さらにはカンボジアへ軍事進攻してプノンペンを陥落させたことである。一体、戦争はいつ終わるというのだろうか。私は中学生のころに見た、中越国境付近を取材した「NHK特集」の光景が忘れられない。中国から歩いて逃げ帰って来た女の子とその弟は、何もない国境の道に茫然と立ち尽くしていた。雨が今にも降りそうな蒸し暑い熱帯の中を、このようにして命からがら超えてくる難民は、その何年後かにはボート・ピープルとなって南シナ海に現れた。

今にも沈みそうな漁船に何十人という人々が乗り込み、行き先もわからないまま祖国を逃げ出す南の人たち。一体革命とは何だったのだろうか。その行き先に、日本もなった。日本経由でアメリカへ。そう言えばニュージャージーの郊外で南ベトナム出身の人が経営するレストランに行ったことがある。民主党議員の写真などが飾られたその壁には、祖国南ベトナムの写真が、懐かしそうに貼られていた。

私は2014年の夏に、生まれて初めてベトナムへ行くと決めたとき、その歴史について少し知っておこうと思った。それもベトナム戦争をはじめとする近現代史だけでなく、もっと古くからのベトナムの歴史についても、この機会に知ろうと思った。折しも南シナ海の領有権を巡る中国とベトナムとの争いが生じつつあった。万が一軍事衝突ともなれば、家族を危険にさらすわけにはいかず、私のベトナム行きもキャンセルせざるを得ない。それにそもそもベトナムという国は、一体どうしてそんなに戦争にさいなまれた歴史を経なければならなかったのか。私はそのほんのさわりだけでも知っておきたいと思った。

そうしないと、ベトナム旅行は楽しくないとさえ思った。やはり少し古い人間なのだろう。だが大きな書店でベトナム関連の本を探しても、やれ雑貨屋だのグルメだのとやたら写真入りで紹介された旅行ガイド(それはかえって私には違和感をもたらすのだが)しか見当たらないのである。特に若い女性にはベトナムは人気のようで、私のまわりにも行ったことのある人が何人もいた。彼女たちにベトナム戦争の話しをしても違和感が強まるだけである。私はベトナムの歴史について書かれた入門書として「物語 ヴェトナムの歴史」(小倉貞夫著、中公新書)と、比較的軽い読み物として古典的に有名な「サイゴンから来た妻と娘」(近藤紘一著、文春文庫)というエッセイ集、それから「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」で有名な小田実の著作から「『ベトナム以後』を歩く」(岩波新書)の三冊をまずは買い込んだ。

つまり私のベトナム旅行はベトナムの歴史を俯瞰することからスタートした。

ベトナムの歴史を知ろうとして私は、この国の歴史が、すなわち戦争の歴史であることを知ることとなった。もしかしたら戦争こそベトナムをベトナムたらしめるアイデンティティではないかとさえ思った。それはベトナムという国名が、中国による圧力の中で命名された国名であることに象徴的に現れている(「物語 ヴェトナムの歴史」の冒頭)。一方でベトナムは、常に中国に侵略され圧政に甘んじていたわけではない。中国から取り入れた文化を自らの文化に消化し、中国と微妙な関係を保った(この朝貢外交に関しては、朝鮮や琉球にも似たようなところがある)。その反作用としてベトナムは、カンボジア(クメール)や他のインドシナ諸国に対し、侵略を犯している。「北属南進」という言葉は、そのようなベトナムの、二面性を持った国際関係をズバリと言い表している。

ベトナムの歴史は、思うに4つの時代に分けるとわかりやすい。すなわち建国はしたものの中国に支配され続けた10世紀までの時代(何と1000年も続く)、独立国としての時代(1400年頃まで)、二回目の中国支配の時代、そしてフランスの植民地時代から現在までである。近代以降の植民地時代と独立戦争の歴史も、長い中国の圧政と抵抗の歴史の文脈の中で捉えると、より理解が深まるように思えた。このようにして私は、もともと北部に建国されたベトナムが、次第に南部を支配下に収めていく過程を知ることとなった。そして南部には、インドの仏教文化を受け継いだチャンパ王国なる国が存在していたことも初めて知った。

チャンパ王国がベトナムに滅ぼされていくと、ヒンズー文化に代わって北方系の仏教文化がベトナムに入ってゆく。タイとは異なる大乗系仏教がベトナムに栄えたのはなぜかという私の疑問は、ベトナムが直接的に中国の影響下にあったことを知ることによってあっさりと解決した。私が行く予定のダナンには、そのような複雑なベトナムの南北を分け隔てるハイヴァン峠がある。その北部にはベトナム最後の王朝(グエン朝)の首都がおかれたフエ(世界遺産)がある。フエはベトナム中部の代表的な観光地ではあるが、残念ながらベトナムの歴史においてはさほど重要な場所ではない。むしろ私が興味を持ったのは、ダナンから南に30キロほど言ったところにある古い町ホイアンである。ここは長年、交易都市として栄えた歴史を持っており、日本人町もあるという我が国にもゆかりのあるところである。

当時の街並みがそのまま保存されており、町自体が博物館と言ってもいい。トゥボン川に灯籠が流される満月の夜は、月光のみの明かりによって幻想的な光景に包まれる。町自体は数時間歩けば見て回れる大きさだが、私はこの地に8泊もしたので、昼夜を通して何度もここを歩くこととなった。大勢の観光客に交じって地元のお店もあり、天秤に野菜を入れて運ぶ老人などが普通にいたりして風情がある。最初の日、プールやビーチで過ごした私たちは、さっそくタクシーで旧市街の入り口に着いた。そこには様々な形のランタンが、色とりどりの照明をつけて店先に飾られていた。土曜日の夜、人々は大勢繰り出し、トゥボン川にかかる橋は歩くこともできないほどの混雑であった。

幻想的な夜のホイアンの町を歩くととても不思議な気分である。このような観光地が、少し前まで戦禍にまみれた社会主義国の片田舎に存在し、そこに大勢の国籍の人たち(それはありとあらゆる言葉を聞いた)がそぞろ歩いているのである。薄明かりの店内で甘いベトナムコーヒーを飲みながら、私はここが何世紀もの間、世界中の人々を受け入れ、交易で栄えたことを感慨深く思った。長い戦争の期間を経てようやくベトナムは平和を取り戻し、少しの経済的豊かさを持てるようになった。そのことをさりげなく楽しんでいるように、私には思えてくるのだった。

2014年12月24日水曜日

ホイアンへの旅-①到着まで


4月になって夏のバカンスの行き先をいろいろ検討していたら、ベトナム行きの安い航空券が目に留った。お盆の時期、土曜日のお昼に出発して、日曜日の夕方に帰国するパターンで、しかも直行便である。それで燃料費等込み往復6万円もしなかったと思う。私は即座に予約を入れた。

直行便の行き先は、ベトナム中部の都市ダナンである。ここへの成田からの直行便は、後になって知ったことだが7月に入って就航するということだった。航空券が安かったのは、あまり知られていなかったからだろう。だがダナンの近郊には町自体が世界遺産にもなっている魅力的な小都市ホイアンがある。ここのホテルに1週間滞在することに決めた。

直行便だから、初めてのベトナム旅行にもかかわらず、首都ハノイや南部の中心都市ホーチミンにも寄らない。もともとこれらの町にはビーチもなく、バカンスとしては余計な行き先である。それに対しダナンは町自体が南シナ海に面し、付近には美しいビーチが広がっている。8泊9日の滞在は同じホテルとし、空港からホテルなどへの移動はすべて現地でタクシーを拾えばいい。妻はさっそくベトナム料理の教室に通い、蒲田などにあるレストランへ出かけては魅力的なベトナム料理に舌鼓を打つような日々を過ごしながら出発の日を迎えた。

久しぶりに利用した成田空港第1ターミナルには、ベトナム中部へ里帰りするベトナム人の列ができており、やがて小さなエアバス機へと私たちは案内された。ダナンまでの飛行時間は5時間程度で、香港よりは遠くバンコクよりは近い。この時間は、日本から外国に行く便としては短いほうだが、飛行機の旅が歳とともに苦痛となっているな私にとっては十分に長い。だがそれも眼下に湿地帯の広がる大地を目にすると、ついにベトナムへ来たか、という感慨がわき起こった。ベトナムの上空を飛んだのは、初めてのヨーロッパ旅行で香港からバンコクへと向かった時だった。1987年のことである。雲の中から青く長い海岸と深々としたジャングルの森林が見えた。かつてここで激戦が行われた、あのベトナムの大地であった。それもすぐに厚い雲に覆われて、私はメコン・デルタもシェムリアップ湖も見ることはできなかった。

ダナンの空港は意外にも新しい建物だったが、大きさは伊丹空港と同じくらいで雰囲気も似ていた。ただ土曜日の夕方だというのにあまり人はおらず、私たち家族は薄暗い到着ゲートをくぐると、暇そうな銀行で少々の現金を両替しタクシーを探した。タクシーはすぐに見つかりメーターを倒して出発。バイクが渦巻くダナンの町を駆け抜けていきながら、ここは20年くらい前のバンコクのような感じなのだろうか、などと推測した。ロータリーのある広い道を何度も曲がり、近代的な橋を渡ると海沿いの広い道へ出た。高級ホテルや保養地が並ぶ一直線の道をホイアンまで約30分である。

日はもう暮れていた。やがて私たちはPalm Gareden Resortという5つ星ホテルに到着した。引き抜けの広いロビーでチャックインを済ませ客室に案内されると、連日徹夜続きだった妻はぐったりと眠ってしまった。私と8歳の息子はプールのそばにあるレストランで、フォーと呼ばれる野菜入り米粉麺の軽い夕食(すこぶる美味しかった)を済ませ、カエルの鳴き声を聞きながら部屋に戻った。猫やヤモリも大勢いて、ねっとりとした空気が私たちを覆った。浴槽のシャワーが壊れたり水が漏れたりといった一通りのトラブルに対処したら、私も深い眠りについた。暑いとは言っても東京の人工的な暑さとは違う。そして空気が濃い。波の音が聞こえてくるほどあたりは静かで余計な電気もついていない。だから日本の余分な贅沢をすべて脱ぎ捨ててきた気分だった。それはとてもすがすがしい気分でもあった。私はここで過ごす時間が、今日を入れてもたった8日間であることを、早くも残念に思うのだった。

2014年12月20日土曜日

チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」作品71(ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団)

クリスマス・イブの夜、パーティが開かれている。少女クララはドロッセルマイヤーおじいさんからくるみ割り人形をプレゼントされたが、兄フリッツと取り合いになり壊れてしまう。みんなが寝静まった夜、おじいさんに治してもらったくるみ割り人形は、人形の兵隊を率いてネズミの軍団と戦う。クララが投げつけたスリッパで勝利したくるみ割り人形は王子になっていた(王子は冒頭で呪われ、くるみ割り人形になっていたのだ)。王子はクララをお菓子の国に招待し、登場人物たちが踊りを繰り広げる。

このストーリーからもわかるように、チャイコフスキーが作曲した三大バレエ音楽のひとつ「くるみ割り人形」は、クリスマスの時期に世界中で上演される。私もこれまでの人生でたった1回だけ実演で見たバレエは、この「くるみ割り人形」であった(1995年末、ニューヨーク・シティ・バレエ)。

赤いカーペットが敷かれた劇場に着飾った親子連れが大勢見に来ていた。どの客もお金持ちに見えた。特にアメリカの女の子はドレスを着こみ、これから始まるおとぎ話を楽しそうに待っていた。私も今の妻となる女性とここに来ていた。観光客も大勢いた。ホリデー・シーズンのニューヨークはおそらくもっとも華やかな時期である。あの凍りつくような寒さにもかかわらず。

有名な序曲や行進曲は、このバレエを見たことがなくてもどこかで耳にしたことのある曲だろうと思う。それもそのはずでこのバレエ曲の中の名曲の数々は、作曲者自身によって組曲にアレンジされている。この組曲版「くるみ割り人形」は、コンパクトでとても親しみやすいため、録音の数も多い。そして何より現実的な問題として、かつて2枚組のLPやCDを買う予算のなかった聞き手にとって、この組曲はお手軽な入り口だった。だが全曲盤も今では1枚のCDに収まるようになった。

ワレリー・ゲルギエフがマリインスキー劇場管弦楽団(CDではキーロフ歌劇場管弦楽団となっている)を率いて1998年に録音した演奏がそのひとつである。この曲は他の演奏に比べ演奏時間が短いので、このようなリリースが可能だったのだろう。実際に踊る場合には、少し速すぎるのかもしれないが、そのようなことはよくわからない。私はそれでも全曲盤を、単に音楽を聞くだけの楽しみとしても好んでいる。

組曲版と全曲版とでは、曲の並び順が多少異なる。だが後半の第2幕において次々と登場する踊りがこの曲の楽しさであることには違いない。実際に見ても後半になると、知っている音楽が次々と出てくるので身を乗り出して見てしまう。バレエなど興味がなかった私でも、そうだったのだから。

下記に、その全曲版の演奏順を、組曲版で取り上げられている曲に★を付け並べておこうと思う。私が全曲版を好むのは、このような有名な曲に挟まれた曲にも味わいの深い曲があるということに加え、これらの有名曲が少しでも間をおいて、時間をかけて登場してほしいからである(それに「花のワルツ」で終わってしまうのも味気ない)。

チャイコフスキーは叙情的な音楽があふれ出る作曲家だった。音楽の近代化では遅れてきたロシアにあって、洗練された音楽性とやや陰りのあるメロディーがブレンドされている様は、聞き手を間違いな音楽を聞く楽しみに浸してくれる。管弦楽団のゴージャスな響きは、まさにクラシック音楽を聞いている気分にしてくれるのだが、かといってその雰囲気は素朴でもある。かつてロシアでは、もしかしたらとてつもなく寒い劇場で、みなコートなどを来て見ていたのではないかと思う。だから寒い日の夜の散歩に持ちだすにも心地よい。

この曲を初演したサンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場は、演奏に対する意気込みも並はずれたものではなかったかと思う。まるでこれこそ私たちの音楽ですよ、と自信たっぷりに演奏するかのおうな素晴らしい腕前を、優秀な録音が支えている。ゲルギエフの指揮もまたしかりである。この曲の録音には数多くのものが出ているが、その中でも屈指の演奏ではないかと思う。子供向けの音楽だと思うなかれ。この演奏で聞くチャイコフスキーは、大人にとっても、かつて子供だった頃に味わったクラシック音楽を聞く楽しみに満ち溢れている。


【演奏順】(★は組曲に取り上げられている曲)

1)序曲★
2) 第1幕
        第1曲 クリスマスツリー
        第2曲 行進曲★
        第3曲 子供たちの小ギャロップと両親の登場
        第4曲 ドロッセルマイヤーの贈り物
        第5曲 情景と祖父の踊り
        第6曲 招待客の帰宅、そして夜
        第7曲 くるみ割り人形とねずみの王様の戦い
        第8曲 松林の踊り
        第9曲 雪片のワルツ
 3)第2幕
        第10曲 お菓子の国の魔法の城
        第11曲 クララと王子の登場
        第12曲 登場人物たちの踊り
            スペインの踊り
            アラビアの踊り★
            中国の踊り★
            ロシアの踊り★
            葦笛の踊り★
            ジゴーニュ小母さんと道化たち
        第13曲 花のワルツ★
        第14曲 パ・ド・ドゥ
            ヴァリアシオン
            金平糖の精の踊り★
            コーダ
        第15曲 終幕のワルツとアポテオーズ

2014年12月17日水曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第6番変ロ長調K238(P:ピエール=ローラン・エマール、ヨーロッパ室内管弦楽団)

若干20分足らずのピアノ協奏曲第6番は、前作第5番よる2年余り後の1770年、ザルツブルクで作曲された。モーツァルトは20歳になっていた。この曲を聞いて最初に思うのは、こじんまりとした美しい曲だということだ。溌剌としているというよりは落ち着いた愛らしさがある。

特に第3楽章のロンドは私も特に好きで、何度かこの曲を聞くうち、第3楽章を何度も聞きたくなった。もちろん第1楽章の気品に溢れたかわいい音楽は、いつものようにピアノと管弦楽が完全なまでに予定調和的な交わりを繰り返す様に聞き惚れるし、第2楽章の、晩年の曲に比較しても劣らない上品さと静かさに、時のたつのを忘れる。それほど美しい曲である。

この曲が第27番の最後のピアノ協奏曲と同じ変ロ長調で書かれていることは、思わぬ発見であった。なんとなく雰囲気が似ているのだ。そして第27番(K595)は私にとって、おいそれとは聞けないモーツァルトの最高峰の曲だと思っている。まるで無色透明な中を蝶が舞っているかのような空間を想像する。

「自然」ということばが思い浮かぶ。ここで言う自然とは、野山や草木などの自然というよりはもっと生理的なものだ。そして何のてらいもなく音楽を紡いでゆくモーツァルトは、ここでもまた超人的である。第3楽章の入り方といい終わり方といい、何と形容していいかわからないのだが、その間に挟まれた中間的な部分にも、転調による色の変化が心地よい。時に聞こえてくるホルンの絡みが、これに味わいを加える。

さて演奏である。私はこの曲をエマールの弾き振り演奏で聞いた。オリジナル風の響きによってこの曲が通常考えられているようにもはるかに大人びた演奏になっている。 そして第15番、第27番とカップリングされているのは、上記のようにこれらの曲が同じ変ロ長調で書かれているからだろう。ピアノ協奏曲としては初期の作品でありながら、晩年にも通じる充実を見せていることを、またこの演奏は示しているように感じられる。

2014年12月10日水曜日

グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調作品16(P:ラドゥー・ルプー、アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団)

北欧のノルウェーには一度だけ行ったことがある。それもグリーグの生まれ故郷ベルゲンにまで足を運んだ。首都オスロから急行列車でスカンジナヴィア山脈を越える、世界でも屈指の観光ルートを通ってである。この区間は何としても晴れた昼間に乗車する必要があった。夜行でオスロへ到着し、そのままベルゲン行き急行に乗り継ぎ、フィヨルドを一通り観光すると目的地ベルゲンには夜遅い到着となった。

真夏の北欧は夜10時を過ぎても明るいが人通りはほとんどなく、しかも結構肌寒い。だが私はそのまま夜行列車でオスロへ戻る計画であった。北欧のホテル代は貧乏学生旅行者にとって、とうてい支払うことのできない高嶺の花で、夜行列車をホテル代わりにしていたのである。このようにして7日連続夜行という強行軍で北欧各国を駆け抜けた。いまから思えば無謀な旅行も、決して後悔はしなかった。その時はいずれもう一回来ることがあるだろう、という想定のもとでの旅行だった。だがそれは、北欧に関する限り、一生果たせそうにない。

そういうわけで私のベルゲンの思い出は、夜の駅のプラットホームだけという悲惨なものである。時間をかけて公園を散歩したり、魚市場へ出かけたり、そして少し離れたエデュアルド・グリーグ博物館などへ出かけることなどなかった、というわけである。

グリーグのピアノ協奏曲は中学生の時に音楽の時間に出会った。真面目に鑑賞あいた最初のピアノ協奏曲であった。なぜこの曲が数あるピアノ協奏曲の中から選ばれて教科書に載っているか、私にはわからなかった。友人とベートーヴェンやチャイコフスキーのピアノ協奏曲の方が、よほど印象的だね、などと言い合ったりしていたが、困ったことにこの音楽に関する知識を得ておかないと、テストで点数が取れないということだった。しかも音楽のテストには放送テストがあった。私はそういうわけで、FMからエアチェックしたこの曲の演奏をテープに入れて、毎日のように聞いた。

勿論私は音楽好きだったので、これは楽しい「勉強」だった。いや本当のことを言えば、ラジカセでグリーグのピアノ協奏曲を聞きながら、地理や歴史の勉強をするのが好きだった。このことがきっかけで私は「ながら勉強」族の仲間入りをした。以来大学生になるまで、私は勉強中にラジオや音楽を聞くことが習慣になった。そしてグリーグのピアノ協奏曲は、私の大のお気に入りの曲になった。

旅行ガイド「地球の歩き方・ヨーロッパ編」のノルウェイの章に、この曲のことが書かれていた。フィヨルドの断崖絶壁を、第1楽章の冒頭は表しているのだと言う。 なるほどそう言われればそういう気がする。ベルゲン急行を途中下車して、途中滝のある駅に停車しながら、ソグネ・フィヨルドの観光船が発着する深い入り江の小さな町に降り立った。見上げた崖は息をのむほどに圧倒的だった。

観光船に揺られながら、静かな深い海を進んだ。こんなに寒いのに日光浴をしている人がいる。それも誰もいないような岩の淵に、どうやって行ったのだろうというような狭いところで。白夜の太陽がまぶしいからと言っても、そびえる山に太陽は早く沈む。夜ともなれば人もほとんどいない寂しいところだろうと想像した。冬ともなれば日は山の上には登らず、日照時間などないような土地だろう。やがて私はまた誰もいないような小さな町に着き、置き去りにされないかと心配して早々に乗り込んだ乗客で満員のバスに揺られて急こう配を駆け上がり、ベルゲン急行の駅に戻った。

北欧の澄んだ空気と、静かで明るい光景が私の脳裏に焼き付いている。この曲を聞くと、さらにそこに寂しい叙情的な空気が漂う。毎日テストが近付くと、自室の部屋に籠って夕方いっぱいを勉強で過ごした中学生時代が思い出されてくる。第2楽章の雰囲気は、そういうわけで今でも胸を締め付ける。

私の昔からのお気に入りで、おそらく最初に聞いていたであろう演奏が、アドゥー・ルプーによるものだ。この演奏は今でも評価が高い。先日もNHKラジオ「音楽の泉」を日曜日の朝に聞いていたら、この演奏が紹介された。ルプーは一音一音を大切にしながら、繊細でそこはかとない叙情性が染み入るような演奏をする。アンドレ・プレヴィンの音楽に溶け込んだハーモニーと、絹のようなアナログ録音が実にいい。

今でもこの曲を聞くと、様々なことを思い出すのだが、不思議に懐かしいというものでもない。むしろあの畏敬の念をも抱かせるような大自然を前にしたときに感じる、自覚すべき人間の存在の厳しさのようなものを感じていた若いころの自分の姿を発見するのである。第3楽章のスケール感も、このことを一層加速させる。だからこれはやはり、大人になりかけの多感な中学生の頃に聞くに相応しい曲なのだろうと思う。

2014年12月6日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第5番ニ長調K175、ロンドニ長調K382(P:イエネー・ヤンドー、マティアス・アンタル指揮コンチェントゥス・ハンガリクス)

モーツァルトのピアノ協奏曲は第27番まであるが、そのうち実質的な最初の作品が第5番ニ長調である。この曲は1773年、モーツァルトが17歳の時ザルツブルクで作曲された。若書きの未熟な作品だと思ってはいけない。それどころかさすが天才の作品である、と素人の私でも言いたくなるほど、充実した作品であると思う。

後半の、特に第20番以降の作品が、歴史に名を残すとはまさにこういうことかと思うような溢れる先進性と類まれなる完成度、そして完璧な芸術性を備えているために、モーツァルトの初期のピアノ協奏曲はあまり取り上げられることが少ない(例外は第9番だろう)。けれども交響曲の初期先品とは異なり、これらの作品はどれ一つをとっても、モーツァルトの素晴らしい音楽を堪能できる。第5番にして早くもこんな作品を作っていたのだと改めて感心する。

思えばモーツァルトを聞く喜びの原体験は、このような作品だったかと思う。天真爛漫と言えるような楽天的な響きの中にもエレガントな才能を感じさせることで、非の打ちどころのない、丁度いい乾いた明るさを持っている。リズムは落ち着きながらも小気味良く滑らかにすべり、すべての和音は耳を洗うように心地よい。その音符は適度な度数を持って上がったり下がったり、その間をピアノが駆け抜けていく爽快感。お正月の朝のような新鮮な気持ちになる。

第1楽章のアレグロはまさにそのような曲だ。このような形容詞をここで書きならべてしまうと、このあとの作品で何を書くべきか迷うが、まあそんなことはどうでもよいだろう。とにかく次から次へとメロディーがあふれ出てくる若きモーツァルトの、屈託のない感性がとても心地よい。

第2楽章のアンダンテの、春の野原で戯れるような気持ちにしばし我を忘れる。音楽を聞く喜びとはまさにこういうことを言うのだ、などと考えながら。何の気取ったところはなくても、このような曲をスラスラと書けたというのは、驚くばかりである。

曲が曲だから、どのような演奏で聞いても素晴らしいに違いはないのだが、私のモーツァルトのピアノ協奏曲体験を深めた最初の一枚から、ナクソス音源の録音を久しぶりに聞いてみた。まだCDが高かった頃、モーツァルトのピアノ協奏曲全集は、私にはなかなか手が出なかった。ペライアも内田光子も、とてもいい演奏ではあるが、これらは発売直後で大変高かった。それに比べると一枚あたり1000円で買える新譜録音は衝撃的だった。

私はイエネー・ヤンドーというハンガリー人ピアニストの演奏する全集を、上記の理由から買うことになった。だがその演奏は予想に反して、大変充実したものだったのである。録音もいいし、伴奏と努めるオーケストラもまったく不足がないばかりか、下手なメジャー録音よりはるかにいいのである。 強いて言うならストレートな、さっぱりとした演奏である。それだけにモーツァルトの曲の良さが飾り気なく伝わってくるところに好感が持てる。ビギナー向けの全集ということである。初期の作品は、そういうわけでこの録音さえあれば、当面は良かった。

いや実はカップリングされた第26番K537「戴冠式」もめっぽう素晴らしい。「戴冠式」は晩年の作品ながら初期の作品のように気取らない作品なので、このニ長調の組合せは、この全集の中でもとりわけ完成度が高いような気がする。

第3楽章は再びアレグロとなって、ティンパニーも加わる充実した曲だが、モーツァルトはこの曲を大変気に入り、しかも後年、第3楽章を新たに作曲している。それがロンドニ長調K382である。この曲は独立した曲としても有名で、コマーシャルに使われたり音楽番組の開始音楽に使われたりしている。一度聞いたら忘れられないような曲である。パッパッパと刻むようなリズムはこの当時の流行だったのだろうか。そう言えばハイドンのこの頃の作品にも、似たような節の曲があったような気がした。


2014年12月2日火曜日

R.シュトラウス:管弦楽曲集(ロリン・マゼール指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

今年亡くなった音楽家の一人にロリン・マゼールがいる。私はマゼールの演奏を特に好んでいるわけではないが、悪くはないと思っている。そして過去に4回、生演奏を聞いているがそのいずれもが大変感動的で、こういう指揮者は他にいない。だからマゼールの死を知った時は、これでもう彼の演奏を聞くことはできないのか、と残念に思った。8歳の時に初めてオーケストラの指揮をしたという天才指揮者は、最近でも健康に見えたのだが、それでも老いには勝つことはできなかった。

マゼールの指揮したCDを、コレクションの中から取り出して聞いてみることにした。何枚か候補はあったが、リヒャルト・シュトラウス没後150年ということもあり、管弦楽曲集を取り上げることにした。このCDは米国でのみ発売されたドイツ・グラモフォンのDG Concetsシリーズの2005/2006年版で、ライヴ録音。ジャケットにはエイヴリー・フィッシャー・ホールの正面写真が使われており、演奏の後には熱狂的な拍手も収録されている。ニューヨーク・フィルの定期演奏会は通常、4回程度同じプログラムで演奏され、前日には公開のゲネプロまであるから、それらから組み合わせて収録したのだろうと思う。

 「ドン・ファン」の冒頭からマゼールならではの芸術的官能美が堪能できるが、生演奏ということもあって徐々に熱を帯びてくる。決して醒めた演奏に終始しないのは、この指揮者が実は実演向きであることを示している。けれども発売されるCDはスタジオ録音が多かった。しかも作為的とも思えるようなフレージングに人工的だと批判されたり、計算されすぎたアンサンブルに優等生的で教条主義的と言う人もいたが、そうだとしても私はマゼールのそのようなところが好きである。その真価が良く現れているのが、やはりリヒャルト・シュトラウスの演奏ではないかと思う。「七つのヴェールの踊り」でも「ばらの騎士」組曲でも、いろいろな意味でこれはマゼールらしい演奏であると言える。

そのマゼールを初めて聞いたのは、カーネギー・ホールにおいてフランス国立管弦楽団を指揮したときのことだったと記憶している。このときのメイン・プログラムはサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付」で、やはりアーティスティックな演奏。アンコールが二曲もあって、最後の「アルルの女」から「ファランドール」が聞こえ始めると、満面に笑みを浮かべたご婦人の客が印象に残っている。

2回目は大阪で聞いたフィルハーモニア管弦楽団のベートーヴェン・チクルスの一つで、交響曲第6番「田園」と第7番の組合せ。この「田園」の第2楽章以降の演奏は、舌を巻くほど見事で、私はすこぶる興奮したのだが、続く第7番がこれ以上ないような名演になったことは言うまでもない。アンコールの「エグモント」序曲に至っては、会場が割れんばかりの拍手に包まれた。今思い出しても体温が上昇しそうだ。

3回目は再びニューヨーク。ピッツバーグ交響楽団の音楽監督の最後を飾る演奏会にジェームズ・ゴールウェイを招き、彼にささげられた自作の曲「フルートとオーケストラのための音楽」を披露した。ゴールウェイはさすがで、マゼールの曲もアーティスティックで面白かった。「バルトークは名演奏だがやや生真面目か。この演奏会でこのコンビの有終の美を飾った」とメモに残している。

第4回目は昨年の東京でNHK交響楽団の定期公演。ワーグナーの「指輪」の音楽を自らが編曲し、70分を超える長大な音楽絵巻「言葉のない『指輪』」を披露した。このときの印象は以前にブログにも書いた。

このように見てみると、マゼールの演奏はいつも最高水準を維持し、しかもそれを実に多くのオーケストラと実現させている。売られているCDを検索してもマゼールほど多くの管弦楽団と録音を残した指揮者はいないのではいか。これはそれ自体、マゼールの才能のなせる技だと思う。マゼールはこのような指揮活動に加えパフォーマンスもうまい指揮者で、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは80年代とそれ以降にもいくつもの名演奏が残っている(1994年など)し、ニューヨーク・フィルの平壌公演などは記憶に新しい(この公演がハイビジョンで中継されたのには驚いた)。

さらに個人的にCDで忘れられないのはヨー・ヨー・マと共演したドヴォルジャークのチェロ協奏曲だが、この「オフレコではないか」と揶揄された完璧に計算的な演奏は、別の機会に取り上げようと思う。また戦後の巨匠が一人亡くなった。享年84歳。


【収録曲】
・ドン・ファン
・死と変容
・七つのヴェールの踊り
・「ばらの騎士」組曲


2014年11月23日日曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(P:クラウディオ・アラウ、コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

日曜日に早起きして快晴の都会を散歩する。吹く風はやや冷たいが、中高年を中心に多くの人が歩いたり、走ったりしている。私は手持ちの携帯音楽プレーヤーで、気ままに音楽を聞くために散歩している、と言ってもいい。他になかなか時間がないからだ。

このような美しい一日の始まりに、今日はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を選んだ。コピーして持ち出した演奏は、クラウディオ・アラウがピアノを弾き、コリン・デイヴィスが伴奏を務める高評価の名演で、録音は1984年となっているから今となってはもう30年も前のことである!それでも上手にデジタル録音されたこの演奏は、聞きごたえがあって素晴らしい。

どのように素晴らしいかは、古今東西の音楽評論家やブログなどで取り上げられているから、あまり多くを語っても仕方がないだろう。とにかくこの演奏は、ベートーヴェンの第4ピアノ協奏曲の魅力を、完璧に表現している。そのピアノ協奏曲第4番とはどのような曲か。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲には5つあって、その4番目のこの曲は、おそらく第5番「皇帝」に次に有名である。しかし第4番を「皇帝」以上に評価する人が多いのを私は高校生のころに知った。第5番の素晴らしさは言うに及ばないが、それよりもいい曲だと言うのである。そこで私は、当時家にあった演奏(ピアノ:グルダ、シュタイン指揮ウィーン・フィル)で聞いてみた。するとどうだろう、華麗なカデンツァで始まる明るい第5番とは対照的に、おごそかなピアノのソロで始まるではないか。

オーケストラの渋い伴奏は盛り上がりに欠け、長い第1楽章の間中、ピアノについたり離れたり。ベートーヴェンにしては随分おとなしい曲だなと思ったのである。その印象は第2楽章に入って、よりいっそう強固なものとなった。旋律があるのかないのか。主題は何か見当がつかない。結局どこを聞いているかわからないにの、いつのまにかオーケストラが早いメロディーを演奏し始めるではないか。第1楽章に比べてあまりに短い第2楽章がいつのまにか終わり、途切れることなく第3楽章に入ったのである。

第3楽章はなかなかいい曲だなと思った。何か新しい時代がはじまるような、そんな雰囲気に溢れている。そう言えばこの曲には個人的に、強い思い出がある。絶望の淵にあった20歳の冬、私は友人たちと酒を飲み、酔っ払って気がつくと家のベッドに寝ていた。その朝はとても早く起きたので、思い立って近くを散歩しようと考えた。まだ寝静まったニュータウンの実家を抜け出して見晴らしのいい公園に入り、日が昇るにつれて次第に赤みを増していく住宅街の、連なる屋根を見ていると数日前にラジオで聞いたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番のメロディーが、耳に鳴り響いたのである。

それは不思議な経験だった。何か新しい時代が来たような気がした。それまでの悩みが吹っ切れて、また第1歩が踏み出せそうな気がしたのである。以来この曲は、私に深い愛着を与える曲となった。特に第2楽章の、深く沈んだ沈鬱な状態から、おもむろに第3楽章のメロディーが流れてくる瞬間が、大好きになった。この時私の耳に響いた演奏は、FMで聞いたザルツブルク音楽祭のライヴ録音で、ピアノがポリーニ、アバド指揮のウィーン・フィルによる演奏だったと記憶している(ポリーニはベームとこの曲を録音しているが、後年アバドとはベルリン・フィルとの演奏がリリースされ私も持っている)。

私のこの曲への愛着は、上記のようにやや個人的な経験に基づいて形成されていった。以来この曲を聞くたびにその時の状況を思い出すのである。今では大好きな第4番であるが、ではその他のピアノ協奏曲がつまらないとは決して思わない。第一ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、5曲が5曲とも最上級の魅力を持っているので、そのランクをつけることなど意味がないのである。この第4番は他の曲とはまた違った魅力を持っており、それはピアノの表現の幅を曲ごとに拡大していったベートーヴェンの天才的偉業の成果である(交響曲やピアノ・ソナタ、それに弦楽四重奏でも同じことが言える!)。

ところでこのアラウによる演奏では、ピアニストの年齢が80歳を超えている。にもかかわらずその表現は実に質実剛健であり、かつ繊細でもある。そしてこの演奏の成功の大きな原因の一つは、コリン・デイヴィスによる低音を鳴り響かせた立派な伴奏とドレスデンの響き、そのピアノとの相性である。これほど遅い演奏であるにもかかわらず緊張感を失わず、同時にゆったり音楽に身をゆだねることのできる演奏は驚異的である。このことは第5番「皇帝」にも言える。この2曲がカップリングされたCDとしては、今もって決定的名盤の一つであると言える。

2014年11月19日水曜日

ハイドン:協奏交響曲変ロ長調Hob.I-105(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団))

ハイドン晩年の「ロンドン交響曲」へと進む前に、協奏交響曲を取り上げねばならない。この作品はホーボーケン番号においては、第105番目の交響曲ということになっているが、作曲年代から丁度第1期ザロモン・セットの前に聞いておこうと考えた次第である。だが実際にはこの作品は、ハイドンの滞英中に書かれ、演奏もされている。当時流行したスタイルで人気を博したことが、知られている。

協奏交響曲変ロ長調の独奏楽器を受け持つのは、ヴァイオリン、チェロ、オーボエ、それにファゴットの4つの楽器である。3楽章構成で書かれ、協奏曲に分類する評論家もいるようだが、まあそんなことはどうでも良くて、派手ではないもののしっとりと独奏が管弦楽に絡み合う様が、手に取るようにわかる作品である。

第1楽章は聞けば聞くほどに味わい深いが、第2楽章でもしっとりと落ち着いた静かな曲である。この時期の交響曲の壮麗で大規模な曲とは異なり、やはりこれは独奏楽器の扱いに主眼を置いた作品であることは明らかであろう。

レナード・バーンスタインは70年代から始めるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との蜜月時代に、古典派からロマン派に至るドイツ・オーストリア系の作品を一通り録音している。モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、それにマーラーなどである。だがここにまたハイドンも含まれていることを忘れてはならない。

バーンスタインの録音はすべてそうだが、ウィーン・フィルの重厚で艶のある響きを最大限に引き出し、独特のロマンチックな演奏が聴くものを新鮮な感動へと導いた。ユニークでストレートだが、それがまたバーンスタインの持ち味だった。ハイドンの一連の交響曲もモダン楽器全盛時代の最後の輝きを放っている。そのような演奏は、カップリングされている「驚愕」交響曲でもわかるように今となっては少しけだるいのだが、この協奏交響曲だけは少し事情が違う。独奏楽器が活躍する室内楽的な軽やかさは、それぞれの楽器の個性を自由に発揮させるなかに、ひとつのまとまりを形成している。それはウィーン風のハーモニーであり、それこそがバーンスタインがこのオーケストラに期待するものだったと思う。そういう意味でこの曲のこの演奏は、まさにバーンスタインとウィーン・フィルが見事に競演した、喜びに満ちた演奏である。

2014年11月17日月曜日

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(The MET Live in HD 2014-2015)

初心者向けオペラの筆頭に挙げられる「フィガロの結婚」は、実際のところ理解するのが難しいオペラだと思う。登場人物が多いうえに、話が込み入っている。とはいえこれは、たった一日のドラマである。誰も死なない。話が喜劇であるということと、あの天才モーツァルトの音楽が親しみやすい、というだけの理由でこの作品がわかりやすいか、と言われれば、私の経験上、違うと言わざるを得ない。

モーツァルトの音楽は、確かに凄いが、それをそう感じるようになるには、他の作品にも触れる必要がある。そしてヴェルディもワーグナーも素晴らしいのに、なぜモーツァルトがそれにも増して素晴らしいのか、と言われて簡単に答えられるだけの音楽的知識を有している人はそう多くはないだろう。モーツァルトの音楽は、古典派のそれであり、この時代のオペラには長いセリフが混じっている。ドラマと音楽が融合したのちの時代から振り返ると、やはり地味である。

加えて時代設定が少し古めかしい。ロココの様式を残す舞台や衣裳は、貴族的な趣味を有しているが、それが徐々に古めかしくもなっていく市民社会が勃興する時代に入っていく。その違いを理解できるかどうか。つまり予備知識がいると思う。それにソプラノが少年役を演じるという、いささかエロチックな設定もやや混乱を生じさせる。

というわけで「フィガロ」が前提条件なしに、すんなりと心に響くかというと、これがまたやっかいなことにイエスである。それほどにまで音楽が素晴らしいからだ。一度聞いたら忘れられないメロディーがいくつも出てくる。が、その音楽ゆえに、ストーリーやその背後に含まれる物語のテーマが隠れてしまう。人間関係があまりに複雑に展開するので、どこで心理が変わるか、といったところは、地味な舞台と長いセリフを丹念に追う必要があるが、実際のところなかなかその余裕がない。

前置きが長くなったが、メトロポリタン・オペラの今シーズンの幕開きを飾った新演出の「フィガロ」は、そういう意味で大成功だったと思う。歌手の素晴らしさということ以上に、演出上の新鮮さがまず心に残る。舞台は1930年代に設定され、さらにはこのオペラの持つ性的な側面が強調されたからである。そのことは演出を担当したリチャード・エア氏へのインタビュー(冒頭で紹介された)で本人の口から説明されている。

貴族的伝統と市民的自由の対立を描きつつも、男性対女性というもう一つの側面を強調することによって、現代人にとって身近な物語となった「フィガロ」の舞台は、回転装置を生かして隣の部屋や屋根裏までをも使った立体的なものとなっていた。つまり視覚的な工夫が多分になされ、動きが多い舞台に釘付けとなる。序曲の始まりから舞台は回り、各幕の場面が一通り登場すると、これがひとつの宮廷内で繰り広げられる、たった一日のドラマであることをわからせる。その巧妙さには驚きを禁じ得ない。

指揮はジェームズ・レヴァインで、何とMETにおける75回目の指揮だというから見事である。オーケストラの響きは会場いっぱいに広がり、メリハリがあってスピードも良く、この公演の成功の大きな要因の一つであったことは言うまでもない。実際私は、「フィガロ」の音楽をこれほどにまで深く味わったことはなかった。何種類もの全曲盤CDやDVDに触れ、実演でも接したことがあるにもかかわらず、である。それぞれの歌がどのように関連し、さらにその歌詞に即して音楽がどう変化するか、その細部にまで私は初めて手に取るように確かめることができた。

おそらくはライブ映像によって、細かい部分(例えば第3幕の結婚式では、テーブル上に並べられた皿やグラスにまで、大変凝ったものである) にまで目をいきわたらせることが出来た上に、字幕が付けられることによって、音楽にも自然と集中できたのであろう。

以上のように、視覚的な勝利とでも言っていい今回の上演には、レヴァインの音楽以外にも、さらに歌唱の面でいくつかの優れた部分があり、総じて言えば最高ランクに位置するものだったと言えるだろうと思う。その筆頭はスザンナを歌ったソプラノのマルリース・ペーターセンである。彼女は驚くような声ではないが、終始安定して美しく、さらには品がある。一方、第4幕でスザンナと入れ替わる伯爵夫人は、アマンダ・マジェスキーという人で、何でもMETデビューとのことである。第2幕の冒頭では緊張からか、少し硬さも感じられたが、後になるほど声の艶は増した。なお、この二人は年齢的な隔たりが小さいこともあって、第4幕のシーンは見ごたえがあった。

表題役フィガロは今回、バス・バリトンのイルダール・アブドラザコフであった。安定した歌声と演技だったが、ペーターセンと組んだコンビはやや熟年よりのカップルで、なんとなく新婚ほやほやの雰囲気に乏しい。一方、アルマヴィーヴァ伯爵を歌ったバリトンのペーター・マッテイは、いつか見た「セヴィリャの理髪師」で表情豊かなフィガロ役を好演した北欧の歌手だが、声に張りがあって見事だった。マッテイはフィガロを、アブドラザコフは伯爵を、それぞれ演じても良かったのではないか、などと考えた。

脇役にも十分配慮のある今回の公演では、特にケルビーノ役のイザベル・レナード(メゾ・ソプラノ)が白眉である。女性としても美しく長身の彼女は、ボーイッシュな仕草と歌いっぷりで会場を大いに沸かせた。

「フィガロ」を見るたびに思うのは、前半があまりに楽しすぎて、後半がよくわからなくなることである。だが今回の公演ほど、全体を通してたっぷりと音楽も演技も味わうことのできた公演はなかった。ひとつひとつのアリアの表情も、アンサンブルにおける滑稽なやりとりにも、何一つ飽きることがないばかりか、極度の集中力の持続が求められた結果、4時間足らずの上演が終わった時にはどっと疲れが吹き出し、家に帰るなり私は寝込んでしまった。美味しいものを食べた後では、もうしばらく何も食べたくなくなるような、そんな気分だった。

2014年11月15日土曜日

モーツァルト:オペラ序曲集(オトマール・スイトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン、コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

まだオペラをほとんど知らなかった頃、私のオペラとの接点は序曲集のLPだった。最初に自分の小遣いで買ったレコードが、ブルーノ・ワルター指揮のモーツァルト「序曲集」で、ここには厚ぼったいコロンビアの録音で、いくつかの序曲に加え、「アイネ・クライネ・ハナトムジーク」、それに「フリーメイソンのための葬送音楽」が収録されていた。

中学校が終わって地元の小さなレコード屋(それは小さなレコード屋だった)に出かけ、どういうわけかこのLP廉価版を買ってきた。友人と初めて針を落とした時の感動は忘れられない。このとき、私は「劇場支配人」や「コシ・ファン・トゥッテ」といった始めて聞く序曲の快活な魅力に取りつかれた。「フィガロ」くらいしか知らなかった私と友人は、このようにしてモーツァルトのオペラの世界を始めて体験した。

モーツァルトのオペラ序曲集は他にも数多く売られており、その後CDの時代になって買いなおしたものが、我が国でも有名な指揮者オトマール・スイトナーがシュターツカペレ・ベルリンを指揮したシャsルプラッテン盤と、デジタル時代になってイギリスの巨匠がドレスデンに移り、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したRCA盤である(もちろんワルターのも買いなおした)。

スイトナーの演奏は、思いのほか素晴らしく、曲が有名曲9曲に限られているが、収録すべき曲はすべれ収録されていることに加え、曲順が作曲順であることからごく自然に、モーツァルトの序曲の素晴らしさを堪能できる。スイトナーはいずれの曲も、オペラの序曲であるということを自然に表現しているように思う。だからあの有名なフレーズが静かに終わると、スッと幕が開いて第1幕冒頭の音楽につながっていく感じがする。そう、そのフレーズが流れてほしいと思うのだが、このCDは序曲集なので、次の序曲に移る。何とも残念な気持ちを抱きながら、次の序曲の素晴らしさに、一気に引き込まれていく。

東ドイツにおいてドレスデンとベルリンを股にかけたスイトナーは、存在こそ地味であったが大指揮者といってもいい存在で、NHK交響楽団にも何度も客演し、数多くのオペラの録音を残している。けれどもベルリンの壁崩壊後にはその活躍は一気に消失し、誰にも知られない指揮者になってしまった。丁度スイトナーがなくなった2010年頃に書いたくだらない文章が見つかったので、最後にコピーしておこうと思う。あと、スイトナーのモーツァルトで言えば、N響を指揮したレコードが売られていて、「ハフナー」だったかの演奏に親しんだ。これも懐かしい思い出である。

【収録曲】(スイトナー盤)
・歌劇『にせの女庭師』序曲
・歌劇『イドメネオ』序曲
・歌劇『後宮からの逃走』序曲
・歌劇『劇場支配人』序曲
・歌劇『フィガロの結婚』序曲
・歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
・歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』序曲
・歌劇『魔笛』序曲
・歌劇『皇帝ティートの慈悲』序曲


さて、このスイトナーの演奏は残念なことに、有名な作品の序曲しか収録されていない。まあそれでもいいと言えばいいのだが、もう少し、収録されていてほしかった曲がある。それで、第2番目の所有盤として、コリン・デイヴィスの演奏もまた私のコレクションの一つになっていることを書かねばならない。

この演奏はオペラの序曲としてよりも、ひとつひとつが独立した管弦楽曲のように演奏されている。だが決して手を抜いているわけではなく、まじめに、しかもドレスデンのオーケストラの魅力を引き出しているので、重厚感もあってなかなか良い。ただ惜しいのは、収録の順序が理解不能である点だ。これに対しては、CDプレーヤーで曲順を指定することができるし、iPodでもシャッフル再生が可能なので、どうにでもなるといえばその通りなのだが、わざわざモーツァルトの作曲順に並べなおして聞くほどのものでもないのでそのまま聞いている。「イドメネオ」が特に素晴らしいが、携帯プレイヤーにコピーしてイヤホンで聞くと、スイトナーの録音よりもやはり素晴らしいと感じる。

序曲集として売られているのは、他にもあるかもしれないがこれで十分だ。それよりもモーツァルトのオペラは、やはりこの序曲のあとにも、あの豊穣で才気あふれる音楽が、湧き出るように聞こえてこないとどうもしっくりこない。改めて思うのは、序曲集を楽しんでいた時代は、もうすっかり過去のものとなってしまったということだ。

【収録曲】(デイヴィス盤)
・歌劇『フィガロの結婚』序曲
・歌劇『バスティアンとバスティエンヌ』序曲
・歌劇『劇場支配人』序曲
・歌劇『ルーチョ・シルラ』序曲
・歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』序曲
・歌劇『にせの女庭師』序曲
・歌劇『後宮からの逃走』序曲
・歌劇『羊飼いの王様』序曲
・歌劇『イドメネオ』序曲
・歌劇『皇帝ティートの慈悲』序曲
・歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
・歌劇『魔笛』序曲

なおモーツァルトは全部で21曲ものオペラを作曲している。これでもまだ半分程度ということになる。

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NHK教育テレビで毎週日曜日に放送されている「N響アワー」は、私が子供のころからコンスタントに見ている数少ない番組のひとつで(いまひとつは「アタック25」である)、本日の放送は先日亡くなった名指揮者オトマール・スイトナーの追悼番組だった。

1989年が最後の来日だったとうことで、あいにく私は実演を聞く機会を持てなかった。しかしテレビやFMで放送される「いつもとは少し違うN響」に見 入ったことはよく覚えており、私もスイトナーのモーツァルトのCDは何枚か持っている。まだドイツが東西に分かれていたころ、東ドイツを代表する2つの歌劇場、すなわちベルリンとドレスデンの2つで代表的な指揮者だったこの人は、しかしその田舎風の風貌とドイツ物しか振らない姿勢で、いわゆるスター指揮者 とは一線を画した地味な存在だったと思う。テレビではブラームスの交響曲第3番やウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲が放送されたが、いずれもスイトナー の特徴がよく出た演奏だったと思う。それは指揮棒が動いてから少し経ってオーケストラが底の力を出す、という感じの演奏で、ドイツ風と言えば一言だが、ス イトナーの場合、音の線が水平にも垂直にもスッキリと前に出るので、聞いていて新鮮な気持ちになるのである。

この特徴が良く出るのがモーツァルトであったと思う。私のコレクションの演奏については、また別の機会に触れたいと思うが、テレビで見ていて印象に残ったのはブラームスの練習風景で、何でも「ブラームスは大阪的ではなく北海道的な曲なのです」と言ったシーンであった。

北海道出身の女性と結婚し、かの地を何度も訪れている大阪生まれの私にとって、この一言は何とも意味深長なもののように聞えた。それにしてもスイトナーとN響の組合せの、最後の演奏がもう20年も前だったとは驚きである。映像も録音も冴えないので、わざわざ録画する気は起こらなかったが、評判だったベートーヴェン全集 から「田園」のCDくらいはもう一度聞いてみたい気がする。

ハイドン:交響曲第92番ト長調「オックスフォード」(ニクラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)

第92番の交響曲は「オックスフォード」なるニックネームが付けられているが、ザロモン・セット、すなわち「ロンドン交響曲」には分類されていない。この曲はこの時期の一連の交響曲同様、ドニ伯爵の依頼によって作曲されたからである。だがハイドンはこの交響曲を、英国滞在中、オックスフォード大学から授与された博士号へのお礼として演奏した。それに相応しい風格と壮麗さをたたえた感動的な作品であると思う。

私はこの作品を、レナード・バーンスタインが指揮するウィーン・フィルの演奏(1983年)で聞いていたが、それはまことに堂々としていて、第1楽章の主題などは耳にこびりついて離れなかった。この演奏はビデオでも発売されているが、この時期の一連の演奏と同様、円熟実を増す米国人指揮者とウィーン・フィルの蜜月時代を示すものとなっている。ベートーヴェンを筆頭に、シューマン、モーツァルト、ブラームス、それに何と言ってもマーラーの交響曲全集を、何度ビデオやCDで聞いたかわからない。どの曲でも、それまでに聞いたことのない新鮮な響きが感じられ、ロマンチックでありながらも熱い名演が、ほとんどライヴで収録されていた。

そういう思い出に懐かしく浸りながら、私はほかの演奏にも耳を傾けていった。第91番で取り上げたカール・ベームによる演奏もまた、ウィーン・フィルとの幸福な一時代を想起させる名演奏だが、美しい音色と優雅なメロディー、それに少し田舎風でやぼったい感じがする以外は、これといって特徴がない演奏であるとも思えてくる。そのことも含めて、これはベームらしい演奏であった。

一方、サイモン・ラトルがベルリン・フィルを指揮して録音した演奏は、丸でローカル線から新幹線に乗り換えたようにスピーディーで、疾走する演奏はまた重厚かつ迫力があり、次の時代の幕開けを感じさせる。この曲の「お気に入り」はラトルで決まり。そう思いながらこのブログを書くことにした。

ところがここで私は、YouTubeという、今では音楽生活に欠くことのできなくなった動画投稿サイトにより、稀有の名演とでもいうべきライブ映像に接することになった。チェチーリア・バルトリを迎えて開かれたハイドンのコンサートの冒頭に、交響曲第92番が演奏されており、その部分の映像がアップされていたのを発見したからだ。指揮はニクラウス・アーノンクールで、自ら組織したウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが白熱の名演奏を繰り広げている。その集中力と迫力はすさまじく、見ていると手に汗がにじみ、体中が熱くなっていく。記録によれば2001年、グラーツでのライブ収録のようである。

この映像を見ていると、21世紀になってクラシックの大作曲家がいなくなっても、新しい音楽に出会うことはできるものだと思われてくる。その様子は感動的であることを通り越し、驚異的である。あらゆるリズム、そしてフレーズが、丸で魔法をかけられたように迫ってくるからだ。アーノンクールの演奏するハイドンは、数多くのCDがリリースされているし、そのうちの何枚かは私も所有しているが、こうやって映像で見ていると、限りなく多量の情報量が、私の五感を刺激してくれるのである。

BBCがこの映像をDVDでリリースしており、それを買うことでこの映像はより上質に再生できる。第1楽章の序奏から、インティメントに溢れた情感は豊かである。第1主題が提示されると、バーンスタインやベームの演奏とはまるで違った曲がほとばしり出る。うれしいことにその主題は反復され、第1楽章が終わるころにはもう圧倒的な感銘の中にいる自分を発見する。

第2楽章のやや長ったらしい音楽も、早めのテンポに独特のアクセントをつけることで、丸でアンティークの家具が磨かれてよみがえったようである。第3楽章に至っては、これほど興奮に満ちたメヌエットがあるであろうか。3拍子のリズムが怠惰なものに感じられなくもない他の演奏を凌駕していることは言うまでもなく、そもそもこういう曲だったのだ、と言わんばかりに説得性がある。

終楽章プレストに至っては、オーケストラの見事な技術と次々に繰り出される楽器の重なりに狂気する。アーノンクルールは要所を押さえつつ、ものすごい集中力でありながら、ときおり楽譜をめくるなど余裕も感じられ、その興に乗った指揮ぶりは映像で見ると楽しさ百倍である。

「オックスフォード」交響曲は、いよいよ晩年の大作「ロンドン・セット」に含めてもいい完成度を誇っている。だがそれも演奏によって、こうも表現が違うものかと改めて感じた。アーノンクールのような演奏家によって、この曲は再び息吹を与えられ、おそらくはそのことが、ハイドンの音楽の評価を変えてしまったのだ。

2014年11月5日水曜日

シューマン:交響曲第2番ハ長調作品61(ジュゼッペ・シノーポリ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

シューマンの交響曲第2番は、第4番のあとに書かれた交響曲である。この作品はシューマンの精神的な病いの中で格闘しながら作曲され、その精神状況が音楽に表れているという。だからそのような感情の起伏を表現した演奏が、よりロマンチックであり、そして時には痛切であるという。

だが私がそのような「基礎知識」を仕入れたのはずいぶん後になってからのことで、それまでに私は、交響曲第1番「春」や第3番「ライン」の、明るく快活な音楽がとても気に入っていたし、フルトヴェングラーのモノラル録音で聞く第4番の演奏は、まことに気宇壮大で迫力があり、ロマン派の音楽も後期に入るとこのような充実を見せるのか、と単純に感激していたものだ。

第2番はそのような経験を経たのち、比較的後になって聞いた記憶がある。全集で買ったCDの中で、随分地味な存在だったように感じたこの曲を、とりたてて深く聞いたことなかったのである。けれどもそのような交響曲第2番が、なぜかとても目立つ存在となった2つの演奏があった。

若くして倒れたユダヤ系イタリア人指揮者、ジュゼッペ・シノーポリはデビュー当時、ウィーン・フィルとこの曲を録音して、とても評判になったのがそのひとつである。若い指揮者(たしか記憶では29歳)がウィーン・デビューをすることはそれまでにもたまにあったが、よりによってシューマンの、それも交響曲第2番という曲を選ぶというのが、とても珍しく新鮮だった。その当時の録音のノートには、彼自身が精神医学の専門家で、シューマンの作曲当時の状況が音楽に反映したという分析が記されていたから、シノーポリの演奏は(やはり同じ時期に発売されたシューベルトの「未完成」と同様)、極めて個性的であるながら独特の説得力があったのである。

けれども私は当時、シューマンの交響曲をそれほど深く知らなかったし、まして第2番の演奏が「分析的」であるなどと言われても、もうひとつピンとこなかった。この演奏はむしろ、ウィーン・フィルのみずみずしい音色に感銘を受け、割に一生懸命演奏している(と思われる)真剣な姿が目に浮かぶようで、そのことがまず印象的だった。音にメリハリがあり、テンポも揺れるとはいえ、伝統的なロマンチックな演奏とも一線を画す演奏は、今ではさほど斬新さを感じないが、当時はちょっとした斬新な演奏だったと思う。

もう一つの第2交響曲の思い出は、バーンスタインが死の直前、札幌でこの曲を若者のオーケストラ相手に真剣な指揮をする姿をテレビの追悼番組で見たときである。涙を流しながらその第3楽章を指揮する姿は、シューマンの作曲当時の、まるで死の淵をさまようような感情を再現しているようで、恐ろしく痛々しく感じたものだ。この曲が好きだ、と語るバーンスタインのやつれた姿は今でも目に焼き付いているが、この作品はそんな気持ちにさせる作品なのか、などと思ったりしたのだ。

だがいま聞く第2番の交響曲は、私にとってそれほど深い痛切な痛みをもたらしてくれるわけではない。もし自分が生死の間をさまようような時に、この曲を聞いたら、もしかすると自殺しかねない状況に陥るかも知れない。が、シューマンは作品としての音楽を作曲し、メンデルスゾーンによってライプチヒで初演された。マーラーの後期作品を聞いても思うのは、いかに狂気じみ、時に死の淵にあろうと、作曲というような行為ができるうちは、まだ理性的であるというのが私の経験的な感想である。

だから私は、この曲を聞くことができる精神状態にあるときには、 この曲を普通の気持ちで聞いていたいと思う。シノーポリの演奏も若々しく、活気に満ちている。ウィーン・フィルの音色が見事にとらえられており、いま聞いても古い感じがしない。この演奏と、存在自体は目立たないが無視してしまうにはあまりにもったいないハイティンクの演奏が、私の現在のお気に入りである。

(シノーポリは2001年、ドレスデンで「アイーダ」を指揮中に心筋梗塞で倒れ、55歳の若さで亡くなった。マーラーやヴェルディの演奏で快進撃を続けていた矢先の突然の訃報であった。多忙を極めた末の過労死ではなかったかとささやかれた。マーラーも晩年、あまりに多忙でそのことが死期を早めたのではないかと思う。そう言えばメンデルスゾーンもまた、仕事のし過ぎであったと思う。これらユダヤ系の音楽家に共通するのは、寿命を縮めるほどに精力的であるという点だ。)

2014年11月2日日曜日

ヴェルディ:歌劇「マクベス」(The MET Live in HD 2014-2015)

松竹のホームページに「最近のMET史上最大の成功!」などと書かれているのを読むと、このエイドリアン・ノーブルの演出による「マクベス」は、METライヴとしても2008年の再演であるとわかっていても、これはもう見るしかないと思った。それはアンナ・ネトレプコがマクベス夫人を演じるから、という理由以外にない。そして前評判に違わず、私のMETライヴ経験の中でも屈指の名演であるばかりか、これは歴史的な「マクベス」の映像ではないかと確信した。

以下私は、今朝六本木のTOHOシネマズで見た「マクベス」について興奮冷めやらぬ感動を記載することになるのだが、 その感動は、指揮者のファビオ・ルイージが前奏曲を降り始めた冒頭から始まった。ルイージは、病気になった音楽監督レヴァインに代わってMETを指揮し始め、今ではその評価は板に付いた感があるのだが、そのルイージもここへきてMETのオーケストラを完全に掌握し、イタリア・オペラに相応しい統率力で、特には力強いトゥッティや、心に迫るカンタービレを十分に表現する力が付いていると思った。ところが、これはもしかすると、歌手たちの素晴らしさにこたえようと、指揮者、オーケストラ、それに合唱団が持ちうる限りの力を発揮しようとしたからではないか、と思うに至った。

それは第1幕でマクベス(バリトンのジェリコ・ルチッチ)とバンクォー(バスのルネ・パーペ)が歌う二重唱「二つの予言が的中した」で早くも明らかだった。いつもとは違う何か異様な雰囲気が、会場を覆っていた。第2場。ベッドでマクベスからの手紙を読むネトレプコが、登場のアリア「さあ、急いでいらっしゃい」を歌い始めると、私は脳天から竹割りをくらったかのように、全身が打ちのめされた。以後、第2幕が終わるまでの前半は、もうこの舞台がただの名演を超えた歴史的なものであるとさえ、思われたのである。

私はこの映像を、いつもの東劇ではなく、六本木のTOHOシネマズで見た。ところが予想に反して、ここの会場は満席に近い状態であった。おそらく前評判が高かったからろう。そしてそのプレミア・シートにはリクライニングが付いてるのだが、私はついにこれを使う気持にはなれなかったのだ。背筋を伸ばして聞き入れないと、何か十分に楽しめないような気がしていた。それほどこの公演の集中力はすさまじく、ヴェルディの書いた無駄のないドラマ性と迫力ある音楽に、ただただ圧倒されるばかりであった。

久しぶりにヴェルディを聞くと、食事制限をしたあとに豚かつを食べたような気分になる。溢れるメロディーと一糸乱れぬ合唱は、 まだベルカント時代の様相を残していて、高カロリーだが至福の気分にしてくれる。そのドラマ性重視の傾向が明確になる「マクベス」には、女性はただひとりしか登場しない。そして主人公はバリトンである。ヴェルディのオペラに一貫してテーマとなる心理的な葛藤と、男の弱さとでもいうべきものが、シェークスピアの原作によるものとは言え、ここでも明確に示されている。

ネトレプコの存在感は、第3幕以降になっても全く衰えることがない。だからこの作品はマクベス夫人こそ主人公である、という意見もあるくらいだが、それはおそらく違うだろう。ヴェルディが表現したかったのは、彼女の悪辣とも言える権力欲ではなく、それによって狂わされた男の悲劇であるからだ。彼女はそのきっかけであったにすぎない(「オテロ」ではこの役はイヤーゴである)。だがヴェルディはマクベス夫人にとても素晴らしい音楽をつけている。

だが重ねる蛮行に自ら戸惑い、錯乱状態になっていくのはマクベスだけではなかった。第4幕で彼女は、側近がつなぐ椅子の上を歩きながら、登場する。これは彼女の心の不安定さを象徴している。終始暗い舞台は、音楽そのものを決して邪魔することがない。そのことで集中力が生まれた。

ネトレプコの大名演の陰に、他の歌手が隠れていたわけではない。パーペ、ルチッチ、それにマクダフを歌ったテノールのジョセフ・カレーヤもまた、これ以上にないくらいの成功であるばかりか、見事に絵になる格好、そして表情である。ネトレプコが完璧にマクベス夫人になりきっていることに加えて、これら男声陣もまた標準をはるかに超える出来栄えであった。

狂気じみるくらいな拍手は、大歓声とともに全ての歌手に向けられた。だがそれだけではない。冒頭で述べたように、メトロポリタン歌劇場合唱団の、いつも以上に見事なアンサンブルと、それに何といってもルイージの、引き締まった上に表情に富んだ完全な指揮が、これに加わったのだ。その劇的な凝縮度は、若いころのレヴァインを思い出させるほどだ。だからこの上演は、METの数々の名演の中でも一等上を行く完成度であった。

興奮冷めやらぬのは、映画館に来た客だけではなかった。幕間のインタビューに答えるネトレプコの、狂気じみたハイパーさは、彼女がまったくもってマクベス夫人を自分の役にしてしまっていることを裏付けた。今シーズンは本作品を皮切りに、「フィガロの結婚」「カルメン」など、有名作品が目白押しである。やや食傷気味だったかのように思っていた私の音楽生活も、今日の「マクベス」で完全にリズムを取り戻した。暗く残虐なストーリーを味わった後だと言うのに、春のように暖かい六本木の街を吹き抜けていく風は、連休の合間ということもあって、とても軽やかであった。

2014年10月28日火曜日

NHK交響楽団第1791回定期公演(2014年10月24日、NHKホール)

デング熱騒ぎで閉鎖されたままの代々木公園をかすめるように歩きながら、NHKホールへと急いだ。10月ともなると6時には陽もどっぷりと暮れ、薄い上着だと寒く感じる。今年の秋は、温暖化で季節感の乏しい近年には珍しく、平年並みの気温である。

4年がかりで行われたロジャー・ノリントンによるベートーヴェン・サイクルが、先週のAプログラムで完結したようだ。私は「エロイカ」の演奏が忘れられないし、シュトゥットガルト響と聞いた「田園」も衝撃的だった。レコードでは一世を風靡した80年代の第2番(ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ)と、シュトゥットガルトで入れた全集の中の第7番などが、私の記憶から離れることはない。N響がピュア・トーンに様変わりする姿は、今や当たり前の出来事だが、最初は本当に驚いたものだ。

そしてベートーヴェンの後にはシューベルトが演奏されるではないか。しかも「未完成」と「グレイト」という黄金の組合せ。私は何と言ってもシューベルト好きだから、シューベルトの交響曲がプログラムに乗ると、いつも行ってみたくなる(だがシューベルトのコンサートは割に少ない)。しかもノリントンで、となると即決である。

だがコンサートというのは案外難しいものだ。期待せずに出かけると、意外にいい演奏だったり、逆に大きな期待を持ってでかけると、これが期待外れだったり。そして今回のBプログラムは、もしかしたら後者だったような気がする。期待が大きすぎたのだろうか。でもそれは出かけてみないと判らないことで、出かけなかったらいつまでも後悔するし、それにN響の場合、テレビで放映されたりするので、演奏が良かったら悔しい思いをすることになる。

後半の「グレイト」は、私にとっては思い出に残る演奏がある。それはウォルフガング・サヴァリッシュがN響を指揮した演奏だ。この演奏によって私はこの曲に目覚めたと言ってよい。特に第3楽章のトリオの部分になって、私はどういうわけか体が硬直するような感動に見舞われたのだ。それは偶然と言ってよい。ただ長い曲だと思っていたこの曲が、実に美しいメロディーに彩られた、多彩な曲だっと知ったのである。

以来、「グレイト」の演奏はCDで数多く聞いた。もっとも好きなショルティによる演奏を筆頭に、コリン・デイヴィス、ジュリーニといった名前が浮かぶが、実演では何といっても数年前に聞いたミンコフスキである。このミンコフスキの演奏では、繰り返しが多く行われたにも関わらず、演奏にリズム感が溢れ、それは終楽章において頂点に達した。プレイヤーがみな乗りに乗っている様は、最前列の席から手に取るようにわかった。

けれどもCDで手当たり次第に聞いてみると、意外なことに全ての演奏が素晴らしくはない。指揮者の音楽に対する観念が、曲にピタッと馴染んでいるか、そしてその域に達しているか、ということがこの作品では求められる。それは丁度ブルックナーの曲と良く似ている。そしてCDで聞いてもさっぱり感動しない演奏というのが存在するのである。

さて今回のノリントンの演奏は、私にとっては完全に期待外れだったと思う。もしかしたら緊張しすぎたN響の、ちょっとした余裕のなさがそうさせたのかも知れない。いや実はノリントンは、シューベルトの演奏に向いていなかったということだろうか。私はすべての繰り返しを省いた今回の演奏から、その可能性が高いと思う。だがこの演奏では繰り返しが多くても、単に長いだけという結果に終わったかも知れない。

極論すれば「グレイト」の魅力はその長さにある。いい演奏で聞くと、どこを演奏といているかもどうでもよくなって、もっと長いことこの曲を聞いていたいと思うのだ。第2楽章の後半など、その典型である。もしかしたら私はこの曲に、主にドイツ系の演奏家で聞く典型的な演奏に慣れ親しみすぎているのだろうか。辛うじて第4楽章では、N響の力演とはなったが、それでもあの軽快な、弾むようなリズムを期待した聞き手にとっては、退屈でさえあった。

「未完成」でも同様に、私の心は若干白けた。シューベルトの曲をピュア・トーンで聞くというのは、本当に必要なのだろうか。ノリントンの演奏の限界を知った気もするが、古楽器奏法で聞く演奏も、モダン楽器の演奏があって、その反面教師のような存在だったとすれば、今や古楽器奏法が主流になってしまうと、ロマンチックな演奏が懐かしい。懐かしさを期待するシューベルトの聞き手は、従来の演奏がいいのだろうか。だが私にはミンコフスキの名演の記憶が残り、そしてサヴァリッシュはと言えば、少し雑然とし過ぎてていたようにも思うので、そう単純なことではないだろう。N響は今や大変力量のあるオーケストラだから、やはりこれはノリントンのシューベルトが、私に合わなかったというしかない、というのが結論である。

2014年10月21日火曜日

ハイドン:交響曲第91番変ホ長調(カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

このカール・ベーム指揮ウィーン・フィルの演奏で聞いていると、丸でハイドンが里帰りしたかのように感じる。あたかもウィーン郊外をローカル電車で行くような演奏は、今ではほとんど聞かれなくなったスタイル・・・何もしていない・・・である。ここにはただ、ウィーン・フィルの演奏で聞く古き良き時代の姿がある。

この演奏を聴きながら、長い期間をかけてハイドンの初期の交響曲作品から順に聞いてきたにも関わらず、ウィーン・フィルによる演奏を一度も取り上げていなかったことに気付いた。これから最後の作品までにも登場しないだろうから、ここでベームの演奏に登場してもらい、聞いてみたという次第である。そして改めて気付いたのは、ウィーン・フィルによるハイドンの録音というのが、非常に少ないということだ。ハイドンはウィーンにゆかりのある作曲家だから、これは意外であった。だからこの演奏は、取り立てて特徴が感じられはしないものの、ウィーン・フィルの響きで聞くことのできる貴重なハイドンということになる。

そのような演奏で聞くハイドンの第91番目の交響曲とはどんな作品だろうか。私は第82番以降の作品の中では最後に聞くことになった作品に、とりたたてて強い印象を持つことはなかった。それどころか、この作品はどこがいいのかよくわからない。ゆったりとした第1楽章から、弛緩した、何かありふれたようなメロディーで、ハイドンらしい奇抜なものを感じないのである。それ以外の作品があまりに素晴らしいから、これは後期の作品の中では、という前提の話ではある。それにしても、けだるい第2楽章はどこか重いメロディーの連続だし、第3楽章のメヌエットに至っても、どちらかというと低音の楽器が活躍し、そのことが印象的である。

専門的なことはわからないが、そのような地味で面白くないかに見える演奏も、また別の演奏、たとえば手元にあるラトル指揮ベルリン・フィルの演奏で聞くと随分印象が異なるのもまた事実である。だから演奏による違いというのは無視できない。で、ベームの演奏というのが、やはり平凡なものに感じられてしまうのも、時代というもののせいなのかも知れない。


2014年10月13日月曜日

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(パリ・オペラ座ライヴ・ビューイング2013-2014)

パリ・オペラ座のライブ・ビューイングと銘打った2シーズン目の今年の企画(2013-2014)の第6作で、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」が上映された。冒頭で解説のおじさんが、今回の演出は有名なジョルジョ・ストレーレルによる古典的な舞台だと紹介する。この解説はガルニエ宮にある古い「オペラ座」での収録なのだが、実際のビデオ収録は新しいバスチーユで行われたものである。わざわざ初演時のことを話すために、ガルニエ宮に赴いたというわけである。

そんなにこの演出は素晴らしいのか。私はあまり比較して話すだけの知識や経験を有してはいないのだが、それでもやはり「素晴らしい」と思う。少なくともこれまで私が実演や映像で見た「フィガロ」の中では、最高のものであった。だからこの解説は正しいと思った。

解説では特に照明の使い方に多くを触れている。冒頭アルマヴィーヴァ伯爵邸でのシーンでは、この照明は明るく、結婚式の朝をイメージしている。ところが後半になると日が傾き、第4幕では夕闇の中で舞台は進行する。第3幕の広大な廊下において繰り広げられるややこしい人間ドラマは、まるでドタバタ喜劇のようでもあり、私の出身地、大阪の文化で言えば、吉本や松竹の新喜劇といったところである。人が入れ替わり立ち替わり、その登場人物の間で違和感なく話が進むのは、モーツァルトの音楽が素晴らしいからだろう。

モーツァルトは「フィガロ」において自らの作曲家人生の新境地を開いたと思われる。ここで繰り広げられる人間味溢れるドラマは、それまでのオペラになかった題材ともいうべきもので、際立って新鮮である。「イドメネオ」や「魔笛」がいくら素晴らしいからといって、「フィガロ」ほどモーツァルトらしいものはない。その頂点は「ドン・ジョヴァンニ」だとは思うが、「フィガロ」にはそれ以上に、ストレートに挑戦的で若々しさに溢れる作品はないかと思う。

このストレーレルの演出はDVD等でも売られているが、今回、映画館で見たのはこれとは異なるものだと思っていた。ところがどうやら同じなのである。ということは収録は少し古く2010年ということになる。その映像がなぜ今頃上映されることになったかはよくわからないが、DVDを見なくても画面いっぱいに広がる映像を見ることができるのは貴重な経験である。指揮は音楽監督フィリップ・ジョルダン。

序曲からジョルダンの指揮は丁寧で、今となってはゆっくり目のテンポを維持し、そのことが意外というよりもかえって新鮮である。 これは古典的でエレガントな演出を意識したものだと思う。登場人物が多いので、以下にまとめて記載しておこうと思う。

  リュドヴィク・テジエ(Br、アルマヴィーヴァ伯爵)
  バルバラ・フリットリ(S、伯爵夫人)
  エカテリーナ・シューリナ(S、スザンナ)
  ルカ・ピサローニ(Br、フィガロ)
  カリーヌ・デエイェ(Ms、ケルビーノ)
  アン・マレイ(Ms、マルツェリーナ)
  ロバート・ロイド(Bs、バルトロ)
  ロビン・レガート(T、ドン・バジーリオ)
  アントワーヌ・ノルマン(T、ドン・クルツィオ)
  マリア・ヴィルジニア・サヴァスターノ(S、バルバリーナ)
  クリスチャン・トレギエ(Br、アントーニオ)

この中で一等際立っているのがロジーナこと伯爵夫人のフリットリである。また彼女の夫で「セヴィリャの理髪師」では素っ頓狂なテノール役だったアルマヴィーヴァ伯爵を歌ったテジエもまたしかりである。この二人に重鎮を起用したことで、比較的若手中心の他の歌手たちものびのび歌っているように思えた。

「フィガロ」で描かれているのは、古い世代と新しい世代のせめぎあい、対立、相克である。第1部のフィナーレでの舞台は特に印象的だ。左側にいる旧世代のバルトロ、マルチェリーナ、伯爵に対し、スザンナ、フィガロ、ケルビーノ、それに伯爵夫人は右側に分かれる。 古い考え方が徹底的に茶化されるのは、後半の第2部の主題である。第3幕でいきなり、マルチェリーナがフィガロの母であり、バルトロが父であるとわかる荒唐無稽なシーンがある。だがこのシーンがわずか数分後には、見事なアンサンブルの中に溶け込み、とても自然でさえあるのは、モーツァルト音楽の魔法のひとつの例だと思う。

「フィガロ」の素晴らしさや物語の面白さを語った文章には枚挙に暇がないので、私としてはこのオペラに対する苦言をひとつ。どうも「フィガロ」についていけないことが多いのは、この作品があまりにもエネルギッシュで変化に富みすぎていることだろう。音楽に聴き惚れいるとストーリーがどうでもよくなってしまうことは、オペラではよくあることだが、このストーリーは十分に複雑であり、どうでもいいことなのだけど、いつも何か重要なものを聞き逃したような気分になる。それではとストーリーを追いすぎると、セリフの部分にまで集中力を絶やすことができず、音楽にゆとりを持って入れない。それに少し長すぎると言うべきか。

そういうわけで名作中の名作も、聞き手に大変な努力を必要とする。私はモーツァルトのオペラでは、CDで音楽だけを聞くのが好きである。そうすることによって音楽だけを純粋に楽しめるし、それだけで十分という気がしてくる。ここに映像が加わると、あまりにカロリーが高すぎてしまうのである。だから今回の映像も、それはそれで素晴らしいのだが、あまりにモーツァルトの音楽が素晴らしすぎて、聞き手の余裕を奪ってしまうという、いつものパターンに陥った。だが、伝統的な演出が、音楽を決して邪魔をしないものであるために、音楽を楽しむ余裕が比較的大きかったという点を評価したい。いや、この評価は客観的には正しくない。要するに見る側の、つまりは私の経験がまだ足りていないということに尽きる。だから「フィガロ」を初心者向けのオペラだと言うのは、そろそろやめたほうがいいと思う。

2014年10月4日土曜日

ワーグナー:パルジファル(2014年10月2日、新国立劇場)

ワーグナーは最後の作品「パルジファル」で、かのベートーヴェンが「第九」で到達した世界観を自らの言葉で再構築しようとしたのではないだろうか。「ニーベルングの指環」で全世界の破滅を描いたその後で、世界は救われると説いた。「救済者に救済を」、その言葉は形骸化したキリスト教世界を越えたところに求めるべき価値観のことである。ワーグナーの全作品、生涯を通して希求した「愛による救い」は、この作品でも、いやこの作品でこそ主要なテーマである。

そこには謎めいた宗教的儀式と、呪われたあばずれ女クンドリー、そして完全無垢な青年が存在するだけである。時代も場所も特定することは、おそらく重要ではない。永遠に続くかのような音楽は、もはやライトモチーフでさえ必ずしも明確ではなく、舞台のセットも抽象的である。今回のハリー・クプファーによる演出も、天へと続く「光の道」が一貫して中央にセットされ、その道は照明の効果で様々な色合いに変化する。「道」は部分部分が動く台にもなっており、それらが上がったり下がったり、時には地下から修道士や小姓らが出てくる。

前奏曲で早くも答が示される。「道」の上にいるのは3人の仏僧で、袈裟をまとっている。この3人は最後のシーンでも登場し、聖槍によって傷が癒えたアンフォルタスたちがゆっくりと登っていく道の上部に、その存在を際立たせているのだ。それこそがワーグナーが関心を寄せていた仏教的世界である。堕落した西洋の世界(それはキリスト教の不可思議な教義に象徴される)を救うのは、東洋的な思想ということだろうか。クプファーの演出はこのことを極めて明確に表現していると言える。

この解釈が正しいかどうかわからないが、少なくともこの演出の主張は明瞭である。そしてその内容は、会場で売られているブックレットに掲載されたインタビュー記事(はまたホームページにも掲載されている)にもはっきりと書かれている。つまりこの演出はとてもわかりやすい。あまりにわかり易すぎて、意外性に欠けるくらいであると思った。ついでに記述すると、その「光の道」に対して巨大な細長い台が回転して舞台の中央に出てくる。その上にアンフォルタスが寝そべり、癒えない傷を嘆いている。この台は先が尖っており、槍を象徴しているのは明らかである。その「槍」の色は赤かったり、緑になったりして見ているものを楽しませる。

黒い背景と稲妻のような光の道、それに静かに動く巨大な槍の台が浮かび上がって、光の演出が効果的である。音楽が場面転換にさしかかると、台が上下に動いたり、紗幕が降りてきてヴェールに覆われたモンサルヴァート城内で挙行される秘儀を際立たせたり、その変化は音楽に合わせて動きすぎず、飽きさせもしない。視覚的にとても印象的である。クプファーのような世界的演出家が、東京での「パルジファル」のために演出したその舞台は、私にはとても好印象であった。

だがそれよりも何よりも、このプレミア公演で見せつけられた第1級の歌手達による、魂を揺さぶられるような歌いっぷりには、私は心底驚いたと言って良い。第1幕の冒頭でジョン・トムリンソンによるグルネマンツの声が聞こえると、私は背筋がゾクッとしたほどだ。トムリンソンは終始、落ち着きながらも貫禄のある歌声で、安定的で重厚な響きを場内に轟かせ、この作品がグルネマンツの多くの語りを抜きにしては成功などありえないものであることを印象づけた。

本当の意味でこの日の大成功の立役者だったのは、しかしながら、グルネマンツというよりはクンドリーを歌ったエヴェリン・ヘルリツィウスである。彼女は第1幕でこそ存在感が目立ちはしなかったが、第2幕の後半になるにつれ、その声はびっくりするほどの迫力を持って会場を微動だにしないほどの感動に導いた。おそらくこの日の聴衆は、彼女の歌声に金縛りにでもあったような雷の一撃(それは丁度第2幕でも、丸で合わせたかのように現れるのだが)に打たれたと思う。パルジファルを演じた円熟のヘルデン・テノール、クリスティアン・フランツとの丁々発止のやりとりは、本当のワーグナーとはこういうものなのか、と私を瞠目させた。第2幕が終わると、観客がみな顔を紅潮させ、興奮冷めやらぬ様子であった。このような光景を私は経験したことがない。

他の歌手についても、標準のはるか上を行く出来栄えだが、上述のグルネマンツやクンドリーに比べるのが気の毒なほどである。すなわちアンフォルタスのエギリス・シリンス、クリングゾルのロバート・ボークである。このうちシリンスは今年の春、上野で聞いた「ラインの黄金」でヴォータンの役を演じたことは私の記憶にも新しい。タイトルロールのフランツは新国立劇場でもお馴染みだそうだが、私はその綺麗な歌声に魅了された。このパルジファルの役は、自分の名前も知らないほどの白痴とされている。けれどもクンドリーの接吻によって、一瞬のうちに人間の苦しみを悟る知者となる。つまりはヴォツェックの阿呆とは違うのである。パルジファルはブッダのように、苦役の末に智慧を得る存在である。だからもう少し印象的な衣装を身につけ、高貴な存在として舞台に現れていても良かったと思う。ついで言えば今回、あのゴングのような響きの第1幕の音楽は、私には仏教寺院の鐘のような音に聞こえた。

第3幕では再び儀式的な音楽となるが、舞台の演出はここでも変わらない。そのことがもしかすると、変化に乏しすぎると感じたかも知れない。第3幕は第1幕の二時間に次ぐ一時間半もの長さであることから、できれば気持ちが昇華してゆく気分を味わいたいと思っていた。歌手も第2幕のクンドリーが良すぎたために、第3幕の存在が浮かび上がらない。とは言え、これは極めて贅沢な注文だと言うべきだろう。

最後に飯森泰次郎・新監督による指揮と音楽について。我が国におけるワーグナーの第1人者による「パルジファル」と聞いただけで鳥肌が立つというのは私だけではないだろうと思う。その音楽は実に年期の入ったもので余裕がある。だからこれだけの安定した成功を収めたのだろうと思う。歌手の信頼がなければ、どれほどの歌い手でもこうはいかないと思うからだ。どちらかと言えばゆったりとしながらも、メリハリがあり、第3幕では少し早めだったように思う。けれども「パルジファル」ほど音楽の速さがわからなくなる作品はない。実際、あの最も長い部類に入ると言われるレヴァインの演奏を長いとは決して思わない。まさに「時間が空間になる」というのを実感する作品なのだから。

東京フィルハーモニー交響楽団の演奏がこんなにも見事に感じたことはあっただろうか。この日のオーケストラからは、ほとんど完璧にワーグナーの音がしていた。冒頭から私は、あっという間に中世のヨーロッパにいるような雰囲気(というのは陳腐な喩えだが)に浸ることができた。もちろんそれも飯森の素晴らしい指揮による結果だろう。新国立劇場合唱団が素晴らしくなかったことは一度もないが、この日も精緻にして奥行きのあるアンサンブルに心を打たれた。荘厳で透明な歌声は、浄化された水のように澄みわたりながら、静謐な会場に気高く響いた。

拍手されないことの慣例にあえて挑戦するような拍手がある第1幕とは異なり、幕切れでの盛大な拍手とブラボーは、歌手達を4回以上のカーテンコールに誘い、その舞台にはクプファー氏も登場した。私にとって圧倒的に思い出に残る今回の「パルジファル」は、これまでに舞台で見たワーグナーの中でダントツのものであった。2回の休憩を挟むこと6時間はあっという間であった。小ぶりだった雨も上がり、16時に始まった舞台も22時に終演となった。日本でもこのような上演があるものだ、と私は嬉しくなった。


2014年9月28日日曜日

ハイドン:交響曲第90番ハ長調(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

「ドニ交響曲」と呼ばれている第90番から第92番までの3曲で、ようやく「ザロモン・セット」の手前に至る。思えばここまで長い道のりであった。「ドニ交響曲」の名称の由来は、「パリ交響曲」の作曲を依頼したドニ公爵にちなむもので、すなわちこれは「パリ交響曲」の続編とも言うべきもの?である(ただし楽譜はエッティンゲン=ヴァラーシュタイン伯爵に献呈された)。

それにもかかわらずこの3曲は「パリ」と「ロンドン」の間に挟まれて、いささか存在感が弱い。録音の数もここだけちょっと少ないような気がする。そういう中でサイモン・ラトルはこの作品を2回も録音しているのが注目される。最初はバーミンガム市交響楽団を指揮したもので、1990年のスタジオ録音。もう一つはベルリン・フィルを指揮した2007年のコンサート録音である。後者のCDは、その「陽の当たらない」第88番から第92番までを収録しているというユニークなもので、さらに面白いことにラトルは、まだ「パリ」も「ロンドン」も通しでは収録していない。

そのベルリン・フィルとのCDには、もうひとつ別のトラックが入っていてそれは何とこの曲の終楽章を拍手入りで演奏しているのだ。いや正確に言えば拍手入りのほかに、拍手なし版がボーナスとして収録されているというべきか。これについてラトルは、拍手も音楽の一部であるからだと述べている。ここには拍手だけでなく、聴衆の笑い声や熱狂的な最後の拍手も収録されている。もしかしたらこの曲のライブ収録をしたかったため、2枚ものCDが存在することになったのかも知れない。

第1楽章の序奏からハイドンらしい幸せな雰囲気に満たされる。印象的な主題は一度聞いたら忘れないほど完成度が高い。わかりやすいソナタ形式に乗って時折顔を出すトランペットも気持ちがいい。第2主題はフルートが、続いてオーボエがソロを吹く。それ自体も小鳥のように愛らしいが、ベルリン・フィルの方ではそこに装飾音が混じっていて、あっと思わせる。

第2楽章の高貴な味わいもまたいい。6分以上もあるが長くは感じない。ここでもフルートの独奏が光る。主題がさりげなく変奏されていくさまは、ここへきて風格を感じさせる。そして第3楽章のメヌエットもまたしかりで、ハイドンの典型的な音楽と言うべきだろうか。

さて第4楽章である。ここの諧謔的効果は何と言っても長い休符である。それは4小節の全休符で、しかも2度登場する。これによって終わると思われた曲が続く、ということがおこる。拍手が起こるのはその2回ということになる。だが第1回目はあまりに短いんじゃないの?という感じがしないでもない。それで観客もためらいがちはある。そこでラトルは、拍手が始まるとその休符を十分に取り、拍手が鳴り止むと音楽を再開。観客から笑い声が漏れる。

2回目は本当に終わったかのように休符に突入。これで本当に終わったと思った客がひとしきり拍手をし終わるのを待つと、本当にコーダに突入する。爆発期な拍手は本当の最後に起こる。まるでアンコールを聞いたような、得をした気分にさせられる不思議な曲であるが、それにはこの楽章の音楽が2拍子のアレグロで、移調され変奏されていく様子が大変素晴らしいからだろうと思う。

2014年9月23日火曜日

グノー:歌劇「ロメオとジュリエット」(The MET Live in HD Series 2007-2008)

いわゆる「愛の二重唱」というのはオペラの中での最大の見せ場であることが多い。いろいろな形で男女が運命的に出会い、たがいの境遇をも越えて愛しあう。そこでそれぞれのアリアに続き、大規模な二重唱が高らかに歌われる。女性はこれでもかと高音を張り上げ、男声は無理な姿勢を維持しつつ声量は大きくなるばかり。照明はかれらを浮き上がらせ、舞台の脇役はいつのまにか袖へ去ってしまっている・・・。

だがこのようなデュエットも、1つのオペラに4回も登場するとどうだろうか。しかも同じ男女が、時とところを変え(女性は衣装も変え)、何度も抱擁を繰り返す。いくらなんでもこう何度も続けられては、と辟易するか、それともたまらなく感動するか、それは見てみないとわからない。それがグノーの名作「ロメオとジュリエット」である。全5幕、約3時間だが今回のMETの2007年の公演では、休憩は1回だけであった。

この公演の指揮は何とプラシド・ドミンゴで、前夜にはグルックのオペラに出演していたというから驚きである。ドミンゴは結構前から指揮もしているが、さほど評判にはなっていないし、私もこれまで聞いたことがなかった。だからドミンゴの指揮と聞いても、さほど食指が動かなかったのだが、それを差し置いてもこのフランス・ロマン派オペラに足を運ばせた原因は、主役の二人が今をときめく世界一のカップルと思われたからである。

まずモンターギュ家のロメオにはテノールのロベルト・アラーニャで、この役といえばアラーニャと決まっているほど評判が高い。それにはフランス語に堪能ということがあることに加え、歌い方が情熱的でしかも容姿が決まっている(だが髪には白髪も交じる)。数ある録音もほとんどアラーニャが歌っている。今回もアラーニャの歌は、ピカイチであったと思う。

一方、キャピュレット家のジュリエット役はロシアのソプラノ、アンナ・ネトレプコである。彼女はここずっとMETの舞台に立ち続けているが、その精力的な活躍は私達を驚かせる。どんな難役も見事にこなし、次々と新しい役に挑戦しているからだ。ジュリエット役も彼女としては重要なレパートリーだということだろう。そしてロメオとの呼吸も合っているので、見ていて違和感がない。先日見たマスネのマノン役よりもこちらのほうが、彼女の役には合っているように感じられた。第1幕の有名なワルツ「私は夢に行きたい」では少し緊張も見られたが、その後は安定した歌と演技であった。

この二人が主役なので常に焦点が当たるのは当然だが、このオペラには他にも結構多くの歌手が登場する。そのような中でロメオの従者でズボン役の少年ステファーノを歌ったイザベル・レオナールは、第3幕でアリアを1回だけ歌うが、その見事なこと!ほかにジュリエットの父、ローラン神父、ジュリエットの従兄弟ティボーもしっかり脇を固めていた。第3幕の殺陣(たて)のシーンでは、舞台中央の丸い台が回転して、縦横にカメラが動き、ライブ映像で見るのは圧巻である。

それにしてもこのオペラは、一見娯楽性の高いメロドラマにしか過ぎないような感じだが、それを救っているのは原作がシェークスピアである、という事実かも知れない。誰もがよく知るストーリーは理解するのが容易である。和解できない両家の宿命的な対立によって、若い恋人は一度は結婚の約束をしたものの、ロメオは決闘でメルキューシオを殺してしまい追放されてしまう。ジュリエットはロメオと駆け落ちして逃げようとするが、その際に飲んだ麻酔薬によって眠ってしまったところを、ロメオに死んだと勘違いされてしまう。ジュリエットが息を取り戻した時には、ロメオは自殺しようとして毒を飲み干した直後だった!

冒頭の合唱でこの二人の悲劇が予告される。だが幕切れの舞台では二人だけの演技が続く。ジュリエットはロメオが死んでしまうことに耐え切れず、自ら短剣で腹を切る。左右対称に横たわった二人は、最後の口づけをして息絶える。演出はギイ・ヨーステン。

この上演は2006年に始まったこの企画の2年目第1作だったが、2014年の今年のアンコール上映を見ていると、この企画は着実にオペラを趣味とする層を掘り起こしているように思う。日曜日ということもあって客席は7割程度埋まっていたようだ。このようなことは初めてである。ティーンエイジャーの恋の物語を中年の男女が演じ、それを高齢のファンが熱心に見入る。オペラというのは実に変なものだ。


2014年9月21日日曜日

マーラー:歌曲集「少年の不思議な角笛」(S:エリザベート・シュワルツコップ、Br:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ジョージ・セル指揮ロンドン交響楽団)

俗にマーラーの交響曲第2番から第4番までは、「角笛交響曲」と呼ばれている。これら3曲にはいずれも、「少年の不思議な角笛」の歌曲の一部が歌われるため独唱が加わる。それでマーラーの交響曲のこれらの作品を聞くに際し、避けて通るわけにも行かないと思い、歌曲集「少年の不思議な角笛」について少し聞いておこうと思う。

歌曲集「少年の不思議な角笛」における私の唯一の愛聴盤は、いまもってソプラノがシュワルツコップ、バリトンがF=ディースカウによって歌われるセルのEMI盤である。この演奏は孤高の名盤のひとつで、他の追随を許さないほど完成度が高く、もし「歴史に残る名盤100」などといった企画があったら間違いなくその一枚に入るだろうと思われるほど、評価が高い。そして私の場合、他の演奏を聞こうと思わないほどこの演奏が気に入っている(別に避けているわけではないが、CDの購入には幾ばくかの出費を伴うため、必然的にこうなるのである)。

さてそのセルによる演奏に収められているのは、収録順に以下の曲である。

  1. Revelge(死んだ鼓手/起床ラッパ)★
  2. Das irdische Leben(この世の暮らし)
  3. Verlorne müh'(無駄な骨折り)
  4. Rheinlegendchen(ラインの伝説)
  5. Der Tambourgesell(少年鼓手)★
  6. Der Schildwache Nachtlied(歩哨の夜の歌)
  7. Wer hat dies Liedlein erdacht? (この歌をひねり出したのはだれ?)
  8. Lob des hohen Verstands(高遠なる知性への賛美)
  9. Des Antonius von Padua(魚に説教するパドゥアのアントニウス)
 10. Lied des Verfolgten im Turm(塔の中の囚人の歌)
 11. Trost im Unglück(不幸の中の慰め)
 12. Wo die schönen Trompeten blasen (美しくトランペットの鳴り響くところ)

さてここでややこしい問題が生じる。この演奏順は一定ではない上に、しばしば差し替えられたいくつかの歌が、CDによって入っていたりいなかったり(上記の★は単独の曲だが「角笛」に含まれたり、「リュッケルト歌曲集」にも含まれることがある)。さらにその日本語訳にも微妙な違いが存在し、そのうちのいくつかはをイメージ上の誤解を生じるものがある。結局全体像がなかなかつかみにくいのである。ただ私は上記のセル盤の演奏順に親しんできたし、その順序は全曲を通して聞くにはとてもいい感じであると思っている(そういうこともこの録音の高評価に寄与していると思う)。

交響曲への流用を考えるとさらにややこしい。まず、当初存在したが後に削除された曲があり、それらはセル盤には含まれていない(CDによっては含まれている)。

 ①Urlich(現光):交響曲第2番「復活」の第4楽章
 ②Es sungen drei Engel einen süßen Gesang(三人の天使が歌った):交響曲第3番第5楽章
 ③Das himmlische Lebe(あの世の暮らし):交響曲第4番第4楽章

そして交響曲第2番「復活」の第3楽章には、上記の9「魚に説教するパドヴァのアントニウス」のメロディーが使われていることは言うに及ばず、さらには交響曲第5番第5楽章には8「高遠なる知性への賛美」のメロディーが流れる。ついでに調べると、交響曲第3番第3楽章は、同じ「少年の不思議な角笛」を原作にした「若き日の歌」の中の「夏に小鳥はかわり」に基づくものだという。

さらに付け足すと、この曲は「子供の不思議な角笛」と呼ぶことが多い。だが私はその歌詞の内容から、ドイツの古い民謡に対するマーラーの思いを重ねあわせるとき、「子供」といったあどけなさを感じる名称よりもむしろ「少年」としたようがしっくりくるという気持ちを抱いている。本節のタイトルを「少年の不思議な角笛」としたのはそのためである。

前置きが長くなったが、そういう曲の数々をセルの指揮するこのCDで聞いていると、マーラーの音楽がセルの指揮で綺麗に蘇っている姿を目の当たりにすることができ、一種の爽快な気分さえしてくる。加えて戦後の一時期を代表する二人の歌手が、これほど見事な歌いっぷりを見せるのもまた心地良い。正確に発音されたドイツ語が、楷書風の伴奏に乗って、クリアに聞こえる。

最初の曲「起床ラッパ」では、太鼓のリズムに乗って「トララレイ」と歌う男声が印象的で、私はその段階でこの演奏を好きになってしまった(曲の順序というのは案外重要だ)。「高遠なる知性への賛美」でのカッコウやナイチンゲールの鳴き声も、一度聞いたら忘れられない。マーラーはこれらの古くから伝わる民謡に、19世紀の時代的背景を重ね、おそらくは自らが少年時代に聞いたであろう軍楽隊のリズムやメロディーをも取り入れて、独特の現実的な世界を表現した。それはセルの演奏で聞いていると、極めて冷徹で客観的に自分を見つめているようだ。と同時に、そこに広がる内省的な世界が不思議と浮き彫りにされていく。「角笛」に限らずマーラーの歌曲集の魅力は、そういう超越した世界であるような気がする。


2014年9月19日金曜日

マスネ:歌劇「マノン」(The MET Live in HD Series 2011-2012)

オペラを見なければ触れることのできない作曲家というのがいる。ヴェルディやワーグナーはまだ良いほうで、ヴェルディなら「レクイエム」だけでも十分感動的だし、ワーグナーなら前奏曲集や「ジークフリート牧歌」といった名曲を楽しむことは容易である。だが、プッチーニやベッリーニといったあたりになると、これはもうオペラしか作曲しなかったような作曲家だから、音楽に触れるにはオペラを聞くしかない。マスネも、どちらかと言えばそんな作曲家の一人である。

ジュール・マスネは19世紀後半に活躍したフランス人である。そして「マノン」は円熟期の最初を飾るオペラと言われるが、他の有名作、例えば「タイース」も「ウェルテル」も、それぞれエジプト、ドイツを舞台にしているのと異なり、フランスを舞台にしたオペラである。つまりフランス人によるフランスのオペラである。

そう思いながら聞くと、ビゼーの「カルメン」も、オッフェンバックの「ホフマン物語」もフランスを舞台にしているわけではないし、逆にパリを舞台にした叙情的なオペラ「ボエーム」も「椿姫」も、イタリア人の作品である。作曲家の活躍した場所と作品の舞台が一致する作品は、意外にも少ないことに気付く(プッチーニの「トスカ」、ヴェルディの「リゴレット」、あるいはワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などが思い浮かぶ)。

だからフランスでしばしば上演され、その音楽も極めてフランス的。オペラ・コミックとしての性格も兼ね備えて時折セリフが語られるかと思えば、全5幕の中盤でバレエも登場する。けれども私にとっての「マノン」初体験は、それまでに見た「タイース」や「ウェルテル」の感銘を上回る程ではなかった、というのが正直な感想である。たとえマノン(ソプラノ)に絶頂のアンナ・ネトレプコ、その相手である騎士デ・グリュー(テノール)にピョートル・ベチャワという当たり役を配した、おそらくは極めつけの舞台であっても、である。それはやはり、音楽に原因があるのではないか、というのが偽らざる心境である。指揮はファビオ・ルイージ、演出はロラン・ペリーで、時代設定を少しかえているとはいえ、ほぼオーソドックスな演出。

それでも見せ場はあった。特に印象的だったのは第3幕後半の教会内部のシーンである。マノンに一目惚れして駆け落ちまでした青年デ・グリューは、同棲生活の途中に横槍が入り、マノンもお金に目が眩んでデ・グリューを裏切る。デ・グリューは教会に入る決心をして修道士として祈りを捧げる毎日である。そこへマノンが登場し復縁を迫る。忘れようとしていた元恋人を思い出し、その感情に抗しきれない二人は、教会の中で二重唱を歌い、最後には熱い抱擁を交わすのだ。ストーリーはこのあたりから急速に下降していく。つまりこれは墜落の物語、というわけである。

けれども第4幕になって賭博のシーンになると、私は「椿姫」の第2幕後半を思い出さずにはいられないかった。マノンにそそのかされ、半ば自暴自棄になったデ・グリューは、金持ちのギヨー(テノールのクリストフ・モルターニュ)に賭けを挑む。そこに現れるのは一度勘当した息子を訪ねてくる父、デ・グリュー伯爵(バス・バリトンのデイヴィッド・ピッツィンガー)である。その登場の仕方など、あの社交界に復帰して伯爵に賭けを挑み、借金を返済するという自暴自棄なアルフレードそっくりなのである。けれども音楽は・・・あえて素人根性をむき出しにして言うと・・・遠くヴェルディには及ばない。「椿姫」の作曲は1853年で「マノン」よりも30年程前である。

いずれも原作があるのだから、これは流行りのストーリーだったのかも知れないが、マスネは明らかに「椿姫」を意識して作曲したのではないだろうか。だが「椿姫」を越えることはなかった。それどころかこのオペラには、ほかに印象的なアリアや合唱があるわけではなく、重唱も少ない。全体に散漫でさえある。最終幕でアメリカへ売られていこうとするマノンを、従兄弟のレスコー(バリトンのパウロ・ジョット)の協力で助けだしたデ・グリューではあったが、とうとう力尽きて彼の手の中で死んでいく。「これがマノン・レスコーの物語」とモノローグ風に語るマノンのセリフには、あのヴィオレッタの「パリを離れて」を思い出させるのだが・・・。

プッチーニもオペラ化した「マノン・レスコー」とは少し結末が異なっているが、これはこれで十分にドラマチックな物語である。だがそれにしては物語のメリハリに欠け、感動に乏しいと感じた。もっと違った演出で見ていたら、また違った印象だったかも知れない。あるいはもしかしたら、台本が良くなかったか。マスネの他の作品の完成度を思うと、そういう気もしないではない。

実にマノンは若干まだ十代の少女である。大変な美女であるとはいえ、世間知らずでもあるだろう。ネトレプコはそのような美しく、そして最終的には憎めない女性としてマノンを演じた。6回も衣装を変えての演技は素晴らしかった。だが、妖艶にして魔性を感じさせるような(ある人に言わせると、カルメンも遠く及ばないそうだ)女性の姿ではなかった。もしかしたらその「毒性」の少なさが私を白けさせたのかも知れない。全体に中途半端な印象を消し去ることはできなかった。

2014年9月17日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「ナクソス島のアリアドネ」(1994年10月25日、サントリー・ホール)

かつて大阪で暮らしていた頃は、実際にオペラを見る機会などなかった。夏休みに海外へ出かけた時などに、ローマやヴェローナで見た野外オペラと、伯父の住むニューヨークに居候してMETで見た「オテロ」が僅かな体験だったことは先に書いた(それでもこれらは一生の思い出となる公演だった)。

1992年に東京へ移り住んでからは毎年十数回ずつコンサートに出かけるようになった。その中には演奏会形式による歌劇もあった。プログラムが大阪のように、有名曲ばかりでないことが、私の興味の対象を大きくさせた。そのような中のひとつが、若杉弘によるR・シュトラウスの「町人喜劇」であり、休憩を挟んで「ナクソス島のアリアドネ」が上演された。

「ナクソス島のアリアドネ」は短いオペラで1時間半ほどであった。それもそのはずで、このオペラはモリエールを原作とする戯曲「町人貴族」作品60の劇中劇として書かれたのである。シュトラウスのオペラといえば、「サロメ」や「エレクトラ」のような野心作や「ばらの騎士」「影のない女」のような豊穣な作品を思い浮かべるが、いずれにしても規模は大きい。それに比べるとこの作品は、室内楽のような規模のオーケストラである。

この日の都響の第397回定期演奏会は、サントリー・ホールでありながら小道具も用意され、オペラだけでなく「町人貴族」から演奏するという、最初の原作により忠実なものである。当時のプログラムが残っていたので、この機会に当時のキャストを書き写しておこうと思う。


  ・ジュールダン氏/バッカス:田代誠
  ・ジュールダン夫人/アリアドネ:岩永圭子
  ・歌手/山彦:三縄みどり
  ・羊飼いの少女/ナイアーデ(水の精):菅英三子
  ・羊飼いの少年/ドリアーデ(木の精):白土理香
  ・ツェルビネッタ:釜洞祐子
  ・ハルレキン:大島幾雄
  ・ブリゲルラ:錦織健
  ・トゥルファルディーノ:高橋啓三
  ・スカラムッチョ:吉田浩之

第1部「町人貴族」と第2部「ナクソス島のアリアドネ」で一人二役を演じる歌手が多く、何が何かわからなくなってしまうので、このオペラのあらすじは押さえておく必要があるのだが、当時の私は何も知らずに出かけた。今思えば、我が国の有名な若手歌手が出ており、華やかな舞台だったようだ。登場人物が多いにもかかわらず結構な頻度で上演され、若手歌手が総出で演じるということも多い。

なぜこの演奏会に行ったかと言えば、直前に見た若杉弘の「幻想交響曲」の実演が素晴らしかったからだが、若杉はこの曲を日本で初演している(1971年)ので、十八番といったところだろうと思う。だがこの日の上演は、初演時の状況を再現しようとする野心的なものだったようだ。だからプログラムも「町人貴族」(オペラ「ナクソス島のアリアドネ」付き)となっているが、「町人貴族」の方では8曲が抜粋されている。そして若杉は「町人貴族」の台詞を自ら編纂しているという力の入れようである。

「町人貴族」における小金持ちの舞台裏に続き、茶番劇とギリシャ悲劇が交互に上演されるという奇抜な発想に基づいたオペラは、私をはじめてシュトラウスの世界に導いたと言って良い。あらすじを理解するよりも前に、音楽の絢爛な重なりに魅了されてしまったからだ。特に「アリアドネ」の終盤では、唖然とするほどに美しい音楽だと思った。そしてP席という舞台裏で見ることになった私は、歌手や金管楽器がすべて向こうを向いて歌うというハンディを乗り越えて、生で聞くシュトラウスに聞き入った。

できればもう一度見てみたいと思いながら果たせていないが、そう言えばシュトラウスのオペラは、このホフマンスタールとのコンビで作られたものだけで7つもある。この上演を見た時に、これからまだまだ見る機会があると思っていた若い私は、その思いの半分も果たせていないまま年を取ってしまった。生誕150年の今年は、そのオペラのボックスCDも売り出されているから、買って揃えておこうと思ってはいるが、それを聞くだけの時間的なゆとりは、悲しすぎるほどない、というのが現実である。

2014年9月15日月曜日

ショスタコーヴィチ:歌劇「鼻」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

ショスタコーヴィチが生まれたのは1906年、ロシア革命が1917年、ソビエト連邦の創立が1922年。「鼻」は1927年から作曲され、1930年に初演された。彼が24歳の時で、日本では昭和5年ということになる。私が生まれた頃まだ存命だった社会主義国最大の作曲家は、1975年に亡くなっている。そしてソビエトが消滅したのは1991年である。これは今から23年前ということになる。

前衛的とされたショスタコーヴィチの音楽は、私が小さい時に聞いた時には、これより先の音楽などあるのだろうかと思ったものだった。まるで機械のように無機的で、何の音楽的共感も感じなかったが、それこそがショスタコーヴィチの、いや共産主義国の音楽だと理解していた。だがソ連の崩壊から20年以上が過ぎ去り、このようなオペラもニューヨークで上演されるのを見ていると、やはり時代というのは移り変わり、新しものも徐々に古くなっていくものだと思った。社会主義リアリズムも、「古典的」とさえ思えるような、つまりはこの時期の作風はこうでした、と解説書に書かれてしまうような「古さ」を感じてしまう。そしてその「古典」を巧みに料理して、「現代」の劇として新鮮に上演する・・・今回のMETの上演はまさにそのようなものだった。

舞台上に現れるスクリーンに展開されたのは、時折キリル文字の中に英語も交じるアニメーションで、そこに「鼻」が登場する。「鼻」は舞台の歌手たち(その数はすこぶる大勢だったが)の歌(はもちろんロシア語である)に絶妙に呼応して、影絵のようなものになり動き回る。踊りだすかと思えば、時折ショスタコーヴィチのモノクロ写真や古いタイプライター、あるいは新聞の切り抜きといったものに変わったりと、その変化を見ているだけで楽しい。合わせて音楽が賑やかにチャカチャカと鳴り、歌も上下に行ったり来たり。ショスタコーヴィチの音楽を堪能できると言えば、その通りなのでが、では果たしてそれが楽しいのか、と問われれば答に窮してしまうのは私だけだろうか。

ゴーゴリの原作を台本化したストーリーは大変複雑で、そこに何らかの意味を見出そうとする聴衆を嘲笑っているようでもあり、そのような皮肉やパロイディを見つけようと思えば見つけられるとも思うが、かといってそれにそんな意味などない、と思えばそうすることも可能である。その難解そうで難解でない、というのがこのオペラの真骨頂なのではないかと思う。

何の事はない。ある日起きてみたら自分の鼻がなくなっていた下級官吏のコワリョフ(バリトンのパウロ・ジョット)は、そのことに気づくと嘆き悲しみ、警察署に行っても新聞社に行ってもにわかに取り合ってくれない。ところがひょんなことからその「鼻」が発見され、いろいろあって最後にはもとの顔に戻る、という奇天烈なストーリーである。2時間程の作品ながら登場人物は非常に多いので、これだけ数多くのロシア語役者を揃えるのは大変だっただろうと思う。指揮はパヴェル・スメルコフのエネルギッシュなもので不足感はないが、何と言っても見せものは南アフリカ人ウィリアム・ケントリッジの斬新かつ機知に富む演出だったろう。

観客は満員でブラボーも飛び交うあたりはさすが本場だと思わせるが、私自身はと言えば、こういうMET Liveのような機会がなければ見ることはなかっただろうと思う。それでけに貴重な経験だったとは思う。しかしスクリーンには、いつものようなインタビューや解説は、ゲルブ総裁のケントリッジ氏への短いインタビューを除けば何もなく、幕間の休憩時間もない。2時間を一気に見せたので、緊張感を維持するには役だったし、4時間にも及ぶ作品が多く、特に体力的にきつい身としては助かった、ということは言える。

今となっては歴史の教科書に載るだけとなったソビエト連邦も、私が中学生の頃は世界を二分する大勢力を誇り、その存在感はすごいものだった。私も運動会のような音楽を短波放送で聞いたものである。けれどもショスタコーヴィチは、少なくともその「証言」以後は、音楽に込められた寓意において、反社会的な思想だったという。そういうことが感じ取れる音楽・・・というのはやはり難解で想像の域をでないのだが・・・は、また別途書きたいと思う(いつのことになるかはわからない)。ただ、この「鼻」にも暗に込められた教会的、宗教的な潜在意識ともいうべきものは、やはり感じ取ることができる。彼はやはりロシア時代に生まれた作曲家だからであろうか。

2014年9月12日金曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調(P:内田光子、クルト・ザンデルリンク指揮ロイヤル・コンゼルトヘボウ管弦楽団)

興味深いことに村上春樹氏の対談集「小澤征爾さんと、音楽の話をする」(新潮社)では、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のいくつかの演奏を二人が聴き比べる、というところから始まる。この曲の、これほど多くの聴き比べの文章を読んだことはない。そのこと自体が意外だが、その対話を通して小澤征爾の音楽観に、ごく自然に迫っていく感じがとても興味深い。

対談の第1章の最後のほうで村上が引き合いに出すのが、内田光子が奏でるこの曲の録音で、伴奏はザンデルリンク指揮のコンセルトヘボウ管弦楽団である。そして「あまり時間がないので」ということで第2楽章から聴き始めるのである。それまでグールドを始めとする数々の演奏について触れ、話もブラームスからマーラー、小澤の若い頃の話などにそれたりしながら、最後に「このへんでいよいよ」と取り出すのがこのフィリップスの録音というわけである。「僕はこの二楽章の演奏が何より好きなんです」。

ここの部分を読んで私は同感したと同時に、自分の好きな演奏が取り上げられてとても嬉しく思った。グールドの演奏こそ聞いたことはないのだが、私自身この演奏が気に入っているからである。内田光子が満を持してベートーヴェンの録音にとりかかった時、彼女は競演する指揮者をザンデルリンクに頼んだ。彼女が信頼を寄せる指揮者だったからだということだった。地味な選択がとても意外に思えたし、そして新鮮だった。だから買うとすればどの曲にしようか・・・全集での発売がまだの時点で、私は第3番と第4番をカップリングした一枚に目をつけた。

村上春樹が最後にこの演奏を取り上げているのは、何か意図してのことのようにも思う。そしてそこで聞かれるのが第2楽章・・・その部分を私はまた大変愛するのだが、その理由が初めてわかったような気がしたのである。いや本当のことを言うと、この対談を読んだことで、この演奏の、特に第2楽章について再発見をしたということだ。村上の注釈は「空間に墨絵を描くような、どこまでも美しいピアノの独奏。端正で、かつ勇気にあふれた音の連なり。ひとつひとつの音が思考している。」

この演奏は内田光子の個性がよく現れた演奏であると同時に、それがうまく曲にマッチしているのだろうと思う。小澤征爾は言う。「この二楽章というのはもう、これ自体特別な曲ですよね。ベートーヴェンの中でもほかにこういうものはないような気がする」。二人が「うーん」とうなるほど感銘を受ける演奏を、私も手元のCDで聞き直してみることにした。

まず冒頭で嬉しいのは、コンセルトヘボウの素晴らしいアンサンブルである。木管楽器やヴァイオリンが見事に融合しながら、端正な音楽を形作っていく。その様子を優秀な録音が良く捉えている。ピアノが入ってくると、内田光子のよく考えぬかれた演奏が手に取るように広がる。音楽があふれるような身持ちで、一音一音大切にしながら、かといって情に溺れることはない。

そういう調子で長大なカデンツァに至る。もちろんベートーヴェン作曲のカデンツァである。ピアノ・ソナタを感じさせるその作品は、ベートーヴェンがピアニストであると同時に作曲家であり、その2つの要素が不可分であったことを示している。彼は自分が演奏することを想定してこの曲を書いたのだと思う。第2楽章の素晴らしさは、大作家の表現する通りだから、私は何も書く必要はないだろう。なお、小澤征爾はこの曲を1回だけ、ルドルフ・ゼルキンと録音している。この演奏も素晴らしいが、感銘という点では内田光子の演奏に及ばないというのが正直なところだ。もちろんこの対談集にも少し取り上げられている。


2014年9月10日水曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調(P:ウィルヘルム・ケンプ、フェルディナント・ライトナー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、ここに何かを書くのが難しい曲である。他のピアノ協奏曲と較べても華やかさに欠けるが、かと言って平凡な曲ではない。十分にベートーヴェンらしいということは疑いようがないが、交響曲の有名作品と比べると、存在は地味である。もう若いころの作品と言うほどではないが、まだ耳は不自由ではなく、いわゆる「傑作の森」まではまだ時間がある。

この曲は交響曲第1番が初演された1800年に作曲され、作曲者自身のピアノにより1803年に初演された。ハ短調という調性が示すように、この作品の異色ぶりは第5交響曲と同様、古典的な骨格を有しながらも悲愴的である。つまり個性的で、野心的な作品。

私はこの曲を初めて聴いた時のことが未だに忘れられない。コリン・デイヴィスの指揮するBBC交響楽団は、何と無骨な演奏をするのだろうと思った。第1楽章の冒頭ほどいろいろな意味でベートーヴェン的な野暮ったさを持つ作品はないとさえ思った。長い間この曲を聞く時は、私はいつもベートーヴェン臭さとでも言うべきものを感じ、そしてそれを楽しんでいた。

けれども第2楽章に至るとそのロマンチックで、それでいてとても内省的な曲の雰囲気に、他の曲にはない美しさを感じることとなった。全体が二拍子で書かれているようだが、何度聞いても私には六拍子に聞こえる。ただ技巧的でもなければ、綺麗なだけでもない。不思議な感覚はこの楽章の終わりまで長く続き、この曲の最も大きな聞きどころだと思う。それに比べると、第3楽章がいつもちょっと不足感を感じてしまうのは私だけだろうか。もしこの曲が他のピアノ協奏曲に比べて人気の点で劣るとすれば、第3楽章に原因があるのではないかと思う。

かつてベートーヴェンのピアノ協奏曲といえば、音楽評論家が口を揃えて褒め称える3人の巨匠の演奏を避けて通るわけにはいかなかった。すなわち、バックハウス、ケンプ、それにルービンシュタインだろうか。だが百花繚乱のピアノ協奏曲にあっては、今でもなお次々と個性的な名演が現れる。いつのまにかこれらの演奏は、一部のオールド・ファンの胸の中にしまわれてしまったかのようだ。その一人、ケンプのベートーヴェンは、ひっそりと我がラックの片隅に眠っている。

ケンプのピアノ協奏曲には、モノラルの録音(ケンペン指揮だったか)があり、これはその後のステレオ盤である。ここで指揮はライトナーが受け持っており、彼はNHK交響楽団への客演でもよく知られた指揮者だが、さりとて後世の名を残す名演奏があるというわけでもない。

ライトナーは天下のベルリン・フィルを指揮しているが、その演奏は普通である。加えてケンプのピアノも、何かをひけらかすようでもなく、つまりは全体的に大人しい演奏である。私は長年なぜこの演奏がかくも評判が高いのかわからなかった。そう感じた人も多かったのだろう。その結果、今ではあまり顧みられない演奏となってしまった。だが時折、その色あせた演奏を聞くと、これが実に意外にも、堅実にこの難しい曲の魅力を巧みにしかもそこはかと表現しているように感じられた。

余裕ある人が、その範囲できっちりと固めている。指揮や伴奏もその傾向に合わせられており、目立った不満がないばかりか、ちょっとした渋い演奏に聞こえてきた。その体験はちょっと不思議だった。今では第4番とともに、お気に入りの演奏である。なおケンプは独自のカデンツァを用いている。

ラフマニノフ:交響曲第2番ロ短調作品27(ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団)

昨年のラフマニノフ・イヤーに因んで、交響曲第2番を取り上げようと思っていたのに忘れていた。季節はもう4月。寒かった冬は一気に過ぎ去り、今ではもう初夏の陽気である。チャイコフスキーとはまた別の哀愁を帯びたロシアのメロディーは、やはり秋から冬にかけて聞くのがいい、と昔から思ってきた。...